第80話 塞都アコナイト(3)
すうすうと可愛らしい寝息を立てるリリスを起こさぬよう、細心の注意を払ってそっとベッドに寝かせた後。無言で立ち上がったセレスは入口の扉を静かに押し開き、部屋の外に出た。
「……悪いですが、用事は後にしてもらえないでしょうか。今ちょうど寝入ったところなので」
「おや、お姫様はお眠りですか。構いませんよ、食事をお持ちしただけなので」
「この屋敷に、使用人は?」
「いるにはいますが、あまり戦闘には向かない者達です。当主よりあなたがたの世話は私が仰せつかっていますゆえ、用事があればなんなりと」
慇懃無礼に頭を下げたイロンに、セレスはそういうことかと納得した。曲がりなりにも馬鹿でかい魔力持ちのリリスと半妖魔のセレスを屋敷に招き入れたのだ。下手に使用人をつけて情報を聞き出されたり、何か仕掛けられても困るということだろう。もちろん、当主の右腕であるイロンが暇であるわけではないのだが、リリスとセレスを監視するのも彼の仕事、というわけだ。
「わざわざ食事を持ってきていただき、ありがとうございます。もし当主に目通りすることが叶うなら、明日の朝以降でお願いしたい。俺は平気だが、リリスは山越えで体力を消耗している。今夜はゆっくり寝かせてやりたいのです」
「いいでしょう。主に忠実な犬に免じて、お姫様にはゆっくりと眠る時間を差し上げます。当主も私も楽しみにしていますよ。あなた方との戦いを、ね」
なんといっても随一の魔力を持つと噂される次期当主の姫と「青の妖魔」指定を受けていた半妖魔の組み合わせですからね。そう含みのある言い方をして、不敵にイロンは笑う。返答に迷うセレスに彼は何食わぬ顔で食事を渡し、靴音を響かせながら去っていった。
その夜、ぐっすりと寝入るリリスを見つめながらセレスは眠れぬ夜を過ごしていた。今まで巡ってきた分家の当主たちはみなリリスやセレスに好意的な者ばかりで、本当に顔見せの挨拶をするだけだった。ある程度ロイドも根回しをしてくれていたのだろう。門をたたけば暖かく迎え入れられ、数日間屋敷に逗留して食事を共にし、次の都へと送り出される。それを繰り返して、塞都アコナイトまで来た。
(ここで失敗すれば、リリスはまた次期当主失格の烙印を押されてしまう……)
彼女がようやく自分の手でつかみ取った場所を、セレスのせいで壊してしまうかもしれない、ということがとても怖かった。五つの分家の当主の承認を受けないと、リリスは正式に次期当主の印を受け継ぐことはできない。それが明日、決まるのだ。
さらり、と寝具の上に散らばるリリスの髪をそっと梳く。夢うつつのまま軽く吐息をこぼし、ころりと寝返りを打つ彼女に毛布をかけなおしてやりながら、セレスは大きく息を吐いた。自分ひとりであればどんな無茶な戦い方もできるし、勝てる相手とそうでない相手の区別もつく。だがリリスと二人で「魔法使い」の戦いをするとなると、まだまだ不安が大きかった。自分たちには実戦経験が何より欠けている。それが一番の懸念材料だった。
もともと自分の中にある魔力を使って戦うのと、リリスにもらった魔力で魔法を発動させるのでは、感覚が大きく違う。それは以前ランディと戦った時にも感じていたことだった。いくら戦うときにお互いの意識を
もっとも、何の対策もなしに来たわけではない。ヘパティカに留め置かれている間、ロイドやアルの手ほどきを受けて訓練をしたり、ネリエやシャンディから「魔法使い」同士の戦いに必要な知識を学んだりもした。だが実戦でしか学べない「戦いの感覚」がある。それは訓練だけではどうにもならないものだ。「自分の命の明暗は自分が握っている」という戦い独特の感覚から、このところセレスは少し遠ざかってしまっていた。そのことが何より一番不安を生んでいる原因でもあった。
それでも、とセレスはリリスの寝顔を見て思う。いつ死んでもいい、という刹那的な生き方をしていたセレスに「生きる意味」を与えてくれたのは、まぎれもなくこの少女である。自分はその生き方を選んだことを何一つ後悔していない。それだけははっきりと胸を張って言えることだった。
リリスの胸元に刻まれた紋章と同じものが、自分の左手にもある。双翼と百合の紋章を指でなぞり、すうすうと寝息を立てるリリスのほうへと視線を移す。彼女の向けてくれる全幅の信頼はもちろん嬉しいが、同時に少しプレッシャーでもあった。どうか自分の動きが彼女の期待に見合うものでありますように。そう祈りながら、セレスの眠れぬ夜は静かに更けていった。
「おはようございます。夜はよく眠れましたか?」
「ええ、おかげさまで。ゆっくり休めました」
「それはなにより」
翌日。朝食を届けに来たイロンの言葉に少しばかり口元を引きつらせながら、セレスは平然を装って食器を受け取った。くすくすと笑うのを隠さないところを見ると、どうやらセレスの眼の下の隈はイロンにばれているらしい。食えない狐め、と胸の内で毒づいて、セレスは食事のお礼を述べた。
「礼には及びません。あなた方は私どもの客人ですから。それよりも、当主スティールからの伝言です。今日の正午より、『魔法使いの決闘』を行います。決闘見届け人は、カミーユ・アルベルト。『鋼鉄の魔法使い』ロムド・サーシャ家当主のスティールとその弟イロンがお相手をいたしましょう」
「承知した」
「少し前になったら、決闘見届け人のカミーユがあなた方を迎えに行きます。よろしいですね?」
確認事項をいくつか述べるイロンの言葉にセレスがうなずくと、彼はにっこり笑って踵を返す。ぴり、と空気を震わせる独特の闘気に、彼も相当な手練れの武人なのだということが感じられた。
――あなたのお姫様は「鋼鉄を砕きに来た」と言いましたが、そんな簡単に我等は砕けません。むしろ、地にはいつくばって無様な姿を見せぬよう善処しなさい。
挑発されたことをものすごく根に持っている。そう感じさせる言葉を残して、イロンは部屋の扉を閉めて出ていった。物音で目を覚ましたのだろう、奥でリリスが起きた気配を察知して、セレスは朝食を部屋の中央へと運ぶ。ほかほかと湯気を上げる粥に、塩漬け豚肉をカリッと焼いたもの、それにサラダとフルーツもついていて、腹がぐう、と鳴る。もそもそ目をこすって起きてきたリリスに朝食にしよう、と声をかけ、テーブルに皿を並べていく。そうして二人は朝食をとりながら、正午からの決闘について頭を突き合わせ、時間の許す限り作戦を練ったのだった。
コツコツ、と石の扉をたたく音に、二人は同時に顔を上げた。小さな窓から外を見れば太陽ははるか高くにのぼり、もうすぐ正午になるころである。いよいよだ、という緊張感に包まれながら、セレスはそっとドアを開ける。
「ハァイ、子猫ちゃんたち。戦いの時間よォ?」
「――は?」
「お迎えに来てあげたのよ。さあふたりとも、アタシと一緒に来なさい」
何だこの変人、という反応を思わず真顔でしてしまったセレスをしり目に、ドアの前に立っていた人物は腰をくねらせ、ばちんとウインクをひとつしてにっこり笑った。藤色の長髪を胸元まで垂らし、スリット入りのぴったりしたノースリーブワンピースらしきものを着用している彼は、まごうことなき男性である。どうしたの、と後ろから心配そうにのぞき込んだリリスの視界を体でふさいだ後、セレスは現実を受け止めきれずそっとドアを閉めた。
「ちょっとォ、何するのよ、ひどいわね! 扉を開けなさいったら」
「……人違いを、されているのでは……?」
「あらっ、アタシとしたことが名乗るのを忘れてしまってごめんなさいねぇ。決闘見届け人のカミーユ・アルベルトといいまぁす。以後、お見知りおきを」
うふふ、と笑いながら太くて逞しい腕を扉と壁の間にねじ込み、カミーユと名乗った男はセレスが閉めた扉を無理やりこじ開けた。腕に覚えのあるセレスでさえ全く歯が立たぬほどその力は強く、目の前の人物がただ者でないことを悟る。そうしてセレスはイロンが「時間前になったら決闘見届け人が迎えに行く」と話していたことを思い出し、彼が部屋を間違えたのではないということを理解した。
「急に扉を閉めて申し訳なかった。支度をするから、五分だけ時間をくれないか」
「えぇ、いいわよォ。中のお嬢さんの支度が済むまで待ってあげる。その間、お兄さんはアタシと話をしなぁい? アンタ、とってもいい男じゃないのよ」
「断る。準備を済ませたら扉を開ける。申し訳ないが、それまであんたはここで待っていてもらいたい」
「あらぁ、ざんねーん。お兄さんに似て、とってもいい男だったのに。しかたないわね、準備ができたら声をかけて頂戴」
なぜ兄のことを、とセレスが聞き返す前に、カミーユはさっさと扉を閉めてしまう。そのことをリリスには相談できないまま、ただ「迎えが来た」とだけ告げ、セレスは部屋を出る準備をする。カミーユにリリスを紹介し、彼に連れられて決闘をする場に向かう間もその疑問が解かれることはなかった。そうして集中しきれないままセレスはスティールとイロンの待つ場所へと到着したのだった。
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