第32話 放浪
大通りを照らす街灯が暗い夜道を煌々と明るく照らしていた。研究所が立ち並ぶこの区画は、夜が更けてもにそこかしこの建物で明かりがついている。そんな中、通りをふらふらと歩く少女がいた。いくら治安のよいヘパティカとはいえ、この歳の少女がうろつくには少々時間が遅い。
だが、少女に目をとめる者はほとんどいない。皆遅い時間に帰る研究者たちで、これっぽっちも他人に興味がない者たちばかりである。それは、二つの意味で少女にとって幸いといえた。襲われる心配がないこと。そして、彼女の様子に目をとめられないこと。しっかりとみれば、少女が泣きはらした顔をしているのは一目瞭然だった。
――盗み聞きするつもりなどなかった。ただ、目が醒めて眠れなくなってしまったので、伯父と伯母と話をしようと思っただけなのだ。かすかに開いていた扉の向こうから『青の妖魔』という言葉が聞こえ、思わずドアの前で息を潜めた。そのあとすぐに、ひどく感情的な伯母の声が聞こえた。
『リリスは……あの子は弟の方の『青の妖魔』を愛してしまっているのよ……!』
(弟のほうの『青の妖魔』? 私は昼間にセレスは違うといったのに。どうして彼をそんな風に呼ぶんだろう。それに、私がセレスを愛している……?)
伯自分がセレスに抱く気持ち。それがいったい何なのか、自分にさえ分からなかった。彼のことを考えると胸が熱くなり、鼓動が早くなる。この感情を、愛しているというのだろうか? そんなことを考えながら、リリスは伯父の次の言葉を聞き取ろうとドアへと耳を押し当てた。そうしないと、故意に押し殺しているような伯父の声は聞き取りにくかった。
『待て、まだそうと決まったわけじゃないだろう。あの子から話を聞いてみないことには──』
『あの子の目を見ればわかるわ! もう決めてしまっているのね。自分のすべてを委ねてもいいと思える人を』
『セレナ……』
伯母をこんなにも苛立たせている原因は何なのだろう。伯父をこれほど覇気のない人にしたのは何なのだろう。リリスの所為か、セレスの所為か、それとも――そんな思考は、次に聞こえてきた言葉ですべて吹き飛んだ。
『それを、私たちが殺さなければならないのよ……!』
目の前が、真っ白になる。伯母の言っている意味が理解できなかった――否、理解したくなかった。
ソレヲ、ワタシタチガコロサナケレバナラナイノヨ――……!
意味を成さない言葉の塊だけが思考回路を通り過ぎていく。頭のてっぺんから冷水を浴びせられたように全身が寒くなり、足が震える。そのせいか、まるで真冬の廊下にいるみたいに体がガタガタ震えて強張った。とっさに体重を支えられなくなってたたらを踏むと、足の下で床が軋む音が大きく響く。
見つかってしまう──すぐにそう感じたが、意に反して足は動かないままだった。部屋の中から足音が聞こえ、目の前の扉が開く。息をのむ音とともに伯父と伯母がこちらを見つめた。リリスにこの話を聞かれてしまった。そんな後悔と驚きが入り混じった表情がすべてを物語っている。リリスは急に二人が怖く思え、思わず距離をとるようによろよろと後退った。
『……っ』
二人と一人の間で時が止まる。リリスは一瞬でも早くこの場から逃げ出したくて、動かない体を無理やり動かして廊下を駆けた。今この場で転べば二人に捕まるのは確実だ。何も考えられない頭の隅で必死に体を動かし、階段を下りる。伯父や伯母も追いかけてはくるものの、どうやら追いついてこれないようだった。
とにかく今はこの場所を離れたかった。ただそれだけを胸に、リリスは無我夢中で走り続ける。そのため、いま自分がどこを走っていてどこに向かっているのか、さっぱり分からなかった。
もう、何がなんだか分からなくて。考えることすらできなくなっていた。ありとあらゆる感情が入り乱れ、心の中はぐちゃぐちゃだった。ふらふらと彷徨い歩き回る気付けばみたこともない区画に迷い込んでいた。大きな建物がたくさん立ち並び、大きな機械音や明かりが漏れる明るい街。リリスはいくあてもなく建物の間をさ迷い歩いた。
それも長くは続かない。一歩前へ踏み出すごとに重くなる足と体に負け、とうとうリリスはひとつの建物の壁にもたれるようにして座り込んでしまった。
「ちょっと……ちょっと、休むだけ……」
そうつぶやいて、ゆっくりと目を閉じる。泣き過ぎて腫れていたまぶたを重力に従って落とすと、少しだけ楽になった気がした。そうすることは、どこか望みのない願いにも似ていた。
(どうかこれがただの夢でありますように。今度起きたら、全部元に戻っていますように――)
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