第一章

「良く似合っておる」

 葛妃は頷く。

 ライダーのようなプロテクター付きの革の上下に赤い陣羽織。顔の下半分を面頬で隠しているがそれは可彦に他ならなかった。

「この陣羽織は?」

「それは倭文織しずおりの特別な品じゃ。今風にいえばマジックアイテムじゃな」

「へぇ……」

 マジックアイテムという言い回しも随分古い気がするが、可彦はそれは黙っていることにした。

「良くお似合いです。若」

「本当に」

 脇に控えていた二人の女性が口々に褒める。背の高い強靭そうな体格をした野袴のばかま姿の女性と物腰の柔らかな優しそうな割烹着かっぽうぎの女性。間逆のタイプに見えたがその顔立ちはそっくりだった。

「ありがとう夜尺やさかさん、夜筑やつくさん」

 可彦は二人の言葉を素直に受け取る。二人とも可彦が物心ついたときには家にいた二人で、使用人というよりも可彦にとっては歳の離れた姉のような存在だった。もっとも葛妃同様、その本当の年齢は知れない。

「夜筑。首尾は」

「すでに陣触れは発しております」

 夜筑と呼ばれた割烹着姿の女性は葛妃の問いかけに静々と答えた。




「あなたどうしたの?押入れからそんな箱取り出して」

「久しぶりのお祭りだ」

「お祭り?」

 彼女がこの家に嫁いで五年、初めてのことだった。

「ああ。店のほうはちょっと頼む」

 男は弾む口調で箱を開けた。

「今回の祭りはちょいと盛り上がりそうだ」



「課長すみません。有給をとりたいのですが」

 入社一年目の社員が頭をさげる。

「なんだい急に。お前が珍しいな。何かあったのかい」

「呼び出しが」

「ああ」

 課長は訳知り顔でうなずいた。

「社長から聞いてるよ。君も大変だなぁ。初めてかい?」

「はい。継いでから初めてです」

「しっかりやれよ」

「はい」



「おばぁちゃーん。それじゃあいってくるねー」

 ジーンズ姿の娘が声を上げる。

「今から大学かい」

「ちがうよ、陣触れだよ」

「おや、本当かい?」

 祖母と思しき女性は目を細める。

「気をつけておゆきよ。佐伯の刀自様や夜尺様、夜筑様にもよろしくなぁ」

「うん。わかった」

 娘は玄関でスニーカーをはくとナップサックを背負う。まるでどこかハイキングにでも行くような姿。

「で、どこまで行くんだい」

 娘はスマートフォンを取り出し、タップする。

「えっとね。青柳夜雨だって」

 その言葉に老婆は目を細める。

「ほぉ。とうとう八卦陣に仕掛けなさるか」

 その言葉は感慨深げに響いていた。




「刀自様」

 広間の上座、床机に座る可彦は葛妃に問いかける。

「青柳夜雨って青柳町の石碑だよね」

「そうじゃ。いまは水戸八景のひとつとされておるな」

「うん。知ってる」

 可彦は頷く。うなずくがその動きは浅く、どこか曖昧だった。

「なんじゃ?心配事か?」

 葛妃も怪訝そうに首を傾けた。

「よもや成すべきことを忘れたわけではあるまい?」

「いや、それは判ってるよ。この身体に染込んでるし」

「ならばなんじゃ?」

「なんで水戸八景の石碑でそんなことするのかなぁって」

 可彦の言葉に葛妃は首を傾げる。可彦の目にそれは何かを考えるというより、そもそもその言葉の意味が判らない、といった感じに映った。呆然としているといってもいい。しばらくそうやって目を泳がせてから、葛妃は夜尺を見る。夜尺は肩をすくませて見せる。こんどは夜筑を見る。夜筑は下唇に人差し指を当てて小さく微笑んでみせる。

葛妃の視線は再び可彦に戻る。可彦もその視線に視線を合わせる。その視線を受け止めて可彦は微笑む。その微笑みを見て葛妃がほほ笑む。

「夜尺!」

「は。なにか?」

「……夜筑!」

「はい。なんでしょうか?」

「……」

「僭越ながらご教育は姫様がなされているはずでは?」

 夜筑は葛妃のことを『姫』と呼んだ。そして微笑む。

「……うむ……そうじゃな」

 ……

……

……

「そもそもおかしいと思ったときに何故すぐに聞かぬ!」

「え!僕なの?」

 その言葉とは裏腹に、落ち着いた、というより冷めた声。

「僕なの?」

「ぐ……ぬぬ……」

 優しげな眼差しで、しかし可彦の言葉は鋭い。

「吾の落ち度じゃな。すまぬ」

 葛妃はがっくりと肩を落とす。しかしその声はどこか嬉しそうでもあった。

「まだ時間はあるな」

「はい」

 夜筑の答えに葛妃は頷く。

「では手短に伝えておこうか」




「さて、どこから伝えるか」

 ホワイトボード上段には

【土蜘蛛集中講座直前編】

と書かれていた。

「初陣の心構えを新たにするという意味で、簡単にはじめからお浚いしてはいかがでしょう?」

「うむ、そうじゃな」

 葛妃もうなずく。

「まぁあまり細かくやるとしつこいし、眠くなるからな、ざくっといくか」

【大昔】

「うわ、本当にざっくりだ」

ホワイトボードに書いたその文字を葛妃は叩く。

「この地は国津神くにつかみの眷属たる吾と、それに連なる佐伯の民が支配しておった」

 ホワイトボードの中央に丸を描き、そこに『佐伯』と書き込む。

「しかしこの国を支配せんとする天津神あまつかみと、その眷属が吾に服従を求めてきた。吾が拒むと奴らは討伐軍を差し向けてきた」

 もうひとつの丸を描き、そこに『大和やまと』と書く。そしてそこからはじめに書いた佐伯の丸に太い矢印を描く。

「その討伐軍の総大将が黒坂の祖、黒坂命くろさかのみことじゃ」

 矢印の中に『黒坂命』と書き込む。

「吾は口惜しくも黒坂命に敗れるわけだが、本当に死ぬかと思ったぞ」

 葛妃はその首に手をやると、首の周りを一周するうっすらとした跡を撫でる。

「首を斬り落とされるのは二度とごめんじゃ」

「普通死ぬよね」

「そこは眷属といえども神と呼ばれた身じゃからな」

「物の怪の類まで貶められてしまいましたが」

 夜筑の言葉に葛妃はこぶしを振り上げる。

「そもそも土蜘蛛などという呼称が気に食わん!やけに知名度がついてしまった故に便宜上使っておるが……気に食わん!」

「しかしわたしたちは世に知られてこそ力を発揮できます。そのためにはやむおえません」

「だいたいこの地を茨城と呼称するのも気に食わん!吾を茨を使った姦計に嵌めたのをこれ見よがしに喧伝しおって!それに!」

「姫様、お話がそれております」

 可彦は眠そうに、それでもまだホワイトボードを見ていた。夜尺に至ってはすでに船を漕ぎ始めている。葛妃は気を取り直したように咳払いをすると、柏手を打つ。澄渡る破裂音が広間に広がり、二人の背がすっくと伸びた。

「佐伯と黒坂の因縁は、まぁこんなところでいいか」

 葛妃はホワイトボードをくるりと回転させる。新たに真っ白な面が表に出る。

水戸八景みとはっけい八卦陣はっけじん

 ホワイトボードにはそう書かきこまれた。

「さて、本題じゃ」

 葛妃はホワイトボードに一つ丸を描く。

「八卦陣は天津神が国津神の力を抑えるために用いた要石かなめいしじゃ。その名の通り八か所に置かれておる」

 さらにその周りに八個、小さい丸を描いていく。

「この要石は時代と共に忘れ去られていってな、こちらとしては都合がよかったのじゃが斉昭が目をつけおってな」

「斉昭って徳川斉昭とくがわなりあき公?」

「そうじゃ水戸藩第九代藩主のな」

 大きな丸の周りを囲む小さい丸。その一番うえから時計回りに文字が添えられていく。

太田落雁おおたのらくがん

村松晴嵐むらまつのせいらん

水門帰帆みなとのきはん

巌船夕照いわふねのゆうしょう

広浦秋月ひろうらのしゅうげつ

僊湖暮雪せんこのぼせつ

青柳夜雨あおやぎのやう

山寺晩鐘やまでらのばんしょう

「と、洒落た書を刻んだ石碑を建て、水戸八景と称しおった。ここまではいいか?」

「なんで石碑を建てたの?」

 可彦の問いに葛妃は頷く。

「藩士たちを巡らせ、足腰の鍛錬をさせたとしているが、本意はそこではない。人が巡るとは即ち気が巡ることであり、気が巡れば即ち気が練られ、気が練られれば即ちそれは力となる。斉昭の狙いはそこにある。そうやって気を巡らせ気を練り上げて、要石を復活させたわけじゃ」

「なぜそんなことをしたの?」

「当時は幕末で世が乱れておったからの。世が乱れれば魑魅魍魎の類も蠢きだす。それを抑えるつもりだったのであろう。まったく迷惑この上ない」

 葛妃はホワイトボードを叩く。少しささくれた音が響く。

「しかし、吾等にとって益がなかったわけでもない」

 手にしたペンで軽くボードを叩く。今度は少し軽やかな音が響いた。

「国津神を抑えるための要石。ゆえに吾等ではその場所が特定しにくかったのだが、おかげでその場所は割れた」

「でもそれって僕が生まれるずっと前だよね」

 可彦の言葉に葛妃は笑う。

「あたりまえじゃ。天保四年の話じゃ。西暦だと……」

「1883年です」

 夜筑の答えをそのままホワイトボードに書く葛妃。

「それで?」

「いや、いままでなんで八卦陣を攻め落としていないのかなって」

「ふふふ、痛いところを突きおるな」

 しかしその声はやはり明るい。それは生徒の成長を喜ぶ師に似ていた。

「結局のところ、吾等を封じるための物を吾等ではどうすることもできなかったのじゃ。無論封印の力を削ぐべく腐心はしたが、文字通り削ぐのがやっとじゃ」

「壊すことはできなかったの?」

「ものは簡単に壊すべきではない」

 可彦の問いに葛妃は語彙を強めた。

「壊したら元には戻せぬからな。それに吾等はなにもこの世界を壊したいわけではない。ただ正当な居場所が欲しいだけじゃ」

「はい」

 可彦も背を伸ばし答える。

「それを心掛けよ」

 無言で頷く可彦。しかしその静かな頷きは声よりもはっきりと聞こえてきた。葛妃も無言でその決意を受け止める。

「でも刀自様たちが無理なのに、人間の僕がどうこう出来るのかなぁ」

 決意の緊張を打ち消すように少し頼りなげな声を出す。

「人間なればこそじゃよ」

 可彦の気弱な疑問に対する葛妃の答えは明快だった。

「人間なればこそ、お前は要石を操ることができる。もっとも素質は必要じゃがな」

「素質?」

「お前はお前が思っているよりも稀有な存在だということじゃよ」

「それってやっぱり父さんや母さんの……」

 そこまで話して可彦は口をつぐむ。可彦の両親は可彦が物心つく前に他界していた。事故に巻き込まれ、奇跡的に可彦だけが助かったと聞いていた。しかし葛妃はそれ以上のことを話したがらなかった。可彦も記憶が薄いゆえに追求することはなかったが、弾みで漏れることはある。

「そうじゃな」

 葛妃は露骨に避けようとはしなかった。無論、それ以上語ろうともしなかったが。

「姫様。そろそろ刻限かと」

 今まで眠そうにしていた夜尺の一声が全てをかき消す。よく通るその声は皆を乗せて動き出すには十分な質量をもっていた。

「では行くか!」

【出陣】

 葛妃はホワイトボードに大きくそして力強く書き込んだ。

「おっと……忘れるところであった」

 可彦が立ち上がろうとしたとき、葛妃が思い出したようにもう一つの文字を書き込む。

【夜都賀王】

「えっと……それは?」

「やつかおう」

 葛妃はそう答えた。

「お前の名じゃ」

「僕の?」

「戦場で『可彦』と呼ばれては、いささか不都合であろう?」

「あ……そうか」

「以後、佐伯衆大将たるお前は『夜都賀王やつかおう』じゃ。皆も良いな!」

 



「お待たせしました」

 白いバンから降りた男が深々とお辞儀をする。男は顔を隠すようにお面をかぶっていた。

 口を大きく開き、噛みつかんばかりに牙を剥き、眉間に皺を寄せ全てを憎むかのように目を見開き睨み付ける男の面。もしここに能楽に詳しいものがいたならば、その面はしかみだと気がついただろう。

「あれ?ひょっとして源おじさん?」

「ん?その声は可坊だな。そうか初陣か。恰好いいじゃないか」

「えへへ」

「これこれ、源蔵」

 葛妃は少し眉間にしわを寄せ、それでも笑いながら源蔵と呼ばれた男を窘める。

「一応お前たち佐伯衆の大将じゃ」

「おっと、そうでした。これは失敬」

「お前もお前じゃ、その格好の折は別の名じゃと教えたばかりであろうが」

「あ、そうか……えっと」

「夜都賀王じゃ」

「夜都賀王です」

「夜都賀王……恰好いい名前ですなぁ」

 源蔵は何度も噛みしめるように頷く。

「因みにおっちゃんのことは『壱介いちすけ』て呼んでくれ。刀自様も」

「ああ、そうであったな」

 葛妃の笑みが広がる。

「余りに久しいので忘れていたわ」

 何気なく可彦の目がバンの側面に向く。そこには大きく『佐伯酒店』と書かれていた。お面に偽名。他の意味があるのかもしれない、可彦はそう思うことにした。

「そういえば壱介殿は御結婚なさったんでしたよね?」

「いやぁ、あの時は大変なご祝儀までいただいて」

 夜筑の言葉に源蔵改め壱介は頭をかく。憤怒面の下の顔が真逆に緩み切っているのは想像に易い。

「我が一族が繁栄するのは喜ばしい限りじゃ。あれから何年になる?」

「もうすぐ五年です」

「となると先の陣触れが七年前だから……結婚して初めてか」

「そうなりますね。夜尺様」

 夜尺が小さく口元を歪める。そこから現れたのは冷やかしという祝福。

「あんたのことだからいきなり飛び出してきたんだろう。愛想つかされなきゃ良いけどね」

「はっはっは。それはあり得ませんよ」

 夜尺の言葉を壱介は笑い飛ばす。

「自分でいうのもなんですが、あれは本当によく出来たやつでして」

「おじさんタオル持ってこようか? 首筋がびっしょりだよ? そんなに暑いかな」

「大丈夫大丈夫、だいじょうぶ」

 壱介はなおも笑いながらバンのスライドドアを開ける。

「そんなことより乗ってください。現地には他の連中も集まっているはずです。久しぶりの祭り、景気よく行きましょうや」




土手の下にある空き地にバンが停まる。

一向はバンを降りてしばし歩いた。

「あそこだよね?」

 可彦が指差した先に一本の柳の木。暖かい日差しの下、その枝がゆるゆると、時折激しく揺れている。その風だけがまだ冷たい。そしてそこに、二人の人影があった。

 片方は壱介と同じ面を、もう片方は顔を白く塗った女性の面を。それは小面こおもてと呼ばれる能面だ。そしてその面を付けた人物は、その面の示す通り女性に見えた。

 その小面の女性が一向に気が付いたように大きく手を振る。顰面の方は深々と頭を下げた。

 葛妃が目を瞬かせる。風のせいでごみが目に入ったのか、目をこすって今度は凝らしてみる。

「あれは弐姫にひめ参麿さんまろか?」

「双方先代より名前を継ぎました。彼らも初陣です」

 壱介の言葉に葛妃の顔が見る間に綻んでいく。

「おお、おお! あの童どもか! いや、立派になったものよ!」

 見た目では葛妃よりも年上に見える。その二人が一行を出迎えた。

「お久しぶりです。刀自様!」

 小面をつけた女性が跳ねるようにお辞儀をする。肉付きの良い身体が心地よく弾む。

「大学は楽しいかい?」

「おかげさまで」

「あ、紗江ねぇ」

 そこまで口にしたところで、小面の女性の指が可彦の唇に触れる。

「弐姫です。えっと」

「夜都賀王じゃ」

「夜都賀王です」

「よろしくね!えっと……夜都賀様?それとも王様?」

「どっちでもいいけど」

「ここは尊称は付けずに『夜都賀王』と呼んだ方が良いんじゃないかな?」

 そう提案したのはもうひとりの男だった。背広姿の背の高い痩せた男性。

「お前が参麿か! あのちびで泣き虫だった小僧が本当に立派になったのう。もう就職したのだったな」

「はい刀自様」

「もしかして快にぃ」

 やはり手を差し伸べて可彦の言葉を制止する。

「参麿です。夜都賀王」

「なんかやっぱり呼びにくいよそれ。わたしは王様って呼ぶ!」

と弐姫。

「大将で良いんじゃないのか?」

これは壱介。

「うわーばらばらだ。いいけど」

 温かい春の日差しが和やかな空気を温かくする。

「それで他の人は?」

「集まったわね。土蜘蛛さん!」

 可彦の言葉をさえぎって、風に乗り響き渡るその声は、その覇気とは裏腹に弾むように軽やかに、そして、可彦を貫いていった。




 土手の上に仁王立つその姿は、銀色に輝いていた。

 銀色に輝くのは両手に付けたガントレットと両脚につけたレギンス。

 そしてブレストプレートにサレット。

 ブレストプレートには薔薇の紋章、サレットにはウサギの耳を模した脇立てがあしらわれている。

 そのサレットによって顔は隠れているものの、それが誰かは可彦にもはっきりとわかった。

「ほ、これは予想外じゃ。面白いのが出張ってきたの」

 葛妃は可彦の横顔を見ながら、目を丸くする。その声は明るくも冷たい。

「さて、どうする?」

 葛妃が自分を試していることは可彦にもよくわかった。無論戦場に私情は持ち込まない、その約束だった。

 しかし逡巡するよりも先に、兎耳の騎士が動いた。

「我が名はハーゼ・フォン・ローゼンブルグ! シュワルツヒューゲルの誓いにより、推参!」

 腰に差した細身の剣を引き抜くと、まずは顔の前に立て、それからまっすぐに突っ込んでくる。銀が輝くその姿は、まるで風自体が煌めいているかのようであった。

「早い!」

「夜尺! 夜筑!」

 まっすぐと突っ込んで来るその進路に、夜尺、夜筑の両名が割って入る。夜尺は大きな銅鐸どうたくを両手に一つづつ、夜筑は銅剣どうけんを両手に一つづつ、それぞれ携えて迎え撃つ。

 夜尺が体を軸にして両手を広げて手にした銅鐸を横薙ぎに振る。巻き込んだ風が銅鐸を小さく震わせ、唸るような音が響く。その唸りを掻い潜り、なおもまっすぐと突き進む銀色の矢。

 次に迎え撃つは夜筑の銅剣。こちらは風を切り裂いて、滑るように鋭く襲いかかる。しかしその切っ先は騎士を包む銀色の光に拒まれる。そこへさらに夜尺の銅鐸が今度は縦に打ち下ろされる。素早く避けられた銅鐸はそのまま地面に大穴を穿つ。沸き立つ土煙が風に流されていく。

「あんな重そうなものを着て、あんなに動けるなんて」

「違うな、あれは金属ではないの」

「それじゃあ?」

「お前の着ている陣羽織と一緒じゃ」

 そう言われて可彦は自身の陣羽織をみる。

「おそらくそれと同じ倭文織を幾重にも漆で塗り固め、そこに銀箔を貼ったのであろう。贅沢を通り越して、もはや有り得んような代物じゃ。大甕おおみか神社め、奮発しおったな」

 渦巻く風と切り裂く風の中を、貫く風が吹き抜ける。

「抜けられた!」

「こっちに来るの。どうする?」

 あくまで冷静で楽しげな葛妃の問いに、しかし可彦は即座に答えた。

「刀自様! 足止めを!」

「む? 小娘は吾に押し付けるか?」

「僕の役目は彼女の相手じゃないはずです。違いますか?」

 その答えに葛妃は笑う。春の日差しに負けないほどの朗らかで高らかな笑い。

「良いところに気が付いた。確かにそうじゃ」

 葛妃は床几から腰を上げると可彦の前に歩み出る。

「小娘は吾が引き受けた。ゆくがよい夜都賀王!」




 またひとつ、風が加わる。

 二つの風を貫いた、その風を押しとどめたのは舞い踊る風。

 白い衣の裾を舞わせ、手にした榊の青葉が揺れて、金の冠が静かに輝く。

鬼道少女きどうしょうじょ・葛妃。満を持しての登場じゃ」

「姫様姫様」

 追いついた夜尺、夜筑がハーゼの後ろを囲み、それでも葛妃に突っ込みを入れる。

「少女はちょっと辛いです」

「うるさい。ちょっと言ってみたかっただけじゃ」

「その割にはのりのりのポーズでしたが」

「恰好よかろ?」

 葛妃は手にしたさかきで目元を覆い、再びポーズを決める。

「随分と余裕だよね! 土蜘蛛の女王様」

「それはこちらの台詞じゃよ」

 完全に囲まれているが、全く動じる様子のない相手を葛妃は感嘆にも唖然ともとれる表情でみる。ただその眼には冷たくまたは熱いものも含まれていた。

「どれ、少し品定めと行こうか」

 葛妃が手を上げると同時に夜尺、夜筑が一歩引く。

「参れって、おぉぅ!」

 葛妃が声をかけるよりも早く、ハーゼが跳ねるように飛び込んでくる。なびく銀糸を身に纏い、二閃三閃、突き抜ける切っ先を葛妃は舞いかわす。

「良い踏み込みじゃ」

 そのまま身体をくるりと回すと手に持った榊を横に薙ぐ。榊の葉から光に照らされて玉色に煌く水滴が虹を描いてハーゼの身体に降り注ぐ。

 降り注ぐ水滴をハーゼは剣で切り裂く。切り裂かれた水滴が破裂音とともに四散する。四散した水滴がさらにハーゼに降りかかるが、淡く輝く銀の光に打ち消され、水煙がまるで霧のようにあたりに漂う。その霧を切り裂いて、なおもハーゼは葛妃に突進する。

「これは手強い」

 銀の疾風をそよ風の如くいなすと、再び榊をふるう。先よりもさらに多い水滴が、横殴りの雨の様にハーゼを襲う。ハーゼは左の腕をかざすとそこから茨が湧き上がり組上がり、丸い盾となる。盾に阻まれた水滴はそのまま霧となって消える。

 その霧の中、盾となった茨が解けると同時に葛妃に向かい飛び掛かる。上下左右、四方から延びるそれは棘持つ槍のように霧を貫く。

「ひぁ、茨はかなわぬ」 

 葛妃は身を翻すと後ろに引く。引かせまいと追いすがるハーゼの間に夜尺、夜筑が割ってはいる。唸る銅鐸をいなし、叫ぶ銅剣を弾き返す。

「逃げるの?!」

「退くもまた兵法」

 ハーゼの挑発に葛妃は嘯く。

「そもそも吾は時間稼ぎじゃ」

 しかし再び舞い戻ると、ハーゼとの乱舞を再開した。




「すごい……」

 繰り広げられる乱舞に夜都賀王は目を見張る。夜尺に夜筑、そして葛妃の動きは今までに見たことはあったが、実戦となるとやはり迫力が違う。そして何よりもその三人を相手に互角以上の動きをしているハーゼと名乗った銀装の少女。そしてその少女は夜都賀王の勘違いでなければ、自分と幼馴染の、そして昨日お互いに気持ちを確かめ合い、告白したばかりの相手、黒坂兎萌のはずだ。名は体を表す通り、うさぎ好きの彼女らしい甲冑は、可愛さと凛々しさを併せ持つ彼女によく似合っていた。

 そしてその彼女が葛妃と戦っている。葛妃は夜都賀王にとっては氏神うじがみであり、母であり、姉であり、師であり、憧れの女性でもあった。

 いわば最愛ともいうべき女性二人が争っている。その状況は夜都賀王の中に困惑と同時にある種の倒錯した想いを呼び起こしていた。

「いけないいけない」

 頭を左右に振って妄想を振り払うと自分の仕事に取り掛かる。兎萌に対しては敵対する行為になるが、そういったことは考えないことに決めた。ただ自分の仕事をする。それだけを考える。

 片膝をつき片手を石碑の前の地面につける。まだ冷たい土の中から暖かいものが伝わってくる。指を大きく広げ、自分の中の血の流れをイメージする。大きく息を吸い込み気をためる。気が肺から取り込まれ大静脈を通って心臓へ、そこから大動脈をとおって全身へ。さらに毛細血管を意識して大地に置いた手のひらにその血を流しこんでいく。

 手のひらがむず痒い。地面から何かが手のひらを這い回るような、逆に手のひらのうちから血の中を何かが蠢いているような、しかしそれは不快ではなく、逆に何かが求めあいながら手が届かない微妙なもどかしさの様にも感じた。

 さらに手のひらに意識を込める。込めるのはあくまでも意識。力は最小限に抑える。何かが昇ってくる。何かが降りていく。 目の前に見えない何かが広がっていく。




「なんで!」

「でかした!」

 乱舞を交えていたハーゼと葛妃がその出現に同時に声を上げた。ハーゼはあり得ないものを見た嘆きを。葛妃はあり得ないものを見た喜びを。石碑の上空10メートルほどの場所にそれは出現した。

 それは椅子だった。美しい玉石ぎょくせきでできた背もたれの大きな椅子。まさに『玉座』という呼称が最もしっくりくる。

 数羽の鳥がその玉座に停まろうと思ったのか羽ばたくが、その体は玉座を擦り抜けた。

石生界せっしょうかいに同調せよ。せねば玉座ぎょくざには干渉できぬ」

 玉座の周りは石が作り出した結界『石生界』が具現する。それと現実とは重なるが交わらない。『玉座』は『石生界』に存在するため、玉座を操作するには石生界に同調する必要が有った。すべては葛妃の教えの通り。

 夜都賀王は玉座に意識を傾ける。集中するのではなく、自然に重ね、委ねていく。

「身体が!」

 夜都賀王の体が浮き始める。そばにあった柳の木をつかもうとするが、その枝を夜都賀王の手がするりと突き抜ける。

「石生界に同調すればこの世のものからの干渉は受けぬ。そして石生界には上もなく下もなく何処までもなく何処からもない。故にこの世からの見かけ上は飛ぶことも可能になる。教えたであろう!」

 夜都賀王の動揺を察するように葛妃が叫ぶ。夜都賀王はゆっくりと体勢を立て直す。身体が柳の木を突き抜け、さらに上昇していく。

「天津神とその眷属の血にしか玉座は呼応しないはずなのに!」

 ハーゼは戦うのを忘れ呆然と見上げる。

「己らに出来ることが吾等に出来ぬと思うなよ」

 葛妃が誇らしげに告げる。

「彼こそが吾等が切り札」

「くっ」

 ハーゼは唇をかみしめる。そして程なくその身体が浮かび始める。

「ぬ、さすがに同調が早い!吾等も行くぞ!玉座の操作は無理でも石生界への同調は可能じゃ」

 葛妃たちも同調し、上空へと昇り始める。見上げるのは佐伯衆の三人。そして異変に気が付いた人々。

「あー佐伯さん。久しぶりに黒坂さんとやっているんですか」

 土手の上を散歩中だった老人が壱介に声をかける。つれていた犬が弐姫の足元にじゃれつくと、弐姫も屈んでその顔を撫でまわす。

「いやーすみませんね。ちょっとお騒がせしています」

「いえいえ、最近とんと見かけなかったんでね。淋しかったんですよ。土蜘蛛の皆さんもお元気そうで」

「ええ、おかげさまで」

 そして再び皆で上空を見上げる。

「しかし空まで飛ぶとは……いつもに増して派手ですなぁ」

 じゃれつく犬も嬉しそうにひと鳴きした。




「これが玉座……」

 白く輝く玉座は大理石を思わせたが、その輝きは螺鈿のようにも見えた。そして煌めくその椅子の周りを球状に囲むように、滲んだ光が渦巻いている。その光一つ一つが幾何学模様か文字のようなものを感じさせた。そして頭の中に直接、何かの調べのようなものが漂う。

「まだ座るな!」

 葛妃の叫びが聞こえる。

着座ちゃくざできるのは奏上そうじょうが済み、玉座が覚醒してからじゃ。光の舞曲が消えた瞬間ぞ。後れを取るなよ!」

「させない!」

 叫びとともに銀の矢が玉座と夜都賀王の間を貫く。夜都賀王は口からとっさに出そうになった言葉を、あわてて飲み込む。銀の矢はその手に持った刃で夜都賀王に切りかかる。

「座らせないよぉ!」

 その言葉に夜都賀王は不意に幼稚園の頃を思い出す。並べた椅子、軽快な音楽、それが止まると同時に皆で椅子に腰かける。夜都賀王は兎萌に勝てたためしがなかった。いつも椅子を奪われて、おろおろする役回り。頭の中に流れる調べがオクラホマミキサーに置き換わる。

「勝てる気が……」

 思わず漏れたその言葉をあわててかき消す。

「何をぶつぶつ言ってるの?!」

 左の手から棘が伸びると夜都賀王の胴に巻きつく。そのまま締め上げられる瞬間、夜都賀王の陣羽織が朱色に燃え、瞬時に茨を焼き尽くす。

「倭文織!」

 ハーゼは左手を収めると再び剣を構え直し、今度は切っ先を押し立てて頭から突進する。

「なぜ抜かないの!」

 その突進をかわした夜都賀王にハーゼは怒鳴り声をあげた。

「腰の太刀は飾りなの?それともわたしを馬鹿にしてる?」

 無論そんなつもりは夜都賀王にはない。ただどう戦っていいのかわからない。突き詰めれば結局のところ戦いたくないという気持ちが無意識に働いているだけだった。しかしハーゼの言葉に夜都賀王はひょっとして相手は自分の正体に本当に気が付いていないのではないか、と思いはじめた。そうなると避けてばかりでは逆に自分の正体を気が付かれてしまうかもしれない。

 夜都賀王は腰に佩いた太刀に手をかける。護拳の付いたまっすぐなの太刀。護拳に飾られたいくつもの鈴が、小さく涼しげな音色を滴らせる。抜き放たれた直刀は銀を帯び、その切っ先がハーゼをとらえる。

「名前は?!」

「夜都賀王……」

 悟られないように極力声を低く、言葉少なにわざと吐き捨てるように名乗る。何となく、ちょっと楽しい。

「どんな奇術で玉座を呼応させたかは知らないけど、思うようにはさせない!」

「笑止……」

 細剣と直刀が交差し、鋭い音色が一面に広がっていく。




「はじめおった」

 玉座の周りで巻き起こる剣激に葛妃は目を細める。

「まだまだ及ばぬが……やはり筋がいい」

 葛妃の目は夜都賀王に向けられていた。

「あやつの太刀筋によう似ておる」

 小さくつぶやいたその言葉は、あまりにも平坦だった。まるでいろいろな感情を打ち消しあってしまっているかのように。

「助太刀に」

「まぁ待て」

 銅鐸を担ぎ、斬り込もうとする夜尺を葛妃は止める。

「まずは三方に別れる。囲みこんで一瞬が勝負じゃ」

 玉座の周りを対面したまま旋回するふたりを、さらに囲むように廻る。うちのふたりは右廻りに外の三人は左廻りに。

 渦巻く光の中にちりちりとしたものが混じる。それが実際に感じているものなのか気分的にそうなっているのか、夜都賀王にはわからなかった。ただ直感的にその時が近いことは感じられた。

 ふたりの間合いは付かず離れず、しかし狭まり早くなっていく。

 そして唐突の静寂。

 この静寂こそがその瞬間。

 夜都賀王が玉座に手をかけたその瞬間、激しい痛みがその手を弾く。ハーゼの左手から伸びた茨の鞭がさらに玉座に巻きつくと、その身体を一気に引き寄せる。

 まっすぐに飛んでくる銀の矢が轟音とともに揺らぐ。夜尺の両手の銅鐸が、ハーゼに向けられて再び軽く擦り合わさる。擦れ合った細波が銅鐸の中で反響し音波の塊となって再びハーゼを襲う。

その音波を棘の盾で吸収しつつ、狙いを定めるはやはり夜都賀王ひとり。

「刀自様! 玉座を!」

 叫びながら夜都賀王はハーゼの突進をその身体で押しとどめ、そのまま玉座より離れていく。密着した身体からハーゼの動揺が感じ取れた。

「承知した!」

 葛妃は言い返そうとしたが、その言葉を飲み込み玉座に向かう。本来国津神の眷属である葛妃たち土蜘蛛に玉座を動かすことは出来ない。ハーゼもそれは承知しているはず。だから夜都賀王はそこを逆手に取った。

 予想外の行動にハーゼの判断がほんの瞬刻揺らぐ。その揺らぎこそが夜都賀王の狙いだった。

 ハーゼの棘が葛妃に追いすがる。葛妃はそれを手にした榊で絡めとる。葛妃の顔が薄く引きつる。それでも棘を封じたところに、さらに夜尺、夜筑が襲い掛かる。

 罠と悟ったハーゼは即座に茨を消し去ると夜都賀王に追いすがる。

 しかしほんの少しだけ、遅かった。

 玉座に座る夜都賀王にハーゼの棘が襲い掛かる。しかしその身体に到達する前に淡い繭に拒まれる。棘を納めると今度は細剣で激しく突く。しかしその切っ先は繭を貫くことが出来ない。

「無駄じゃ」

 静かにハーゼの背後に立った葛妃が、ゆっくりと告げる。

「玉座についた時点で承認は成される。王権を得た王は玉座にいる限り絶対じゃ」

 振り返りもせず、身動きもせず。ただ玉座を見つめるハーゼ。

「解放!」

 玉座から命を下す夜都賀王。淡い繭の光が脈動し、脈動するごとに薄くなり、最後には消えた。

「お、おおおおおおおおおおおおお!」

 葛妃が奇声を上げる。その声は震えていた。

「力が!」

「くっ!」

 振り返りざまに葛妃に斬り付けるハーゼ。それは攻撃というには余りにも雑で、しかし力だけは激しく込められていた。

 葛妃はその一撃を一重でかわすと、その手を天空へ突き出す。その手のひらに長細い棒状の光が集まり始める。

宝戈ほうかは吾に戻った!」

 それは意匠の凝った棒の先に赤味を帯びた黄金色に輝く刃が鎌のように横向きに設えられていた。無論その刃も細かい意匠が施されている。それは戈と呼ばれる古代の武器。葛妃の言葉を借りればその意匠はまさに宝戈と呼ぶにふさわしく、そしてそれは葛妃の一族の長の持つ儀丈ぎじょうでもあった。

 再びハーゼが斬り付ける。葛妃は宝戈を操りそれを受け流すと、その切っ先をぴたりとハーゼの首筋につける。武器よりも法具としての意味合いの強いものではあったが、かといって武器としての機能が失われているわけではない。

「ここでの勝敗は決した。これ以上のこの場での争いは無意味じゃ。退け、黒坂の野兎姫」

 葛妃の言葉に身を強張らせるハーゼ。左の手をすばやく持ち上げ、しかしそのままゆっくりとおろす。その視線は葛妃ではなく、葛妃の背後に立った夜都賀王の、その手に向けられていた。夜都賀王のその手は佩いた太刀の柄に添えられていた。

「そろそろ石生界が消える。下りぬと落ちる羽目になるぞ」

 葛妃は手に宝戈を持ち、ゆっくりと地面に降り立つ。他の面々もそれぞれ地面に降り立った。無論ハーゼも。

「……次は、負けない」

 ハーゼはそれだけ言い残すと来た時同様、風のように去っていった。

「姫様!」

「姫様!」

 駆け寄る夜尺、夜筑。その息が荒いのは走っている為ではけしてなかった。

「おめでとうございます!」

「おめでとうございます!」

「うむ。勝ったな」

 葛妃もゆっくりとしかし少し高い声で答える。

「初めてじゃ」

「初めてなの!」

 夜都賀王は勝った喜びが初めて勝ったと言う言葉への驚愕にとってかわった。

「まぁ今までの戦いが勝つことが目的ではなかったからの」

「それじゃ何の為に?」

「吾等の存在を忘れさせぬためじゃよ」

 葛妃のその言葉はどこか可笑しげで、どこか寂しげだった。

「忘れられれば、それで仕舞いじゃ」

「それだけのために?」

「ちがう。それのために、じゃ」

 



「ひょっとして佐伯さんが勝ちました?」

「いや……そのようですな」

 土手で観戦していた佐伯衆と老人はしばし呆然と様子を眺めていた。

「いや、これは驚いた」

 老人の声はただ驚きだけをのせて、淡々と零れ落ちた。

「私の知る限りでは初めてです」

「私の知る限りでも初めてですよ」

 壱介も目を丸くして驚きを隠せない。他の二人は初陣の為実感は余り無いのであろうが、それでも喜びより驚きが先行しているように見えた。

「や、とにかく刀自様のところにいかないと!」

 思い出したように壱介が土手を駆け下りる。残る二人もそれに習った。その様子を老人はひとり見送る。見送る老人に弐姫が小さく手を振った。老人の手と犬の尻尾がそれに答える。

「珍しいものを見た。長生きはするものか」

 しみじみとひとり呟く。

「時代が変わるのかねぇ。これが良い方に変るのか悪いほうに変わるのか」




「次からが大変じゃな」

 帰り道のバンの中、葛妃が呟いた。

「警戒されるから?」

「それもある」

 葛妃は頷く。

「結局のところどう足掻いても吾等に勝ちは無い。吾等では要石をどうすることも出来なかったのじゃからな。だからこそ黒坂は黒坂命の加護を一身に受けるひとりを繰り出してくるにとどめていた。それで事足りるからじゃ。吾等としてもどう足掻いても勝てぬから最小限の戦力しか繰り出さぬ。ゆえに佐伯衆も代々受け継ぐ三人のみ、しかも吾等の戦いを喧伝させるための物見にとどめていた。それが慣わしじゃった」

「でも今回初めて勝った」

「そうじゃ」

「それで前提が全て崩れるんだ」

 葛妃はもう一度頷く。

「それが何をもたらすかは解らぬ。解らぬが何かをもたらすことは確かじゃ。今まで通りとは、いかぬ」

「まぁ難しいことは良いじゃないですか」

 運転席から壱介が笑う。

「その通りじゃな」

 葛妃も答えるように笑う。

「今は初勝利を祝おうぞ」

 しかし可彦の頭の中は別のことでいっぱいだった。それは自分の手と兎萌の視線。

 なぜあの時、太刀の柄に手を添えてしまったのだろう。それを見た兎萌の目にはどのように映り、どう思ったのだろう。どんな想いで引き上げていったのだろう。たったひとりで。

 その想いだけが、頭の中でせめぎあっているだけだった。




 可彦はベッドの上に身を投げ出すと自然と天井が目に入った。しかし、入っただけで見えはいない。ただ上を向いているだけの瞳。

 可彦の初陣は勝利に終わった。それは嬉しかったし葛妃たちも祝ってくれた。夕飯も豪華だった。

 それでも可彦の気持ちはあまり晴れやかではなかった。

 身体がだるく、疲れきっている。

 いっそ寝てしまおうか、と目を閉じる。

 しかし眠れない。

 やり残したことがある。

 それが一番の原因なのはわかっていた。

 わかっているのだがどうしても踏み出せない。

 右手を自分の顔の前に持ってくる。

 そこに握られているもの、それは携帯電話だった。

 おもむろに開くと液晶の光が顔を照らす。

 目の前の文字に思わず目を見開いた。

黒坂兎萌

 液晶画面にはそう書かれていた。無意識のうちに画面に出された登録番号。

 今晩電話する。

 そう約束したのは確かだし、約束は果たしたい。

 しかし、どんな話をすればいいのか。

 そもそも昼間、兎萌のことを倒したには自分じゃないか。

 どの面下げて電話なんて。

 でも自分のことが気がつかれていないとしたら、約束を破るのは良くないし。

 でも電話するのも気が引けるし。

 でも電話しないと逆に怪しまれるかも。

 でも電話したらデリカシーの無い奴とか思われるかも。

 でも幼馴染だし兎萌の性格ならそんなことは無いと思うけど。

 でも

 でも

 でも

 巡る想いは巡るのみで、どこにも行き着かない。

 行き着かない想いは巡るのみならず迷走をし始める。

 そして迷走はたいてい悪い方へと向かっていく。どんどんと深みにはまって……

「うわーーーーーーーー!」

 思わず声が出た。出した瞬間に携帯電話はコールを始める。無論相手は兎萌だ。殆ど勢いと無意識による操作。

考えても答えが出ないなら、電話をしてもしなくても、悪く転がるときは悪く転がるというのなら、約束通り電話をして、そして転がった方がマシ。結局のところ可彦はそう結論付けた。無論考えてではない、勢いと無意識で、だ。

携帯から鳴り響く呼び出し音。もう何回なったかわからない。まだ大して鳴っていないかもしれない。もう十回以上鳴ったかもしれない。ひょっとすると三十回?あれ?着信拒否?その可能性はなぜか想定していなかった。焦る気持ちが手に伝わって、その指をボタンに誘う。うわ、もう限界!

『おそい!』

 電話を切る直前で電話がしゃべった。その声はいつもより荒く、刺々しく、しかしいつも通りに明るく朗らかだった。

『あんまりおそいから寝ちゃったよぅ!』

「ご、ごめん」

『本当にそう思ってる?』

「うん、本当に、ごめん」

 実際はほっとした気持ちの方が大きかった。いや、嬉しかったといってもいいだろう。自分の電話を待ていてくれたのだ。あれだけの戦いをして、しかも負けてしまって、身も心もきっとくたくたのはずなのに、自分の電話を待ていてくれたのだ。

 その反面、居た堪れない気持ちもある。彼女を叩きのめしたのは、他でも無い自分なのだから。

『なんか少し嬉しそうなんだけど?』

「え、いや、兎萌の声が聞けたからだよ」

 思い切り嘯く。しかし、あながち嘘でもない。 

『まぁそういうことにしておいてあげる』

 兎萌の声が心地よく可彦の耳にころころと転がってくる。いつも通りの明るい声は、あの出来事から考えると空元気なのかもしれない。しかしそれが空元気だとしても、それはそれで兎萌らしい。いつもと変わらない、いつもの兎萌が電話に出ている。それは今の可彦にとってかけがえのない奇跡に感じられた。

『べっくん?』

「あ、ごめん」

『何かおかしいなぁ。なにかあったの?』

 あったなんてもんじゃないよ。

『……おーい』

「……あわわ!えっと今日は家の仕事手伝わされてさ!すごく重労働だったんで、ちょっと疲れてて」

『そうなんだぁ』

「だからさ、今日はなんか頭の整理がつかないというか、ぼ~としちゃうというか」

『そうなんだぁ』

 兎萌が不機嫌になってきているのがわかる。

「だからさ、えっと明日! 明日会おうよ!」

『明日?』

「うん! いろいろ話したいし! えっと、奢るからさ!」

「どうしようかなぁ」

『やっぱり顔が見えないと淋しいよ!』

 すでに可彦の頭の中に、兎萌と戦ったことや柄にかけた手のこと、その時の視線、そんなものは吹き飛んでいた。ただ、今この時の兎萌の不機嫌をどうやって乗り切るか、そして明日、どうやって誘い出すか、それだけだ。

『うふ』

 電話の向こうで兎萌の口から小さく空気が漏れるのが聞こえた。からかわれた!

『それじゃ明日! 北口の時計の下に一時ね!』

 可彦が非難するよりも先に兎萌は一方的に告げると電話を切った。切れた電話を見つめる可彦。なにかさっきまでの電話と違う電話を見ている気さえした。だるかった身体が、だるいなりにもなにか温かい。

「お風呂に入ってから、寝よう」

 可彦は飛び起きると自分の部屋を後にした。




「あーふぅ」

 声が漏れる。それは緩んだ身体から自然と漏れ出した緊張が音を出しているようだった。意識しているわけではないが、兎萌におっさんみたいといわれるのは、こういうところなのだろう。

 可彦の家の風呂は古い。シャワーも無い。しかしヒノキで出来た湯船は大人四人が余裕でつかれるほど、洗い場もそれなりの広さがあり小さな温泉宿の風呂場並みの規模であった。疲れた時にこの大きな風呂で手足を伸ばしてゆっくり出来るには何物にも変えがたい。こういう感覚もおっさんなのかもしれないが、それなら僕はおっさんでいいよ、もう。と思えるほどこの広い風呂が可彦は好きだった。

 両手を伸ばして手を握る、弾くように指を開き、再び握る。お湯が指の間をするりと抜けていく感触。お湯を逃がさないようにゆっくりと握る。無論お湯を掴むことは出来ないが、掴むような感覚でゆっくりと握る。

 身体を前に倒し、顔をお湯に浸ける。しばらく息を止め、それからゆっくりと吐いていく。吐き出された泡が顔を伝っていくのが心地よい。

「湯船の湯は飲むでないぞ」

 可彦はお湯の中の顔を無言で頷かせる。細かく水面を打つ泡が、突然大きな山を作った。

「ぶぁっ」

「なんじゃわざとらしく驚きおって」

 白い湯気の中に立つ白い影。それは湯着姿の葛妃だった。暗い照明のせいか、逆に白が浮いて見える。

「湯を共にするのは別に初めてでもあるまい」

 葛妃は湯船のわきに屈むと手桶で湯を汲み肩からかける。白い湯気を立てながら湯が葛妃の身体を伝い、白い湯着が葛妃の肌に滑らかに張り付く。湯着が透け、淡く朱を帯びた肌が浮き出す。

身体を流してからゆっくりと丁度可彦の向かい側に身を沈める。

「そんなに恥ずかしがらんでも良かろう」

 葛妃が少し上気した顔で微笑む。

「こちらまで恥ずかしくなる」

 そうはいっても、と可彦は思う。

 確かに小さいときから葛妃と湯を共にした。というよりも、小さいときは葛妃に入れてもらっていたのだ。以前は確かにずっと年上の女性に見えた。実際今もずっと年上だ。それに自分の祖母のような存在であり、母のような存在でもあり、姉のような存在でもあった。しかし、可彦が成長しても、葛妃の見た目は変わらない。いまや自分と外見上の歳は殆ど変わらないのだ。意識するな、という方がどだい無理というものだ。

「なんにせよ今日はようがんばった。褒めるより礼を言いたい。ありがとう」

 葛妃は湯船の中で軽く頭を下げる。

「そんな、今の僕があるのは刀自……葛妃様のおかげだし」

「そうであったとしても、じゃよ」

 頭を上げた葛妃の顔には喜びとそれに紛れて憂いの影が浮かんでいた。

「言った通り此度の勝利は吾等の悲願と言っても良い。その悲願を成したのは他ならぬお前じゃ。ただそのことがどう転がっていくか……」

「大丈夫だよ!」

 可彦は弾む声で答えた。風呂の中にその声が響き、驚いた水滴が落ちてきて湯船に円を描く。

「葛妃様も夜尺さんや夜筑さんもいるし、佐伯衆のみんなもいるし!」

「うむ。そうじゃな」

 葛妃はそれ以上そのことには言及しなかった。

「よし、褒美に背中を流してやろう」

「え、いいよ」

「何を言う」

 葛妃は笑う。その笑みは優しい葛妃のものではなく、悪戯を企むときのそれであった。

「どうせ明日、黒坂の小娘に会うのであろう? ちゃんと身体は洗っておいた方が良いぞ?」

 可彦は二の句を告ぐことが出来なかった。




 姿見の前で服装をチェックする。ジーンズにファイアマンコート。まだちょっと肌寒いからこれぐらいでちょうどいい……と、思う。

もう一度鏡の中の自分を見る。

ばれて……ないんだよね?

自分の姿と夜都賀王の姿を重ねる。

顔は隠していたにせよ、同じ背格好だ。本当にばれてない?

「ばれてない!」

 自分に言い聞かせて机の上の財布を取るとズボンのポケットにねじ込んで部屋を出た。部屋を出て扉が閉まる音が、鼓膜に響き、忘れていた大事なことを思い出させる。

可彦はあわててポケットにねじ込んだ財布を出すと中を見る。いや、実は見るまでもない。見なくてもわかっている。中身はほとんどない。

「忘れてた」

 そう、財布の中身はうさぎになって、兎萌の胸元にいるはずだ。それでも恐る恐る覗いてみる。とりあえず千円札が一枚はあった。あとはICカードにいくらか残っていたはず。何とかなるかもしれない。兎萌が無茶なものを頼まなければ。

 初デートぐらいちょっとは格好をつけたかったのだが、無いものはしょうがない。まだ早いが歩いていくことにした。そうすれば少しは節約できる。

「いってきます」

「あ、若様、ちょっとちょっと」

 台所から夜筑が顔を出す。いつも通りの割烹着。

「なに?夜筑さん」

 右の裾を左手で押さえて小さく手招きをした。

「今から出かけるんだけど……」

 それでも微笑みながら手招きを続ける夜筑。可彦は諦めると靴を脱いで玄関を上がり台所に向かう。

「なに?」

「若様、いまから黒坂のうさちゃんに会いにいかれるのでしょ?」

「え、いや……えっと」

「はい、これ」

 そういって夜筑が手渡してくれたのは四つに折った紙。無論それはただの紙ではない。

「え、いいの!」

 手渡された一万円札を可彦は握りしめる。これで悩みの大半は解消された。ちょっとは格好がつけられる。

「初陣で若様に恥をかかせる訳にはいきませんからね」

「うわーん夜筑さんありがとー」

「お金は落とさないようにちゃんと仕舞ってくださいね」

「うん!」

 可彦はいそいそと一万円札を財布にしまう。同じ財布なのに今はとても頼もしい。

「帰ってきたら家のお手伝い頼みますね」

「うん、わかった!」

懐に余裕が出来ると気持ちにも余裕が生まれる。余裕が生まれると、初陣という言葉にふとしたことを思い出した。

「どうしました? 足りませんか?」

「いや! ぜんぜん十分だよ!」

 可彦は大きく首を振って否定する。

「えっと……関係ないんだけど……」

「なんですか?」

「夜筑さんは僕の両親って知ってる?」

 初陣の折、うやむやにしたこの話、しかしやはりふとしたことで浮き上がってくる。夜筑は柔和な笑顔を崩さずに、下唇に人差し指を当てる。

「いや、言い難いなら別に良いんだ」

「存じていますよ」

「え?」

「母上様は姫様にそっくりなお方でした」

 可彦が尋ねるよりも先に夜筑が語りだす。

「葛……刀自様に……」

「はい。厳しくも優しく、聡明で気高い方でした」

 母親の記憶はまったく無いが、そういわれるとなんとなくすんなり受け入れられた。きっとそうだったに違いない。忘れているだけで、見ていた母の姿は葛妃にそっくりだったのだろう。

「父さんは?」

「父上様は、お強い方でした」

「強い?」

「姫様を打ち負かすほどに」

「刀自様と父さんって闘ったことがあるの?!」

「父上様は外の方なので」

 母が佐伯家の人間なのは知っていた。つまり父は婿に来た形になる。その時相応しいかどうか見定める為に葛妃と闘ったのかもしれない。

 そして、勝った。

 その力を大きく減じているとはいえ神の眷属たる葛妃に勝ったとなると、相当に強かったに違いなかった。そして試練に打ち勝って、母と結婚したのだ。

 そう思うとなんとなく誇らしく、嬉しかった。

 自分には聡明な母と強い父の血が流れている。葛妃の言う稀有な存在とは、そういうことなのかもしれない。

「太刀筋が良く似ていると姫様が仰っていましたよ」

「そうなんだ」

 強い父と似ている。そう言われたようで心が熱くなってくる。

「それ以上のことは私からは」

「うん、いい。十分だよ! ありがとう!」

「いってらっしゃい。うさちゃんによろしく」

 可彦は明るい足音で台所を後にする。財布に入った一万円より価値がある貴重な話だった。足音が廊下を抜け、軽やかに玄関を開けると今にも走り出しそうな勢いで飛び出していく。

「嘘は言っていませんよ」

 相変わらず微笑を浮かべていた、しかし何処か掠れた夜筑の呟きが、可彦の耳に届くはずも無かった。




駅の北口広場。

その中央に立つ時計塔。

その下から時計を見上げると。約束の時間にはまだ10分ほど余裕があった。

空は青く日差しも結構強い。ちょっと厚着だったかもしれない。そう思いながら兎萌を待つ。

人の流れを眺めていると、何の変哲も無い風景に、昨日の事がまるで夢のように思えてくる。そんな風景の中に手を振って近づいてくる人影。ショートパンツに黒いサイハイソックスとロングブーツ。丈の短いジャケットにネクタイ姿。それは無論兎萌だった。

 可彦も手を振る。しかし兎萌は可彦のそばには来ずに、その手前で止まってしまう。そしてそのまま視線を上にあげた。

「え? ……ああ」

 兎萌の考えを察した可彦は思わず苦笑を浮かべながらゆっくりと兎萌に近づくと兎萌と同じほうに視線を向ける。兎萌の顔がちらと可彦に笑顔を投げかけ、すぐに視線を上に戻した。

 時計塔の針が一時を示す。

 軽快な音楽と共に時計塔のからくりが動き出す。

 右側の円筒がゆっくりと開くとそこにはウサギが並んでいた。

「んんっん、んっんんっん、んっんんっんんっんん~」

 軽快なリズムに乗せてウサギが踊る。それに合わせるように兎萌も小さく口ずさむ。身体も小さく揺れている。

 ほどなくしてウサギのからくりが終了すると、左側の円筒が開き始める。

「じゃあ行こっか!」

 しかし兎萌はそちらには興味がないらしく、可彦に移動を促した。可彦はもう一度苦笑すると、兎萌に続く。

「兎萌は本当にウサギが好きだよね」

「うん。可愛いでしょ」

 屈託なく微笑む兎萌。兎萌の方が可愛いよ、と往来の多い街中で惚気る勇気は可彦にはまだない。

「お昼は食べた?」

「まだだよ、奢ってくれるんでしょ?」

 口角を大きく上げて三日月のように笑う。

「もちろん!」

 胸を張って答える可彦。予想に反した自信に三日月はそのまま満月になる。

「何か悪いことに手を出したわけじゃないよね?」

 満月になった口が新月になって可彦を見つめる。

「え、ちょっ」

「なんてね」

 再び三日月に戻る。

「おねだりしたでしょ?」

「おねだりはないよ」

 嘘は言っていない。言っていないったら言っていない。よし。

「詮索は野暮だよ」

「お、べっくんにしては賢い切り返し」

「にしては、は余計だよ」

 他愛もなく喋りながら歩く。それは初めてのことではない。でも、なんとなく初めての感覚。

「それじゃ居酒屋でランチ!」

「えー?」

「安くて美味しいよ?」

 確かに居酒屋が昼間に出しているランチは安いし美味しいし量もあってお値打ち価格だ。しかし、初デートでそこで食事というのはどうだろう、兎萌はよく可彦のことをおじさん臭いというが、こういうところは兎萌の方がおじさん臭いと思えた。無論、そこも含めて好きなのだが。

「えっと初デートなんだからもうちょっと」

「え、これってデートなの?」

「え! ちがうの?」

「ちがくないよぉ」

 兎萌のテンションはいつも高めだが、それよりも少し高い気がした。ひょっとして少し照れてる?可彦はその様子にやはりいつもとは違う感覚を感じ取る。その感覚が今はたまらなく嬉しく幸せに感じた。

「それじゃあさ」

 可彦はそこから振り返って上を見る。

「あそこの上は?」

「駅ビルの上?」

 その最上階はレストラン街だった。もっと気の利いた穴場的な場所を知っていればいいのかもしれないが、今の可彦にはそんな知識は無い。それでなんとなく、高い所の窓際という選択肢が浮かんだのだ。

「あそこ、パスタとかあったよね」

「あーあったねぇ」

「なんとなくそれっぽいでしょ」

「なんとなくそれっぽいねぇ」

 ふたりは笑いながら駅ビルへと向かっていった。



 

「ふたりです」

 ウェイトレスに可彦が告げる。

「それからできれば窓際を」

 ウェイトレスは可彦の言葉に笑顔を浮かべて頷くと窓際の席に案内してくれた。特に景色がいいわけではないが、先ほどまで居た広場と時計塔が良く見える。

「すごいよべっくん」

 席に着くと兎萌が目を大きくして呟く。

「まるでエスコートしているみたい」

「まるでとか、みたいとか余計だから」

「じゃあ、エスコートしている?」

「疑問形もちょっと。というかそういうことは言わないで心にしまっておこうよ」

「いやーあまりの成長ぶりにおねーさん嬉しくて」

「兎萌僕より誕生日遅いよね?」

「さて、何食べようかなぁ」

 兎萌はメニューを開くと楽しそうに眺め始める。可彦も諦めたようにメニューを開いた。ファミレスとまではいかないが、そう高くもない。

「お値段はまぁまぁお手頃だね!」

 まるで可彦の心を読むように兎萌が微笑む。

「おかげさまで奢れそうだよ」

 慌てて取り繕っても兎萌の術中なのは判っていたので素直に同意した。

「それは重畳」

「兎萌ってたまにへんな言葉使うよね」

「おもしろいでしょ? ……そうだ」

 何を思い立ったのか兎萌はメニューを閉じる。

「注文もべっくんが決めて」

 言うが早いか兎萌は手を上げる。それを見たウェイトレスが近づいてくる。その間に注文を決めろということだ。口角を鋭く上げた笑みを浮かべる。いつもの三日月の笑み。可彦は素早くメニューに目を落とす。

「なんでしょうか?」

「きまった?」

 兎萌が促す。ウェイトレスの視線が可彦に向けられる。その視線に少し好奇の念が感じられたのは、おそらく可彦の考えすぎだが、それでも注文を待っているのには変わりはない。

「じゃあこの二人前のコースを」

 実際のところは値段の手頃でボリュームもありそうなこのコースに目をつけていた。あとは兎萌にどう伝えようかと思っていたのだが、逆に兎萌の方で気を遣ってこっちに振ってくれたのかもしれない。

「うんっ」

 兎萌は上機嫌に頷く。そして安心したような顔つきになると、窓から外を眺める。可彦もつられるように窓の外を見た。

人の動きが見える。まるで無秩序で、それでいて流れるように動く人々。さっきまで居た場所を上から眺めると、なんとなく不思議な感覚を覚えた。

「そういえばべっくん知ってる?」

 窓の外を見つめながら兎萌が呟くように喋る。

「なに?」

「昨日べっくんの家とあたしの家がやりあったって」

 可彦は顔を窓の方から動かせなかった。それは自分の表情がどうなっているか全く分からなかったからだ。

「そう……みたいだね」

 なんとか喉を押し開けて、その言葉だけが漏れ出した。しかしこれ以上は、他のことまで漏れてしまいそうで、それが可彦には恐ろしかった。それは直接的な言葉ではない、言葉に乗ってしまう何かだ。

「べっくんの家が初めて勝ったって」

「あ、だから昨日の夕飯は豪華だったのかなぁ」

「それでパパが機嫌悪くてさぁ」

「そ、そうなんだ」

 その元凶は可彦である。とても兎萌を見ることが出来ない。しかし、このまま顔を反らし続けるのはあまりにも不自然だった。可彦はゆっくりとなるべく自然に顔を正面に戻す。

そこにあったのはいつもと変わらない兎萌の顔。いや、いつもよりも明るくて楽しそうな兎萌の顔だった。その顔に一瞬だけ、曇った色が広がる。

「どしたの?」

「いや、うん。よく出てこれたなーって」

 いってからしまった、と可彦は思った。何もこの件を掘り下げる必要なんかなかったのだ。

「そーなのよぅ!」

 いきなりの声に一瞬周りが静かになる。さすがの兎萌も反射的に声を落とした。まわりは若いカップルの痴話喧嘩など興味が無いとばかりに自然と元に戻っていく。

「えへ、ごめん」

「いや、いいよ」

「べっくんに今日会うって知っていた癖に、急に機嫌悪くなってさぁ。こっそりぬけだしてきたんだよぉ」

 その言葉に可彦は大変だったね、と頷くのが精いっぱいだった。

「でも今さらだよねぇ。わたしとべっくんが仲が良いのなんかほとんど公然の秘密だよねぇ」

「まぁね」

 葛妃や夜尺、夜筑に連れられて兎萌の家に行ったこともあったし、逆に兎萌の父が兎萌を連れて可彦の家に来たこともあった。今思えばあれは戦う日取りや約定を決めていたのだろう。葛妃の目的が勝つことではないゆえの、存在を喧伝するための戦い故に。今まではそうやって反目しながらも和やかに戦ってきたのだ。

その前提が、崩れた。

可彦が勝つことによって。

「でもさ!」

 口に出してから周りをうかがう。もう誰も気にしていない。

「わたしたちは大丈夫だよねぇ?」

「なにが?」

「え?」

 予想外の可彦の反応に兎萌は絶句する。

「何の問題もないもん。大丈夫も何もないよ」

「……うわぁ」

 ぱっちりとした目を半分閉じて、どこか兎萌らしくない湿った視線を投げつける。しかしここで引き下がるとやはり兎萌の術中なのは間違いなかった。ここが堪えどころである。

「ね?」

「……ね? じゃないよぉ」

 一転して転がるような笑い声を上げる兎萌。最早回りなど気にした風もない。

「笑い過ぎだよ」

「なんかもう、どうでもよくなってきちゃったよぉ」

「うん。家の争いと僕たちの仲は別の話だよ」

 それは可彦の願望が大きかった。大きかったが兎萌もそう考えているだろうことは想像に易かった。それを証明するように兎萌も大きく頷く。

「だよね」

「お待たせしました」

 ふたりの会話の区切りを見計らったように料理が運ばれてくる。

「うぁパスタにピザにサラダ……結構量あるね。全部わたしが食べてもいいんだよね?」

「半分は僕が食べるんだけどね」

「ちっ。気が付かれたか」

 そして今度は、ふたりとも何の屈託もなく笑った。




 デパートの四階にあるコーヒーショップから下を見る。兎萌が黒い車に乗るのが見える。兎萌は車に乗る前に上を見上げて大きく両手を振った。可彦も小さく手を振る。たぶん兎萌からは見えないが、可彦の気分の問題だった。

 食事の後、大通りを散歩しながら他愛もなくしゃべり、店を物色して楽しんだ。今まではどちらかというと目的地まで行って、そこで遊んで帰るといった感じだったので、こうやって目的もあまりなく、のんびりとふたりで歩くのは、それだけで新鮮で、心躍るものがあった。

 そうやって買いもしない宝飾店のショーウィンドウをのぞいたり、あれだけ食べたのにドーナツ屋でドーナツをねだる兎萌に驚いたり、アニメショップで新刊の漫画を探したりしながら歩いているうちに、このデパートまでたどり着いた。

 丁度疲れたこともあって、デパートの最上階にある洒落た雑貨店と本屋を冷かしてから、四階にあるコーヒーショップでさらに兎萌がケーキを注文し、一息ついたところで兎萌の携帯が鳴った。

 小声だが言い争う様子がよくわかる。すぐに兎萌は席を立った。そして、ケーキがきて、コーヒーが少し冷め始めたころに帰ってきた。

 兎萌は無言でケーキを掻き込み、それを冷め始めたコーヒーで流し込むと少しは落ち着いた様子を見せ、それからゴメンと可彦に頭を下げた。

 そんなわけで兎萌は自宅に呼び戻された。迎えの車を何とはなしに見送りながら、やっぱりお嬢様なんだなぁと思う。兎萌の家、土蜘蛛を討伐しこの地を平定した黒坂命を祖とする黒坂家はこの辺では名士だった。

 しかしそれを兎萌に告げたときに、べっくんだってお坊ちゃんじゃないか、と言い返さたことがある。確かにそうかもしれない、と思う。可彦の佐伯家も、かつてこの地を支配した土蜘蛛とそれに連なる古い家だった。それはもう気が遠くなるほどに。

 お互いにこんな家に生まれなければもっと自由に会えるだろうか、とふと思う。しかしきっとお互いこんな家に生まれなければ出会うこともなかっただろう、ということも理解できた。

「また会えば、いいよね」

 可彦はそうつぶやくと、飲み残したコーヒーを流し込み、席を立った。




「君、ちょっといいかな?」

 デパートを出て、帰路に着こうと歩き出した可彦に、不意に呼びかけてきた女性は一見OLの様に見えた。ボブカットを軽く七三に分け、細めの黒縁眼鏡が知的で少し冷たい印象を出している。白いシャツに黒のスーツ、タイトスカート。本当に見た目だけでいえばOLだ。

 しかし普通のOLと大きくかけ離れているところ、それは彼女の後ろに二人の制服警官がいるということだった。

「君、中学生? 高校生かな? 学校は?」

 補導員、その言葉が頭をよぎった。平日に街中を歩いているから目を付けられたのかもしれない。

「いや、今年中学を卒業したんです」

「あぁ」

 少し合点がいったという顔をする。

「じゃあ学校は休みなんだ」

「そうです」

「そっかぁ……」

 しかし眼鏡の奥の眼は可彦から離れようとしない。まるで品定めでもするように冷たくまとわりつく。

「でもね、この時期みんなそういうのよ」

 少し困ったような顔を作る。そう、作っているのが可彦にも感じ取れた。

「念のためちょっと来てくれないかな」

 え?っと思った瞬間には後ろに控えていた制服警官が前に歩き出していた。

「すぐに帰してあげるから」

 いつもだったら素直に従ったかもしれない。何もやましいことが無ければ警察とか補導員にはあまり逆らわないほうが良いと思っていたからだ。

しかし今はちょっと違う。昨日の黒坂家との争いもある。それから、なにかこう、言い表せない違和感がある。

自然と可彦の足が後ずさる。

「あら?」

 女性はどこかわざとらしく首を傾げた。

「何かやましい事でもあるのかな?」

 あくまでも優しいが、どこかおかしい。なんとなく、急いでいるような、焦っているような、何かを気が付かせないようにしているような、そんな気がした。

「本当に警察の方ですか?」

「私は違うけど、この二人はそうよ」

 制服警官二人は警察手帳を提示して見せる。たぶんこの二人は間違いなく警官だろう。

「来てくれるわよね」

観念して頷こうとしたとき、その横槍は入った。



「いたいた、こんな所に!」

 現れたもう一人の女性は蒼いチャイナドレスを着た女性だった。すごく目立ちそうなのに、何故かそれがしっくりとして派手に見えない。流れる黒髪は長く腰にまで届き、肌は抜けるように白く、顔つきは美人ながらどこかのっぺりとした印象を受けた。

「探したわよもう!」

 どうやら可彦に向けて話しかけているようなのだが、可彦はこの人物に見覚えが無い。見覚えが無いが、その意図するところは理解できた。助けようとしてくれている。

「ご、ごめんなさい」

 可彦はいきなり頭を下げる。無論警官にではない。新しく現れた女性の方にだ。

「ちょっと迷っちゃって」

「あなたは方向音痴なんだからひとりで歩かないでって言ってるでしょ」

 話に合わせるように声を荒げる女性。いきなり始まった三文芝居にOL風の女性と警官二人は何も言えずに口を半開きのままにしていた。それでもOL風の女性は気を取り直したように言葉をつなぐ。

「えっと、あなたは?」

「姉です。弟がお世話になりました」

 静々と頭を下げる。

「お姉さん?」

「はい」

「なんか……全然似てませんが」

 女性は二人の顔を見比べる。見れば見るほど全然似ていない。それは可彦も感じていることだった。

「それはしようがありません」

 チャイナ女性が静かに話始める。

「腹違いの異父姉弟ですので」 

「ああ……」

 と、OL女性が頷こうとして、その動きが止まる。

「え?」

「ダッシュ!」

 ふたりがまったくの赤の他人であることに気が付いた瞬間。チャイナ女性が声を上げる。その言葉に弾かれるようにふたりは一目散に駆け出した。



「あははははは。ああ、面白かった」

「おねぇさん。そんな靴で良く走れますね」

 チャイナ女性はヒールの高いパンプスを履いていた。それでいて可彦よりも足が速かった。相手はどうやら追いかけてくる気はないらしく、すぐに走るのをやめることが出来た。ふたりはそれでも少しでも離れるべく、しばらく並んで歩いた。

「鍛え方が違うから」

「あ、お礼がまだでした。ありがとうございます」

「うーん。余計なことしちゃったかもしれないけどね」

 女性は笑う。その笑みは明るいがどこか得体のしれない妖艶さが絡みついていた。

「えっと、僕は」

「佐伯の若君でしょ?」

「え!」

「自覚ないかもしれないけど、君、結構有名人なのよ」

 そういうと女性はそばにあった喫茶店に誘う。

「ちょっと休もうか。話もしたいし」

 可彦は彼女に促されるまま、喫茶店に入っていった。



「えっと、あなたは?」

滝口五月たくぐちさつきよ。君は佐伯可彦君でいいのよね?」

「はい」

「土蜘蛛の若君様。いいわよね?」

「えっと、まぁそうなりますか」

 五月と名乗った女性はカフェラテを飲みながら可彦を見つめる。その視線がまるで可彦の顔を嘗め回すように感じられた。

「あの?」

「君がやったのよね?」

「やったって?」

 可彦は時間が止まったかのような感覚に陥った。この女性は何を知っているのだろうか。

「ま、いいわ」

 五月はあっさりと引いた。ただ楽しそうに可彦を再び見つめる。

「さっきの女性もあなたに当たりをつけて声をかけてきたのよ」

 可彦は声が出なかった。すでにいろいろなことが動き出している。自分のしたことはそれだけ大きなことだったのだと、少しづつ実感が渦巻き始める。

「後には引けない。それだけは覚えておいたほうが良いわ」

 そういいながら、五月はカフェラテを飲み終えると、席を立つ。

「近いうちに葛妃様にご挨拶に伺うと思うから、よろしくお伝えておいて」

 そう言い残して立ち去る五月を、可彦はただ見送る事しかできなかった。

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