自分REST@RT Naomi side(2)

 夕方になると、日菜子の携帯電話に与謝野から電話がかかってきた。日菜子と一緒に台本を読んでいたなお美が電話に出ると、

「もしもし?」

『日菜子の声……ということは、羽後さんですか』

「そうです」

『あと30分くらいでそちらに行けそうですよ』

「わかりました。お願いします……あ、そうだ。どうせなら、最寄りのスーパーの場所を教えますから、そこで待ち合わせしませんか。日菜子ちゃんはこれからしばらく一人暮らしするわけで、いろいろ今のうちに買っておいたほうがいいと思うんです」

『了解です』

 スーパーの場所を与謝野に教えると、なお美は日菜子とともに外出の準備を始めた。


 なお美の家から徒歩で10分ほどの場所にあるスーパーの駐車場で、二人は車で来ていた与謝野と合流した。

「一応変装しているとはいえ、日菜子の姿であまり外に出てほしくはないんですけどね」

 開口一番、与謝野が言う。なお美はカチンときたが、

「言ったでしょ。ひなこちゃんは今後しばらくあたしの家で暮らす必要があるんです。あたしが何かと教えてあげないといけないでしょうが」

 意識して冷静に言った。

「そうでしたね、それは申し訳ございません」

 与謝野が慇懃無礼に答える。

「やめてくださいよう。ほら、買い物しましょう、買い物!」

 日菜子があわてて間に入った。なお美はため息をつく。アイドルに気を遣わせてしまって、いい大人二人が何をしているんだろう。


 三人でショッピングカートに買い物かごを乗せ、店内を歩く。

「ひなこちゃんはお料理できるの?」

「いえ、全然……。覚えなくちゃいけないんでしょうけど」

「ま、忙しいもんねえ。この状況だと台本チェックなんかに追われて料理する余裕ないだろうし、レトルト系を多めに買っておきますか」

「はい」

 なお美と日菜子が、適当にレトルト食品をかごに入れる。

「感心はしないが、仕方ないか」

 与謝野は不満そうだ。とことんこの人とは合わないな、となお美は思う。なお美が日菜子を演じるにあたって、与謝野のサポートは不可欠だ。仕事ができる人間なのは間違いなさそうだが、果たしてうまくやっていけるのだろうか……。

 そんなことを考えていたので、ビールが陳列された棚の前を通った時、条件反射的に缶ビールに手を伸ばしていた。

「ストップ!」

 気が付くと、与謝野に手首を掴まれていた。

「今、何をしようとしてたんです、羽後さん」

「何って、ビールを……あ」

「あのねえ、今のあなたは17歳の『西村日菜子』なんですよ羽後さん。万が一にでも、お酒を買ったり飲んだりしているところを見られたら、取り返しがつかないことになる」

 声は決して大きくないが、怒りがこもっているのが感じられる。

「……すいません」

「申し訳ないですが、『日菜子』でいる間は酒とタバコは勘弁して下さいよ」

「わかりました。気を付けます。あたしお酒は好きですけど、タバコは吸わないのでご安心を」

「それならけっこう」

「与謝野さん、それくらいにしてください」

 日菜子が間に入ってくれる。だが、与謝野は続ける。

「飲酒・喫煙・恋愛は致命傷になるんだよ、アイドルにとっては。ああ、念のため聞きますが、つきあっている男性はいませんよね、羽後さん」

「なんでいない前提で聞いてくるんですか!」

「じゃあいるんですか」

「いませんけれども!」

 なんだか泣きたくなってきた。


 三人は買い物を終えると与謝野の車でなお美のマンションへ戻り、夕食をとった。時間が惜しいこともあり、レトルト食品や惣菜が中心になってしまった。

 後片付けを終えると、すでに夜の7時半だ。

「では、そろそろ戻りますか、羽後さん」

 そう言って、与謝野が立ち上がった。なお美は黙ってうなずく。明後日からは『日菜子』としての仕事が始まることになる。明日中に覚えておかなければいけないことが山ほどあるのだ。逆に『なお美』を演じる日菜子のことも心配だが、お互いがやるべきことをやらなければならない。

「それじゃ、なお美さん、ケータイ交換しましょう」

「そうね」

 なお美と日菜子はお互いの携帯電話を交換した。『日菜子』を演じるなお美が日菜子の携帯電話を、『なお美』を演じる日菜子がなお美の携帯電話を持つことになる。これまでは二人がともに行動していたから問題にならなかったが、今後しばらくはなお美と日菜子が顔を合わせることはできなさそうなのだ。なお美は『日菜子』として、日菜子は『なお美』として、ある程度は友人や知人からの連絡に対応しなくてはならない。ボロが出ないよう、無理に電話に出たり返信したりはしない、と二人で決めてはいるが、なお美は不安だった。

「明日はそれぞれが自分で仕事について準備しつつ、わからないところはお互い連絡を取り合うんだったな」

「そうです」

 与謝野が確認してきたので、なお美が答えた。

「羽後さんのほうは、ある程度なら俺がサポートできる。咲月だって入れ替わりの事情は知らないが、力になってくれるだろう。心配なのは日菜子だよ。ほとんど一人で何もかもやらないといけない。大丈夫なのか」

 与謝野が日菜子を気遣う。与謝野の心配は、なお美にも理解できた。だが日菜子は意外にも平気な様子で、

「もちろん、不安はいっぱいですよ。きっと失敗もすると思います。でも、今は楽しみな気持ちのほうが大きいです。思いもしなかった形ではありますけど、ずっと憧れてきた声優のお仕事ができるんですから」

 そう言って『なお美』の顔で笑うのだった。


「ひなこちゃんは、声優になりたかったんですね」

 日菜子の家まで送ってもらうため車の助手席に乗り込むと、なお美は運転席の与謝野へ話を振った。

「まあ、その辺りはなかなか複雑でしてね」

 与謝野はマンションの駐車場から車を発進させると、話を続ける。

「もともとあの子の根っこにあるのは、羽後さんとの対談でも言っていた通り『リズメロディ』への憧れなんでね。アイドルである主人公への思いと、彼女を演じた羽後さんへの思いが不可分なんです。アイドルと声優、両方やりたいとオーディションのときに言っていました」

 与謝野は懐かしそうにしている。

「でも、もっぱらアイドルとしての活動がメインですよね」

「デビュー直後から予想以上にブレイクして忙しくなってしまった、というのが正直なところですね。本人の希望もあることだし、私も当初は声優の仕事を取ってこようとも考えていたのですが、それどころではなくなってしまった。あるいは、アイドルとしてパッとしなかった場合は、本格的に声優へ移行するのも本人にとって良いかもしれない、とも思っていました。いるでしょう、そういう人」

「いますね」

 なお美は同意した。ベテランでも若手でも、元はアイドルだった女性声優を何人か知っている。

「日菜子本人も、アイドルは声優になるまでの足掛かりでもいい、と言ってましたよ。だが実際はアイドルとして人気が出過ぎ、声優の仕事にまで手が回らなくなってしまった。日菜子もその状況は自分でわかっていて、しばらくはアイドルに専念するつもりだったようですね。売れっ子の立場を利用して、専業の声優さんの仕事を奪うのも嫌だったようです。あ、この辺りはお話したような気がしますね」

「そう言えば、階段から落ちる直前にそんな話をしましたね。すっかり忘れていました」

 昨日のことなのに、遠い昔のように思える。

「あのとき、アニメ映画の主人公役でひなこちゃんが声優デビューするっておっしゃってませんでしたか、与謝野さん」

「ええ。本当のところは日菜子が声優をやってみたいのはわかっていますし、私の独断で取ってきたんですよ。まだまだ企画段階で正式決定ではないとはいえ、どうしたものかねえ……。こんなことになるなんて、思いもしませんでしたから」

 赤信号で停車すると、与謝野はなお美に向き直った。

「羽後さん、もしこのまま元の体に戻れなかったら、『日菜子』を演じたまま映画で声優やりますか」

「ひなこちゃんを演じながら、さらに役を演じるわけですか。想像もつかないなあ」

 なお美は苦笑した。そして、すぐに気が付いた。『なお美』を演じながらゲームやアニメのキャラクターを演じなければならない日菜子がまさにその状況なのだ。

「大変だなあ……ひなこちゃんも、あたしも」

 なお美はつぶやいた。心配事は山ほどある。とりあえずは目の前の仕事があるから忘れがちだが、いつまでお互いがお互いを演じればいいのか。どこかで破綻すればどうなるのか。仮になお美が上手く『日菜子』としての仕事をこなしても、日菜子が失敗すれば『なお美』の業界内の信用は地に落ちることになる。その逆もしかり、だ。

 そして何より、元の体に戻ることはできるのか。一生このままなのか……。

「今はあまり先のことを考えても仕方ないですよ、羽後さん」

 与謝野はなお美の不安を見透かしているようだった。信号が青に変わる。与謝野は車を発進させ、

「私としても、少しでも長く隠し通したいと思っていますが……限界が来れば、諦めるしかないでしょう。羽後さんもなお美も潔く仕事を止めて、元に戻る方法を探すしかない。病院や研究機関にでも駆け込んでね。そうなると私は会社から首を切られるかな。ドル箱のアイドルを失うわけですから。6月にはドームでのライブもあるっていうのになあ。あっはっは」

 自嘲気味に笑う。

「ま、月曜日からの1週間くらいはアイドルやってみましょう、羽後さん。それから今後を考えましょう」

「そうするしかないですかね……」

 大きな不安感から逃げるため、なお美は頭を切り替えた。ここは与謝野に乗るしかないのだ。

「羽後さんは、アイドルやることに抵抗はないんですか。ほとんどアイドルに近い存在の声優さんもいるみたいですが」

 与謝野が話を変えてきた。

「積極的にやりたいわけじゃないですよ、あたしは。向いてないと思うし。今の状況だと仕方がないからやるだけで。子どもの頃は人並みにアイドルに憧れましたけどね。『リズメロディ』でアイドルを演じたこともありますが、アイドルだったのはあくまであたしが演じた主人公のりっちゃんでしたから」

「tetraぽっぷのことは?」

 不意打ちだった。思わず与謝野の顔を見てしまう。だが与謝野は平然と前を見て運転している。

「……ご存じだったんですね」

「日菜子との対談を申し込む前に、羽後さんのことは調べさせていただきましたから」

 約5年前、なお美は当時所属していた事務所の女性声優三人とともにアイドル声優ユニットを組んだ。それが『tetraぽっぷ』である。2年足らずの間アイドル的な活動をした後、『tetraぽっぷ』は解散した。なお美が事務所を辞めてフリーになったのは、それから程なくしてのことだ。

「ノーコメントでいいですかね、tetraぽっぷのことは」

「わかりました」

 与謝野はあっさり引き下がる。やはりこの男は食わせ者だ、となお美は思った。

「でも、『日菜子』を演じることになると、役に立つんじゃないですか。tetraぽっぷでの経験も」

「それはそうかもしれませんがねえ」

 与謝野の言葉も間違ってはいない。窓の外を流れていく夜景を見ながら、なお美は考える。

 アイドルって何だ。声優って何だ。……演じるって、何だ。


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