第23話 お互いの名前

「それで、ここはどこなの? へパティカ……ではあるのよね?」


 窓の外に広がる見慣れない景色を見てリリスは首を傾げた。外の薄暗い路地には平屋建ての建物が所狭しと立ち並び、道には覇気のない少年や薄汚れた衣服の老人がうろついたり壁にもたれて座ったりしていた。日はもうすでに高く上っていたが、町はどこか薄暗い。賑やか過ぎる喧騒に包まれているヘパティカしか知らないリリスが不思議に思うのも無理はないほど、 町は静かで陰鬱な雰囲気を漂わせていた。


「ここは貧民街スラムと呼ばれている地域だ。お前が疑うのもわかるが、へパティカの中にある場所だぞ」

「スラム……?」

「知らないのか? どこの都市にも必ずあるものだが。 行く当てのない貧しいものや孤児たちがつつましく身を寄せ合って生きている場所をスラムと呼ぶ。無法地帯だから治安はかなり悪いがな」

「そうなの……」


 衛生状態の悪い場所で暮らすしかない人たち。常に犯罪と隣りあわせで、明日の食べ物さえままならない生活を送る人々。そんな世界があるなど、全く今まで知らなかった。自分がどれほど狭い世界で育てられてきたのかと言うことを改めて目の前に突きつけられ、リリスはひどく衝撃を受けた。


「……ねえ、だったらどうしてこんなところに宿があるの? ここに来る人は宿にとまるお金なんてないでしょう」

「ああ。生活するのにすら困る人々が多いからな」

「じゃあ、ここを利用する人たちはなぜわざわざ治安の悪いスラムへ来るの?」


 素直に疑問を口にしたリリスだったが、少し面白そうな色を浮かべる男の瞳に気付く。何か変な質問をしたのかと首を傾げたリリスに、男はわかりやすく言葉を選びながら説明してくれた。


「お金があるのにここに来るやつはまずいない。金があれば身包みを剥がれて終わりだからな。 だが、誰も来ないと言うことに利点を見出す者もいるんだ」

「訳アリの人が身を隠すのに便利、ってこと?」

「まあ、そんなところだな。腕っぷしが強ければ、何かと都合のいい場所だ」


 確かにこの容姿ではそうそう街中を歩けないだろうとリリスは納得した。特に今このへパティカでは青の妖魔がどこそこに出た、何人殺したと散々騒がれている。彼の強さなら身ぐるみを剥がれることはまずないだろうし、身を隠す場所には最適の場所だった。


「本当はお前が泊まっていた宿に運ぼうと思ったが、あそこは特に魔法使いが多くて行けなかったんだ。ちゃんと眠れたか?」

「大丈夫、ちゃんと休めたわ。ほら、もう全然平気よ?」

「おい、すぐに立っては――」

「え……きゃっ!」


 大丈夫だと言いたくて、リリスはベッドから勢いよく立ち上がって見せた。その瞬間に視界がゆらりと揺れ、急に暗くなる。とっさに近くのものをつかもうとしたが、その手はむなしく空を切った。倒れる――思わず目をつぶったリリスは力強い腕に引き寄せられ、何とか床に叩きつけられることは免れた。恐る恐る目を開けてみると、近くにあったのは心配そうな男の顔だった。


「大丈夫か?」

「ええ……あの、ありがとう……」

「すぐに立ってはだめだ。まだ昨日の魔力消費の負荷が大きいだろうから。こんなところですまないが、もう少しだけ寝ておいたほうがいい」

「でも……」


 早く帰らないと宿の主人が心配するかもしれない。その言葉は心配そうな男の顔を見て言えなくなった。眉根を寄せて申し訳無さそうにする男はリリスをゆっくりとベッドの上へと運び、深く頭を下げた。


「お前は魔力を渡すのがはじめてなのに、無理をさせて悪かった。本当はあんなに食……もらうつもりはなかったんだが……その、あまりに美味くて……」

「えっ?」

「とにかく、悪かった。お前が元の体調に戻るまではきちんと世話をするから、それまではここにいてくれないか」


 謝罪の言葉の最後が聞こえずリリスは首を傾げる。狼狽えた表情の男は同じ言葉を繰り返すことはなく、結局ごまかされてしまった。だが、誠意の見える彼の態度に絆され、リリスは言われたとおりもう少しここで休んでいくことに決めた。


「わかったわ。あなたの言うとおりにする」

「すまないな」

「こちらこそごめんなさい。あなたに迷惑をかけてしまって……」

「巻き込んだのはこっちだ。お前が謝ることはない。少ししたら食事を持ってくるから、それまでここで横になっているといい」

「そうするわ。ありがとう」


 お礼を言ったリリスに優しく微笑み、男は背を向けて部屋を出ていこうとする。その後姿に、リリスはずっと聞きたかった問いかけを投げかけた。


「ねぇ、あなたの名前を教えてもらってもいい?」

「そういえば名乗ってなかったな。俺の名前はセレス。セレス・ティルヴィアだ。お前の名は?」

「私はリリスよ、リリス・サーシャ」

百合リリスか。いい名だな」


 そういって部屋を出て行くセレスの後姿を見ながら、リリスは自分の鼓動が早くなるのを感じた。名前を褒められたなんて初めてだった。高揚していく感情を抑えるように膝を抱えて、リリスはぽつりと呟いた。


 ――セレスもいい名前よ、と。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る