第26話 別れの朝

 日が昇り始め、人々が起き出す時間になったころ。すでに起きていたリリスは部屋の端の台に置かれた粗末な鏡を見つめていた。準備は万端。朝早く起きて身なりも整えた。赤く腫れていた目は、日の出とともに起きて井戸水で冷やしたおかげですっかり元通りになっている。治安が悪いのであまり部屋の外へ出ないようにセレスから言われていたが、泣き顔を見られたくなかったので宿屋裏の井戸までは一人で行った。どうかバレていませんように、と祈りながらリリスはもう一度鏡に向き直って自分の顔を見つめた。


 もう、泣きそうな顔はしていない。昨日あれだけ泣いたからきっと大丈夫だ。自分が笑顔でいられているのを確認して、リリスは椅子から立ち上がった。もうすぐセレスが朝食を持ってきてくれるはずだ。ドアがノックされたら元気よく返事をしなければ――そんなことを考えているうちに、控えめな音が部屋に響く。まだリリスが寝ているかもしれないと思って小さめの音で叩いてくれたのかもしれない。


「おはよう、セレス! どうぞ入ってきて」

「おはよう。よく眠れたか?」

「……ええ、ちゃんと眠れたわ。大丈夫よ。体力も回復したし、ね?」


 リリスは精一杯の笑顔を作って答えた。ここの宿屋の壁は薄そうだったし、泣いている声が漏れたのではと思考をめぐらせながらセレスの顔色を伺う。そんな不安を知ってか知らずか、彼はひとつ頷いただけでそれ以上追及しようとはしなかった。どうやらいらない心配だったらしい。リリスは途端ほっとした表情になった。


 小さなテーブルに置かれた朝食は引き割りとうもろこしのパンと水だった。二人が向き合う形で朝食が始められる。どちらとも、顔を合わせずに下を向いてただ黙々と食べるだけだった。安い引き割りとうもろこしの粉で作られたパンはかなりパサパサで、咀嚼そしゃくするたびにのどへと絡みつく。


 食べ物が不足しているスラムでセレスが苦労して手に入れてきてくれた食事だ。十分にそのことを理解していたから文句は言えないが、はっきり言って飲み込むのにも一苦労するほどに不味い。昨日の食事は、これほどではなかったと思う。味が違うのは、昨晩は和やかに会話が進んでいた所為なのだろうか。だが何か話をしたいと思っても、一体何を話せば良いのかさっぱり分からなかった。


「……あのね、セレス」

「――ちょっといいか」


 沈黙に耐えかねてリリスが口を開くと、その声はセレスのものと重なった。とっさに顔を上げたリリスとセレスの目が合い、視線が絡み合う。美しい空色の瞳にじっと見つめられ、リリスの心臓が跳ねた。


「セレス、あなたからどうぞ」

「いや、いい。先に話してくれ」

「いいの? ええっと、その……」


 話を譲ろうとするとセレスに譲り返され、リリスは困った。とりあえず何か話そうと口を開いただけで、話の内容までは決めていなかったのだ。何を話せばいいのか口ごもりながら必死で考えを巡らせる。とっさに出たのは突拍子もない台詞だった。


「あなたのお兄さん、名前はなんていうの?」

「は?」

「あの、その、いえ……ちょっと気になっただけなんだけど……」


 すぐにセレスの顔色が変わったのを見て、しまったと思った。青の妖魔が気になっていたのは本当だが、この話題があまりにもまずかったことは明らかだった。


「ちょっと聞いてみただけなの。ごめんなさい、嫌な事を思い出させてしまって。もうこの話は終わりにしましょう」

「――カイヤ、だ」

「え……?」


 リリスは驚いて顔を上げた。必死にその場を取り繕い、話を終わらせようと躍起になっている最中の言葉だった。何とか言われた言葉を頭の中で繰り返し、それが先ほどの答えだったのだと認識できたのは少したってからのことだった。


天青石セレスタイン藍晶石カイヤナイトという石は知っているか」

「それって魔石の……? あっ!」

「そうだ。俺たちの名前はそこから付けられた。瞳の色だけが違う双子――石を構成している元素は同じなのに、持つ能力と色が違う石のようだといわれてな」

「清き聖上たる力持ちし

天青石セレスタイン……強大な暗黒の力持ちし藍晶石カイヤナイト……」


 その二つの石の名前を聞いて思わず口ずさんだのは、魔法使いの間に伝わる魔石の伝承だ。天青石は晴れた日の青空の色、藍晶石は暗闇に包まれた夜空の色。それは、リリスがセレスやカイヤに会ったときに感じた感想と同じものだった。


「俺たちの母は魔法使いだった――いや、両親が、というべきか。魔法使いは二人でひとつだからな。だから、母がそう名づけたんだ」

「そうだったの……」


 だからこの名前なのかとリリスは深く納得した。母親が魔法使いに関わる者なら、この伝承を知っているのにも頷ける。まさかあの質問から名前の由来にまつわる話が聞けると思いもしなかった。内心嬉しく思いながらも、リリスはそうっとセレスの顔色を伺う。顔色を変えずに話をしているものの、声を聞く限り機嫌が良いとはいえなさそうだった。


「この話はここまでだ。俺は食べ終わったからそろそろ自分の部屋へ戻る。 昼になる前に宿へ送り届けるから、それまでに準備をしておくといい」

「わかったわ……あの、ありがとう」

「かまわん。じゃあな」


 どこか冷たく感じられる声で、セレスはさっと立ち上がって部屋を出て行った。彼の後姿を見送りながら、やっぱり別の話題にすればよかったと思いながらリリスも重い腰を上げる。先ほどセレスが言いかけた言葉を聞いていなかったことに気付いたが、すでに彼の姿は部屋から消えていた。


「あぁ、また失敗しちゃったかしら……」


 早くも泣いてしまいそうな気分になりながら、リリスは己の失敗を振り切るように身支度を始めたのだった。

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