自分REST@RT Hinako side(2)

 朝、なお美の家のドアを開ける前に日菜子は大きく深呼吸をした。月曜日を迎え、これからラジオ局へ向かい『プリンセス・サバイバー』のWebラジオを収録しなければならない。『なお美』としての初仕事になるため、さすがに少し緊張している。ラジオ番組自体は日菜子も慣れている以上、問題点は結局『なお美』を演じることに尽きるのだ。

 だから、事前準備にしっかりと時間をかけた。日曜日は番組を何度も聴き直した。ラジオの台本も、アニメの台本も入念にチェックした。一緒にパーソナリティを務める樺沢春奈について、付き合いがあるからこそわかる情報を電話でなお美に教えてもらった。春奈以外の番組スタッフについても、なお美の家にあるパソコンに保存されていた写真を元になお美から説明してもらい、顔と名前をどうにか一致させることができた。ラジオ局の下見にも行った。やれることはやった、という自信はある。

 午前9時を過ぎ、ピークではないもののまだまだ混雑している電車に揺られながら、日菜子はなお美の言葉を思い出していた。

「ラジオと言ってもね、完全に素でしゃべってるわけじゃないのよ。放送してはいけない話なんかもあるわけだしね。あたし自身、『羽後なお美』を演じているところがあるよ。羽後なお美本人なのにおかしな話だとは思うけど、ひなこちゃんもわかるでしょ、感覚的に。だからね、まずは徹底的にあたしを……『羽後なお美』を演じるつもりでやってみればいいの。即興でお芝居するようなつもりでね。でも、どうやったって素の部分が出てくるのもラジオだと思う。『羽後なお美』だったらどう行動するかがわからなくなったら、そのときは、ひなこちゃんの思う通りにやってみるしかないんじゃないかな」

 まずは徹底的に『なお美』を演じる。行き詰まったら思うままにやってみる。大勢の乗客に体を押され、必死に吊り輪につかまりつつも、日菜子は心の中で復唱した。


「なお美さん!」

 玄関からラジオ局の中に入ったところで、背後から声をかけられた。それだけで、日菜子には声の主がすぐにわかった。自分が『なお美』であることを意識しつつ、振り返って返事をする。

「おはよう、春奈ちゃん」

「おはようございます!」

 ウェーブがかかったセミロングの髪に、ぱっちりとした大きな瞳をした小柄な女性。声優雑誌やネットの動画番組でしか見たことのない、樺沢春奈がそこにいた。

(本物のかばさーさんだぁぁ……)

 叫び出したくなるミーハー心を、日菜子はなんとか抑えた。あくまで今の自分は『なお美』だ。樺沢春奈より一回り年上の先輩なのである。

「なお美さぁん、聞きましたよ。西村日菜子ちゃんと対談したんですよね」

 いきなり日菜子の話題を振られたので、さすがに動揺した。

「え、ああ、もう知ってるんだ。そうだよね、ひなこちゃんはブログに書いてたもんね」

「そうそう、ネットでかなり話題になってましたよ。いいなあ、羨ましい。ひなこちゃんがすごく憧れてるってのが、またいいですよね」

「あはは……。まあね」

「どんな子だったんですか? ひなこちゃんって」

「ええと、そうだなあ。けっこう普通の子だよね。普通の若いアニメオタクって感じ」

「そうなんだー」

 何も知らず無邪気に話しかけてくる春奈に対して、日菜子は内心ヒヤヒヤしていた。これから番組を2本分録音する間、違和感を与えずに乗り切ることができるだろうか……。ここに来て、日菜子は急に不安になってきた。


 番組スタッフとの挨拶や打ち合わせは、どうにか当たり障りなくやり過ごすことができた。春奈と二人で、録音ブースに入る。マイク等の機材の使い方は、何度もラジオ経験がある日菜子にとって、確認せずともわかるものだったので安心した。『なお美』になりきって番組を進めることに集中できるはずだ。

 ディレクターが合図をする。

「ラジオ・プリンセス」

「オンエアー!」

以前になお美と春奈が録音しているタイトルコールが響く。その直後、『プリンセス・サバイバー』のオープニング曲が流れ始めてから、日菜子は『なお美』としての第一声を発した。

「『ラジオ・プリンセス・オンエアー』! この番組は絶賛放送中のテレビアニメ『プリンセス・サバイバー』の魅力をご紹介するラジオです。アリシア・スカーレット役の羽後なお美と!」

白神沙羅しらがみさら役の樺沢春奈がお届けしていきまーす! 今週も私達は生き延びることができるのでしょうか!」

 日菜子はいつもパソコン越しに聴いている決まり文句が自分の口から発せられていることに感動を覚えつつ、番組の進行を考えた。まずはフリートークから入らなければいけない。

「なお美さん、どうしたんですか今日は。いつもよりテンションが低いみたいですけど」

 向かい合う春奈から話を振ってくる。日菜子はテンションが低かっただろうか、と思い起こしながら、

「そんなことないよ。いつも通りいつも通り」

「嘘だあ。いつもなら、私が挨拶したら『春奈ちゃーん!』とか言いながら抱きついてきたりするじゃないですかー」

「しないよ、しないよ!」

 日菜子は慌てた。そんなこと、なお美から聞いていない! 何やってるんだ、あの人!

「まあ、いつもってわけじゃないですけど。何度もぎゅってされたことありましたよ。何かあったんですか」

 春奈は笑顔だが、声色からはなお美のことを本気で心配しているように感じられる。日菜子は腹を決めた。

(行き詰まったら、思うままにやってみる!)

人格入れ替わりという重大な事柄を隠そうと思ったら、それ以外についてはありのまま話したほうがいい、と日菜子は判断した。そういくつもの事実を隠したまま樺沢春奈と渡り合うのは不可能だ。

 日菜子は意識して元気無さそうに事実を言った。

「いやぁ、実はね、3日ほど前に階段からうっかり落っこちちゃいまして。体中が痛いのよ、今も」

 春奈は驚きを隠さない。

「えっ! 大丈夫なんですか、ちょっと」

「まあなんとかね、体中に湿布は貼ってるんですけれども」

「えええ……」

 春奈もリアクションに困っている。それを見て取った日菜子は一転して極端に明るい調子で、

「そんな満身創痍の三十路声優がお送りしています、ラジオ・プリンセス・オンエアー!」

「ふふっ」

 春奈が吹き出したことを確認し、日菜子は続けた。

「今回の配信日には、一番早い地域でアニメは第10話が放送されているんですね。クライマックスですよ、いよいよ」

「そうですね、盛り上がっているところでございます」

(乗り切った!)

 日菜子は心の中でガッツポーズをした。


 その後は、特に問題なく収録が進んだ。アニメについてのトークでは、なお美に無理矢理台本を読まされ、アフレコの様子を聞かされたことが大いに役立った。リスナーからのメール紹介やコーナーも、無難にやり過ごすことができた。春奈に指摘されたこともあり、意識して普段よりテンションを上げるようにしたので精神的に多少疲れはあったが、心地良くもある。

 

「なお美さん、この後お昼一緒にどうですか? 私もう、おなか減っちゃって」

「えっ」

 2回分の収録が終わると、春奈が声をかけてきた。時刻は午後1時を過ぎており、日菜子も空腹感を覚えていた。なお美からも、収録後に何度か春奈と食事に行ったことはあると聞いている。日菜子としても、業界の最前線で活躍する樺沢春奈と、番組以外でもっと話してみたいという気持ちがある。だが……。

「ごめんね、本当に体がまだ痛くてさ。病院にも行かなきゃいけないし、今日は遠慮しておくよ」

「あらー、残念」

 体が痛いのは事実だが、病院に行く予定はない。しかし日菜子としては、明日以降3日間続くゲームのアフレコに向けて、台本をじっくり読んでおきたいところなのだ。もっぱらWebラジオ対策に時間を取られて、あまり手が回っていない。

「じゃあ、また今度行きましょうね」

「うん」

「ひなこちゃんとの話、もっと聞きたかったんですけどねー」

 春奈は本当に残念そうな顔をしている。日菜子は、以前咲月が春奈について話していたことを思い出した。子役から声優に転向した春奈が、ハニハニをどう思っているのか……。

「……やっぱり、ハニハニには思うところがあるのかな、春奈ちゃん」

 遠慮がちにたずねてみる。

「うーん」

 春奈は少し考えると、

「ひなこちゃんはともかく、咲月ちゃんは子役時代の知り合いですからねえ。どうしてもこう、私にもああいう道があったのかなって、テレビでハニハニを見ると考えちゃうことはあります、正直」

「そう……」

「でもね、なお美さん」

 春奈は相好を崩して、言った。

「後悔なんかは全然していませんよ。自分で選んだ道ですからね。なお美さんもそうでしょ?」

「うん」

 堂々とした春奈の勢いに押され、日菜子はうなずいた。

(自分で選んだ道……)

 ありふれた表現かもしれないが、春奈の言葉は妙に日菜子の心に残った。


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