第28話 密約

 あっという間に走り去ってしまったリリスの後姿を、セレスは見つめていた。やがて人込みにまぎれてその姿が見えなくなってしまっても、ずっと。彼女が傍らから居なくなり、ぽっかりと心の一部分が切り取られたような空虚感だけがあとに残った。


「きっと……また泣かせてしまった」


 自嘲気味にポツリと呟いた言葉は力なく風に流されていく。彼女とは一緒に居られない、そう決めたのは自分だ。変わっていくことを怖がって、彼女を手放すことを選んだのも自分。それなのに、やるせなさと寂しさだけがどんどん大きくなっていく。


 少しだけ前へと伸ばしかけていた手を強く握り締める。さきほどリリスが別れを告げて走り出したとき、待ってほしいと一瞬だけ言いかけた。彼女を引きとめようと手を伸ばしかけたのだ。すぐに自分が何をしようとしたのか気づいてその手を止めた。あともう少しだけ手を伸ばしていたら、 きっと彼女の服の端は捕らえられただろう。


 そう考えてから、自分はリリスを引き止めたかったのかと気づく。彼女と一緒に居たいという想いは昨日断ち切ったはずだった。未練などないと思っていた。それなのに、気づけば彼女を傍に引きとめようとしていた自分は浅はかさに呆れた。今ではもう、どれが自分の本心なのか全くわからなくなっていた。


 ずきりと痛む胸の奥にあるのは、いったいどの想いなのだろうか。爪が食い込むくらいに握りしめられた手を見つめ、セレスはその場に立ち尽くしていた。


「自分の選択を後悔しているのかい?」

「――っ!!」


 不意に後ろから投げかけられた言葉に驚いて振り返る。こちらを見て面白そうに笑っていたのは、リリスが先ほど帰っていったスノードロップの主人だった。


「やぁ。あなたが後悔している顔なんて初めて見たよ。なかなか面白いものだねぇ」

「なぜお前がここにいる。あいつを――リリスを迎えてやるんじゃないのか」


 半ば殺気に似たとげとげしさを隠すこともなく、セレスは主人に問いかけた。昨日、金をやって使いに出した浮浪者が告げた伝言では、彼はそう確かに言っていたはずだ。それなのに、なぜ彼がここにいるのか理解できなかった。


「本当はそのつもりだったんだよ。でも、私以上に適役が登場したからね。涙に濡れたお姫様を出迎えるのは そちらに任せようと思ったのさ。で、お役御免の私は傷心の君を慰めに来たと言うわけだ」

「戯言はほどほどにしろ。殺されたいのか」

「おやおや、本当の事なのに。それに殺すとは穏やかでないねぇ。せっかく私がしてあげたお膳立てを、 君はことごとく無駄にしてしまっただろう」


 飄々とした口調に苛立ち、セレスはさらに殺気を露わにして吐き捨てる。この男はいつもこうだ。だから余計にイライラする。


「宿屋にいる間にあの子を喰っておけば、あの魔力は永遠に君のものになった。そうすれば、見境なく魔力を喰って蓄積している君の兄にも簡単に勝てただろうにね。惜しいことをしてくれたものだ」

「あいつを物みたいに言うんじゃない。俺が決めたんだ。あいつは巻き込まない、と」

「まさか、恋愛感情でも抱いてるのかな?」

「俺が? あいつに? 人間相手にそんなものを抱くなんてありえない」


 自分で答えたその返答になぜか胸がざわついた。『好き』などという感情を、セレスは人を含め誰にも抱いたことはない。そもそも、その感情がどんなものであるかすら知らない。だがリリスに対して形容し難い感情を抱いているのも事実だ。もし、彼女に向けるものがその感情だというのならば――。


「じゃあ、君が彼女を巻き込むのを厭うのは何故?」

「……」

「答えられないのだろう? 彼女に抱く想いを」

「そんなことはない。ただの、気まぐれだ……!」


 我ながら苦しい言い逃れだと思ったが、この男に本心は絶対に悟らせたくなかった。知られたら最後、間違いなく利用しつくされる。そうなればまたリリスを巻き込むことになるだろう。それだけは嫌だった。


「君もなかなか悪あがきをするな。まあいい。私は私のやり方で事を進めさせてもらうだけだから」

「おい。あいつにだけは手を出すな」

「さぁ、約束は出来かねる。私は君みたいに小娘へ情を移して、本来の目的を忘れるような男ではないのでね」


 相変わらずするりするりと逃れていく男の言葉に歯噛みする。間違いない。この男はセレスを思い通りに動かすため、リリスを利用する気でいる。


(冗談ではない。あいつを利用されてたまるものか……!!)


 そんな事をされるくらいなら、この男の口車に乗るぐらい容易いものだと思った。


「ふざけるな! あいつをどうする気だ!!」

「おや、君があの『青の妖魔』を倒してくれればいいだけの話だよ? そうすれば私はあの小娘なんぞに手を出す必要はまったくないんだけどねえ」


 へらり、と主人は笑う。挑発されている、とわかっていても、セレスは後に引くことができなかった。この男の思い通りに動くしかない状況に苛立ち、吼えるように言葉を継ぐ。


「俺はそうするつもりだ! だからあいつに手を出すな!!」

「へぇ。対抗できるほどの魔力も持っていないのに?」

「そんなもの、なんとでもなる!」

「何とでもなる、か。よほどあのお嬢さんが気に入ったみたいだねぇ。ならば、君に猶予をあげよう」


 その言葉と同時に、すうっと主人の纏う空気が変わる。表情はまったく変わっておらず、笑みをたたえたまま。それなのに、目はまったく笑っていない。この男は本気だと、セレスは悟る。彼は相手の弱点をつかんだら最後、捉えて離さない猛獣のような男だ。弱点を見せてしまった者は、従うことしか許されない。


「一週間。一週間の間に君が『青の妖魔』を倒せたなら、約束どおりあの子には手を出さないよ」


 にぃ、と男が口端を吊り上げた。セレスがその言葉に少し緊張を緩めたのもつかの間、男はさらに口を開く。こちらをひたりと見据えるのは、獲物を狙うような鋭い目。同じ人間を切り捨てることも、利用することも厭わない。人間のくせに、妖魔より非情な男。


「でももし、それが果たせなかったら」


 死刑宣告のような言葉が紡がれていく。ねっとりと絡みつくような声が、耳朶を侵し、無理やり頭の中に侵入する。聞きたくない――そう思っても、男の声は止まらない。


「私はあの子の血と魔力を使って妖魔を倒す。その場合、まず命を奪うことになるだろうね」


 選ぶ余地のない選択を突きつけられ、セレスは静かに怒りをたぎらせる。できるなら、目の前の男を今すぐ殺してしまいたかった。だが、怒りに任せて男の命を奪えば、セレスも青の妖魔同様人に徒なす妖魔として追討されることになるだろう。そうなれば、関わりのあったリリスにも迷惑がかかる。そう思うと、怒りにまけて力をふるうことはできなかった。


「一週間で倒す。そうすれば、あいつに手は出さないんだな?」

「約束するよ」

「ならば、お前の望むとおりに」


 お前には屈しない。ただ、彼女のためにやるだけだ。その意思を伝えるように、セレスは男を睨みつけた。選択次第でリリスを救えるなら、自分はなんだって選んでみせよう。たとえ自分の命をかけてでも、必ず。それは初めて明確に自覚したリリスへの想いだった。


 まだ、その感情が何であるかを理解するのは、もうすこし先の事。

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