自分REST@RT Hinako side(4)
事前に渡されているDVDと台本で何度も練習した。それでも、落ち着かない。これまでの仕事とは全く違う。
日菜子はコンビニで買ったサンドイッチを口の中に押し込みながら時計を見た。すでに午後2時を過ぎている。アフレコは午後4時からだ。食事を終えたら準備をして、スタジオに向かわないといけない。
金曜日。日菜子は『羽後なお美』としてアニメのアフレコに挑む。4月から放送が始まる『てんてこハーモニー』の第6話で、1回限りのゲストキャラクター役としてなお美が起用されているのだ。
『てんてこハーモニー』は4コマ漫画を原作とした、いわゆる日常系アニメである。高校の音楽科に通う女子生徒たちの賑やかな毎日を描いている。1話限定のゲストとはいえ、日菜子が演じなければならないのは主人公・
おまけに、主人公の麻衣役は小泉ともだ。彼女がなお美と非常に仲が良いことを、日頃からなお美の出演するラジオを聴いている日菜子はよく知っている。つまり、アフレコ現場では小泉ともに対して『なお美』として振る舞うことにも神経を使わなければならない。
「無理そうなら、体調を崩したとでも言って断ってもいいんだよ」
土曜日、一緒に台本や映像をチェックしているとき、なお美は日菜子に対してそう言ってくれた。自信が無さそうな日菜子を心配してくれたのかもしれない。だが、予定通りアフレコに臨むという日菜子の気持ちは変わらなかった。
「不安だらけだし、失敗もするかもしれませんけど……私、やりたいです!」
そう日菜子が宣言すると、なお美は少し笑い、それ以上何も言わなかった。
子どもの頃から憧れていた仕事。憧れるあまり、アイドルとして軌道に乗ってからは遠慮していた仕事。人格入れ替わりという奇妙な現象によって掴んだこの機会を逃すのは、あまりにももったいない。もしかすると、二度と関わることができないのかもしれないのだから。
日菜子は牛乳でサンドイッチを胃の中に流し込むと、支度を始めた。
スタジオには午後3時半ごろに到着した。多人数で同時に収録するからか、ゲームを収録したスタジオよりずっと大きい。
アフレコ以前に、まず挨拶をしっかりとしておきなさい、というのがなお美からのアドバイスだった。どんな現場でも当然ではあるのだが、特に今回『なお美』はゲストなのだから、ある程度関係性が出来上がっているレギュラー陣の中へ溶け込むためにも気を遣った方がいいということだった。幸い、台本に記載されているキャスト・スタッフの一覧を見たなお美から、面識がある人物と無い人物を教えてもらっている。『なお美』を演じながら、面識の有無に応じて態度を変える必要があった。さらに、日菜子自身は緊張しているが、経験豊富な『なお美』はこの程度で緊張するわけにはいかない。
(アニメの演技以前に考えないといけないことが山ほどあるなあ……)
日菜子は気が重かった。スタジオに入り、既に来ていたスタッフに挨拶をしてから、録音ブースのドアノブに手をかけた。台本を見る限り、若手人気声優がズラッと並んでいることが予想される。本当なら片っ端からサインをお願いしたいところだが、『なお美』である今はそういうわけにはいかない。堂々としていなくては。
「おはようございます!」
心を決めてドアを開ける。映像が映し出されるモニターの前に4本のマイクが立っている。それに対してコの字型の3か所に座席が設置されていた。そして座席には人気声優たちがずらりと座って……いなかった。
一人、女性がぽつんと座っているだけだ。まだ30分前だから、早かったのかもしれない。日菜子が拍子抜けしていると、ショートカットのどこか垢抜けない雰囲気の女性は、日菜子に気がついたのか慌てて立ち上がった、年齢は日菜子より少し上……20歳前後に見える。
「は、はじめまして!
日菜子が驚くほど、浅尾千春はガチガチに緊張している。自分以上に緊張している相手を見て、日菜子は少し気が楽になった。
「羽後なお美です。こちらこそ、今日はよろしくお願いします」
「は、はい!」
「……」
「……」
いかん、会話が止まってしまった。誰か他の共演者がブースへ入ってくる様子もない。先輩である『羽後なお美』としては、ここは余裕を見せておくべきか。浅尾千春の名前は台本に載っていたが、なお美は知らないと言っていた。事前にインターネットで検索もしてみたが、これといった実績も無いようだった。
「ええと、浅尾さんは新人なのかな?」
「はい、去年養成所を出たばかりなんです! この『てんてこハーモニー』が初めてのアニメレギュラーで……。と言っても、女生徒Aなんかのモブキャラですけど。それでも、もちろんお仕事があるだけありがたいんですが!」
「まだ慣れない?」
「やっぱり、まだまだですね! いつも失敗しちゃいますし。小泉さんに助けてもらってばかりです!」
「そうなんだ」
「今回羽後さんがいらっしゃることを楽しみにしていましたよ、小泉さん。久しぶりの共演だって、嬉しそうに」
「そ、そうなんだ……」
プレッシャーを感じてしまう。なお美ほどではないが、日菜子にとって小泉ともも憧れの存在である。小泉ともに『なお美』として見られるというのに、緊張しないのは不可能だ。
「おはようございまーす。いよお、ウゴウゴ! もう来てたんだ」
まさにその小泉ともの元気な声が入り口の辺りから聞こえてきた。振り返ると、小泉ともだけでなく、三人の女性声優も続いてブースに入ってくるところだった。
「おはようございます」
「おはようございますー。あ、羽後さん!」
「キャー、羽後さん! お久しぶりです!」
「みんな、久しぶりー。今日はよろしくお願いします」
平静を装って日菜子は言った。大丈夫、一気にやってきたのは驚いたが、いずれ彼女たちと顔を合わせるのはわかっていたのだ。慌てるようなことではない。
「みなさん、おはようございます!」
浅尾千春が90度腰を曲げてともたちにお辞儀をする。それを見たともが、
「もう、アフレコも6回目なんだからそんなにかしこまらなくっていいってば、浅尾ちゃん。それより、さっきはなにかウゴウゴと話しこんでたじゃない」
「ええ、ご挨拶と、ちょっとだけ小泉さんのお話を……」
「あら、なにそれ気になる。あたしの恥ずかしい過去の話でも吹き込まれた?」
「別に変なこと話してたわけじゃないって……」
日菜子は思わず口を挟んだ。
「だったらいいんだけどさ。浅尾ちゃん、将来どんな役柄でも演じられるオールマイティな声優になりたいって言ってたよね。だったら、このウゴウゴの演技は参考にしたほうがいいよ。きっと役立つから。男の子からお姉さんまで、器用にこなすタイプだから」
「え……」
「はい! わかりました!」
千春は素直にそう答えると、日菜子に向かって、
「改めて、よろしくお願いします、羽後さん!」
「え、ええ……」
「あっはっは、何ドキドキしてんの、ウゴウゴらしくもないなあ」
そう言って、ともが日菜子の肩を叩く。ともとしては冗談半分なのだろうが……。日菜子は千春の顔を見た。目がキラキラと輝いている。完全に尊敬の眼差しだ。
(そんな目で見られても、私はあなたと同レベルか、それ未満の演技しかできないよ……)
危ない。今の自分の心理状態は危ない。日菜子は直感したが、他の共演者たちもブースに続々とやってきた。もう、どうすることもできない。
そしてアフレコが始まった。
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