第27話 別離


 別れの時は程なくやってきた。あらかじめ、ついていけるのはスラムの出入り口までだと言われている。今いる宿からそこまでは余りに短い分かれ道だった。


 むき出しの土を踏みしめる音が交互に続く。示し合わせたわけでもないのに二人の歩みはずいぶんとゆっくりで、リリスはセレスと別れるまでのつかの間の時間を噛みしめた。会話はなかったが、傍にいられるだけでよかった。姿を見ているだけで、並んでいるだけいるだけで幸せだった。


 まだ少し。そう願う想いをよそに、別れの時は近づいてくる。やがて見えてきたのは崩れかけの石階段――そこを登り切れば終わりだ。


 コツ、コツと石階段に響く音は別れの時を刻むカウントダウンのようだった。階段を登っていくにつれ、ゆっくりと大通りの喧噪が近づく。


 あと二歩。

 一歩。

 そうして、セレスの歩みが止まった。


「……すまない。俺が来れるのはここまでだ」


 歩みを止めたリリスはゆっくり頷いた。大丈夫、まだ泣かないでいられる。そう自分に言いきかせて顔を上げる。


「本当に……ありがとう」

「こっちこそ礼を言う。おまえのような人間は初めてだったからおもしろかった」

「私のような人間?」

「こんなによく泣く人間をみたのは初めてだ」


 なかば苦笑するように言ったセレスに、リリスは少しばかり唇を尖らせて抗議した。


「誉めているのかけなしているのか、いったいどっちなの?」

「誉めているんだ。喜怒哀楽の大きい人間だと」

「誉められてるようには聞こえないけど……ありがとう」


 ふ、とセレスの目元がゆるむ。それをみて、リリスも微笑んだ。沈黙した二人の間を、ざぁっと風が駆け抜ける。不意に伸ばされたセレスの手がリリスの頭にのせられた。


 何をされるのだろう思って見上げると、目を細めたセレスはやさしく頭をなで始めた。思いもよらない行動に、リリスは固まってしまう。そんなことをされたのは、あの夜以来だった。


 温かい手は優しくて心地よかった。頭をなで、髪をすき、セレスの大きな手が何度も行き来する。くすぐったいような、むず痒い感覚。そのぬくもりが離れていくまで、リリスはそっと目をとじていた。その感触を──優しいぬくもりを、ずっと覚えていられるように。


「……あまり泣くんじゃないぞ。もう泣きやませてやれないからな」


 優しい声音でそう言われて、胸がいっぱいになる。声を出すと泣いてしまいそうで、ひとつ頷くのが精一杯だった。


(だめ。あともう少しだけ、我慢しなきゃ)


 そう自分に言い聞かせ、とびきりの笑顔で上を向く。


「大丈夫! もう泣かないわ。セレスなんていなくても平気よ。心配しなくて大丈夫なんだから!」


 精一杯明るく言って、くるりとセレスに背を向ける。そうでもしないと、今にも泣いてしまいそうだった。


「そうだな。それだけ笑えているなら安心だ」


 耳の奥で優しく溶ける声音に、自分の空元気が気づかれなくてよかったとリリスは安堵する。ほんの少し、彼の声音に翳りが混ざったことに気づかないまま、リリスは背を向けて別れを告げた。


「もう行くわ。あんまりここに居たら、誰かにセレスの姿が見つかってしまうかもしれないし」

「そうだな。じゃあ、元気で」

「セレスこそ体を大事にね! さよなら!」

「ああ……さようなら」


 最後のセレスの言葉が終わらないうちに、リリスは走り出していた。一度も後ろを振り向かず、ただ宿までの道を走る。


 走って、走って、ひたすら走った。途中何度も人にぶつかったが、今はそんなことを気にしていられなかった。止まってしまえば、後ろを振り向いてしまいたくなる。振り向いてしまえば、もう一度彼のところへ戻りたくなってしまう。スノードロップに着くまで、リリスは止まらずに走り続けた。息が切れて早く走れなくなっても、ずっと。


 ようやくスズランの看板が見えてきたところで、リリスは足を緩めた。激しい動悸を押さえるように胸に手をやり、息を整えながら歩いていく。ふと、看板の前に立つ人の姿が目に入った。本当ならいるはずのない人に、リリスは大きく目を見張る。亜麻色の髪に琥珀色の目を持つひと──彼はリリスを見つけるとすぐに駆け出してきた。


「伯父様?!」

「すまなかったね、リリス。もっと早く来る予定だったんだが、遅くなってしまった。随分とつらい思いをさせてしまったね」

「ルディ伯父様っ!!」


 最後に会ったときと全く変わらない優しい笑顔をうかべた伯父に迎えられ、リリスは思い切って胸に飛び込んだ。すぐにぎゅっと大きな腕に抱きしめられ、リリスの最後のプライドが瓦解する。道の真ん中だということも忘れてリリスは泣きじゃくった。あとからあとから溢れてくる感情に頭が追いつかなくて、ただ泣くことしかできなかった。


 ルディはずっと、泣くリリスを抱きしめたままそこに居てくれた。やがて少しずつその泣き声が収まってくると、伯父はリリスを抱え上げ、宿の中へと入る。つれてこられたのは、リリスが寝泊りしていた部屋だった。


「伯父様……」

「何も言わなくていい。辛い思いをしたんだろう? 今はゆっくりお休み。ずっとついていてあげるから」

「うん……ありがとう……」


 泣くのに体中のエネルギーを使い切ってしまったのか、頭が霞がかかったようにぼうっとする。言われるがままにリリスはベッドに寝かせられ、その目を閉じた。


 今は眠ろう。そして、次に起きたときにはこの気持ちを忘れられていますようにと祈ろう。でないと、またあの人に逢いたくなってしまうから。


 ――せっかくの決意が、揺らいでしまいそうになるから。

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