第35話 研究所(3)

 変装するからこれを着てね、といわれて手渡されたのは、二人が来ているものとよく似た服の一式だった。


「変装するにはこれが一番いいかと思って」

「ええと……これ、シャンディの?」

「そう。男装すりゃ分からないでしょ」

「ええええー?!」


 驚くリリスを尻目に、シャンディとネリスはせっせと準備を始める。リリスが素っ頓狂な声を上げるのも無理はなかった。手渡されたのは着古した白衣と幅広のゴーグル、黒のキャスケット帽、だぼだぼのズボン、それになぜか足袋。


「さ、リリス、髪はやってあげるから、ほら着替えた着替えた」

「で、でも……」

「僕は部屋から出とくよ。しばらくしたら戻るから、それまでに準備しといてよね」

「……はーい……」


 気乗りしないリリスをおいたまま、シャンディは部屋を出て行った。後ろで髪をまとめてくれるネリエはそのままに、仕方なくズボンと足袋を身に着け始める。リリスより少しだけ背の高いシャンディのズボンは多少長いものの、すそを折り返してしまえば余り気にならなかった。むしろ違和感があったのは足袋のほうだ。


「ネリエ、これ気持ち悪いんだけど……」

「申し訳ないけど我慢してね。あたしだって慣れるのは時間かかったもの」

「でもなんで足袋なの?」

「わかんない。ウチの所長の趣味だから。こっちのほうがパワーがみなぎるとかなんとか……」

「あ、そう……」


 趣味といわれれば納得するしかない。素足で床を歩いている気分で気持ち悪いが、ネリエの言うとおり慣れるしかないのだろう。リリスが足袋に悪戦苦闘している間に、ネリエは手際よく髪をまとめ、毛先をピンで留める。あっという間に腰近くまであったリリスの髪はショートカット風にまとめられた。最後にキャスケット帽をかぶせてネリエは出来上がり、とリリスの頭をぽんぽんと軽くたたいた。


「ハイ、これで終わり」

「ありがとう。後はこれを着るだけかな」


 最後に白衣を羽織ってゴーグルを首に引っ掛ける。これで完成だ。仕上がりを不安げにたずねると、ネリエは笑顔で太鼓判を押してくれた。


「完璧よ。どこから見ても立派な男子研究員だわ」

「そう……かしら」

「ええ、絶対大丈夫よ。さ、いきましょう」


 手を引っ張られ、ドアのほうへ導かれる。だが外へ出る段になって足がすくんでしまった。もし、知っている人にあったら。誰かに正体がばれてしまったら。それが怖くて、なかなか一歩が踏み出せなかった。


「やっぱこれじゃ無理よ……」

「大丈夫だってば、ね?」

「だめ。絶対無理……」


 ぎゅっと両手でキャスケット端を引っ張り、目深にかぶる。前はほとんど見えないくらいに深く。それでも恐怖は一向に収まらない。


 ここから出なければいけないのは分かっている。そうしなければ、何も始まらないのだ。だがそれを上回る恐怖――身内の人間に見つかるかもしれない、という不安がリリスの足をすくませていた。その様子を見たネリエは何も言わず、いったんリリスを部屋の中へと手を引いて戻った。


「とりあえず、シャンディが戻ってくるまで待つわ。それまでに外に出る心の準備をしといてね」

「うん、頑張る……」


 リリスはネリエの優しさに感謝しつつ、ゆっくりと息を吐いた。いつの間にか体に力が入ってしまっていたらしく、どこか呼吸がぎこちない。しばらく二人は黙ったままだったが、不意に思いついたようにネリエがぽつりとつぶやいた。


「しかしまぁ、着れるもんね……ほとんどぴったりだわ」

「たしかにね。ネリエのだったら、多分ぶかぶかだっただろうし……」

「一応あれでも背は伸びたみたいなんだけどねぇ」


 まだまだネリエには届かないよね、と、言ってからリリスとネリエは顔を見合わせて笑った。そこに、ガチャリとドアを開ける音が響く。


「それはつまり、僕がチビだって事を言いたいの?」

「うわわっ、シャンディ、居たの!?」

「今来たとこだよ。ていうかリリス、なーんでそんなに慌ててんのさあ」


 じとっとした目で睨まれ、リリスはぱっと口を抑えた。そういえば、昔からこの友人は身長の事となると怖くなるのを今更ながらに思い出す。


「ええっと、いやその……ネリエ、が……」

「ほんとのこと言っただけよー? だってあたしのほうが背ぇ高いし」


 あっけらかんと言い放つネリエに、逆に慌てたのはリリスのほうだ。いつもは精神年齢の高いシャンディも、昔から身長の事となるとまるで子供のようになってしまう。ネリエお願いだからそれ以上言うのはやめて、と思いながら恐る恐る彼のほうを伺い見る。思ったとおり、シャンディの表情はひどく不機嫌なものになっていた。


「わ、私よりは高くなってるじゃない、シャンディ。ね?」

「君よりは、ね……ネリエより低いことには変わりないんだけど」

「男の子だもの、まだ成長期よ? だからきっとまだまだ伸びるわよ!」


 いつものおっとりした表情はどこへやら、妖魔もかくやという雰囲気を放つシャンディに、今度こそ涙目になりながら必死で弁解する。言いだしっぺであり元凶であるネリエは、いつに間にやら知らん振りして戦線離脱していた。


「ヘぇー……そう。僕もう成長期終わってるんだけどね」

「きゃー! とりあえずごめんなさいっ!!」


 低い声で適当な相槌を打つシャンディの怖さに耐えられなくなり、とうとうリリスは悲鳴を上げる。だが次の瞬間、二人分の笑い声に包まれて、目を丸くした。


「それだけ大声が上げられるんならもう大丈夫だね。怖さ、少しはなくなった?」

「……え?」

「少しは緊張もほぐれたでしょ? さっきまで、酷く思いつめた顔をしていたから……」

「もしかして、私のために……?」


 驚きながらそう問いかけると、二人は笑顔で頷く。気づけば体のこわばりは消え、不安も気にならないぐらいには小さくなっている。リリスは彼らの思いやりに感謝すると同時に、胸がすっと軽くなるのを感じた。


「ありがとう……うん、もう大丈夫よ」


 力強く頷いてみせてから、リリスは立ち上がる。両脇にいてくれる二人がいればきっと、外に出ても怖くない。自分の手をとってくれた友人たちを信じてみようと思った。シャンディの案内のもと、ネリエとともにリリスは外の世界へと足を踏み出したのだった。

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