第6話

 夜更けの内に雨は上がっていた。

 朝ぼらけの草木には露が下り、雨にはない清清しさと共に土や緑の濃い匂いを漂わせている。だが、寒露が過ぎて日に日に寒さも増している。もう少しすれば、この露は霜へと変わるだろう。

 目を覚ましたお鈴が身じろぐと、夜着の中にそれを裏付けるような冷たい空気が忍び込んで来た。

 そろそろ行火あんかやらが恋しくなりだすが、炉開ろびらきはこれからひと月よりも先かと、まだはっきりとしない頭で考えながら体を起こす。一気に襲いかかる冷気に首を竦め、それでも緩慢とした動きで夜着を手繰り寄せる。

 障子越しに入る明かりの具合からして、奉公人はとうに働き始めているだろうに、朝でもよく通る福屋の女中・おきよの声が聞こえない。今は何刻なんどきなのだろうかと視線を巡らせて、やっと頭の中も起き出した。

「おはようさん」

「……おはよう」

 おきよの声など聞こえるはずがないではないか。ここは日野屋の離れだ。

 お鈴の視線の先には隣の布団で肩肘をついて寝転がり、欠伸を噛み殺す宗次郎がいた。しかし、その身なりは借りた寝巻から既に自身のものへと変わっている。

 寝過ごしてしまったのかと外の音へ耳を傾けるが、奉公人の喧騒も棒手振ぼてふりの声も聞こえない。離れなのだから、それも当然と言えば当然だが。

「俺も少し前に起きたばっかで鐘は聞いてねぇんだが、そうだな……六ツ半過ぎってとこじゃねぇか?」

 お鈴の考えを見抜き、宗次郎が先んじて答えをくれた。

 流石に朝五ツを過ぎる前には起こしに来るであろうし、確かにそれくらいかもしれない。思いのほか疲れていたらしく、鐘の音では目が覚めなかったようだ。

 とにかくまずは自分も着替えてしまおうと、お鈴は借りた行李こうりから自分の着物やらを出すと、枕屏風まくらびょうぶに隠れて手早く着替えを始めた。

 そして寝巻をたたみ、行李の中に残っていたかんざしを手に取ったところで、この部屋にはある物がないことに気付く。

 それは鏡だ。

 普段使われていない離れでは置いてなくても仕方がないが、鏡無しで簪を挿すのは難しいし、髪も直せない。後で借りることとして、ひとまず簪は帯の間に挟んでおく。

 身支度が一段落して腰を下ろすと、頃合い見計らっていたかのように障子の向こうに薄く人影が差した。

「失礼してもよろしいでしょうか?」

 年嵩のいった男の声だった。

 宗次郎は一度お鈴を振り返り、その身なりを確認してから返事をする。もう一度「失礼します」と言って障子を開けた人は、昨日座敷へと案内してくれた番頭だった。

「ああ、既にお召替えされた後でございましたか。昨晩は十分にお休みになれましたか?」

 穏やかな笑みを浮かべた番頭の落ち着いた声に、宗次郎も返事と共に笑みを返した。

「それはようございました。たらいをお持ちしたのですが用意させていただいても?」

「ええ、お願いします」

 それでは、と少し下がった番頭の元居た場所に今度は女中が姿を現し、「失礼します」と一つ頭を下げると静かに部屋へと入ってきた。

 邪魔にならないよう避けると、女中はてきぱきと動き夜具を隅に片付け枕屏風で隠した。一端部屋を出て持ってきた盥を中へ入れて、横に手ぬぐいも用意する。最後にまた一つ頭を下げて部屋を後にした。そして、入れ替わるようにまた番頭が姿を見せる。

「すぐに朝ご飯もお持ちしますので、どうぞこのままお寛ぎになってお待ちください」

「あ!」

 番頭は頭を下げ、今にも障子を閉めそうだったので、お鈴は慌てて声を上げた。そんな声にも表情を変えることなく対応するのは流石である。

「どうかなさいましたか?」

「いえ、あの、鏡を貸して欲しいのですが」

「おお、これは気が付かず申し訳ございません。それもすぐにお持ち致します。それでは」

 番頭は今度こそ障子を閉めた。

 盥にはぬるま湯が張られており、忙しい中での気遣いが有り難い。冷めてしまっては申し訳ないので、二人はすぐにそれを使って顔を拭う。

 さっぱりとしたところで朝餉の膳が運ばれて来た。給仕のためにと、ひとり女中を置いていこうとしていたが、それは丁重にお断りした。

「鏡は後ほどお内儀が参ります折にお持ちするそうでございます」

 膳と一緒に再度やって来た番頭は、最後にそう言い置いて戻って行った。

 ならばと手を付けた膳を食べ終わえた頃、朝五ツの鐘が聞こえる。それから五ツ半までにはここを発つのがよかろうと話しているところへ、おえんがやってきた。

 腕に柄鏡の鏡箱を抱え、女中を連れている。だが女中は部屋にあった膳を持ってすぐに戻って行き、おえんだけが部屋に残った。

 並び座る宗次郎とお鈴に向かい合う形でおえんが座り、互いに朝の挨拶を交わした。

「雨が上がって良かったわ。まだぬかるんだ所もあるでしょうけど、良い天気だもの、それも直に乾くわね」

 おえんは鏡箱を畳へ置き、安堵を含む声でそう言うと障子を開け放して外を見せてくれた。

 切り取られた空からは陽の光が強く降り注ぎ、庭の草木に残る滴を輝かせていた。遠くの方にはいわし雲も見える。今はまだ冷たい空気がそこかしこにいるが、ひるにはそれも温かいものになりそうだ。

「本当に良い天気ですね。これなら帰りも安心です」

「そうね。帰りは浅草寺あたりを見物してから帰るのかしら?」

「いえ、残念ですが今日はそのまま帰ります。わたしたちが下手をしてないか、おふくろも気が気でないでしょうし」

「まぁ! ふふ、では二人はとても立派だったと一筆書きましょうか?」

「それは頼もしい援軍ですね」

 とても和やかな会話だった。

 もしかすると昨日の話をもう一度くらいされるかもしれないと、お鈴は密かに思っていた。しかしそれは杞憂であったらしい。おえんはそんなそぶりもなく、宗次郎と楽しそうに話をしている。

 そんな姿を見ていると、去来するのは昨晩宗次郎と話していて浮かんだ事柄だ。これはおえん本来の姿なのか、それとも――。

「あぁそうだわ。お鈴、ごめんなさいね。鏡が無いことに気が付かなくって。これを使って頂戴な」

 その言葉にお鈴ははっとした。どうやらおえんへと視線を向けたまま考え込んでしまっていたらしい。おえんはその視線の意味を鏡のことと勘違いしたようだ。

 持ってきた鏡箱の蓋を取りお鈴の前へと差し出した。南天と菊の文様が描かれているその鏡は、ひと目で年代物だと見て取れた。そして、きちんと手入れされているのも窺える。

「ありがとうございます。でも、あの、とても大切な物とお見受けしますが、使ってもよろしいのでしょうか?」

「もちろんよ。確かに古いものだけれど、道具はやっぱり使ってあげなくては死んでしまうもの。それに、鏡だって偶には若い娘の姿を映したいに決まっているわ」

 そんなことを茶目っぽく言うものだから、お鈴も笑ってしまった。「それではお借りします」と告げてから、鏡箱を手元に引き寄せ宗次郎との間に置いた。

 それからまた是非遊びに来て欲しいなどと話をしている途中で、ふと、おえんがお鈴の頭に目を留めた。お鈴もその視線に気付いて小首を傾げる。

「少しびんが崩れているみたい」

「え、本当ですか」

 お鈴は言われた側の鬢を撫でてみたが、それだけではいまいちわからない。宗次郎が座る所からは反対側なので、見てもらうことはできないし、どうせ見たところで分からないだろう。するとおえんから、自分のことは気にせず鏡を使ってもらって構わないとの言葉を貰った。

 そう言われては逆に今使わねば失礼かと、お鈴は一言断りを入れてから鏡箱を自分の前へと動かす。

 少しだけ居心地の悪い思いで鏡の柄を握ったところで、心の臓がどくりと、ひとつ大きく跳ねた。

 何故自分の体がそんな反応をしたのか。不思議に思ったが、大切な鏡を使うのだからきっと自分で思うより緊張しているのだろうと自身を納得させる。

 そのまま大事に持ち上げ、柄鏡の裏面に描かれている文様を近くで眺めてしばし見入る。宗次郎も、そんなお鈴へ視線を向けていたので気が付かなかった。

 おえんが目を細めて、妖しく口の端を上げたことに――

「見るな!」

 低く鋭い声が飛ぶ。

 正に、お鈴が柄鏡を返して鏡面に映ろうとしていたその時であった。

 先頃知ったばかりの、だが信を置くものの言葉にお鈴は動きを止める。宗次郎は声の主を探して視線を巡らせた。その顔には、僅かに焦りの色が見えている。

 ここにはおえんも居るのだ。声を上げるなど不用意すぎる。それとも、そうせねばならぬほど切迫した事態であったのか。

 そこへ障子の向こうから、黒い影が部屋へと飛び込んで来た。障子に背を向ける形で座っていたおえんを越えて、一足飛びにお鈴へと近付くと、手に持っていた柄鏡をはたいた。

 突然の衝撃にお鈴は小さく悲鳴を上げて鏡を取り落としてしまう。咄嗟に己の手にもう片方を重ねたが、直接触れられたわけではないので怪我はしていない。

 鏡は叩いたことで勢いがつき、落ちた場所から少し滑って止まった。

 影はそのままお鈴の斜め奥、少し離れたところに着地した。宗次郎はすぐさまお鈴の前へと動き、庇うように自分へと抱き寄せる。それから、目を凝らすようにして影の正体を確かめた。

 間違いなく、二人のよく知る獣であった。

「誰か!!」

 押し入ってきたものの姿を捉えたおえんが表に向かって叫ぶ。尋常ならざる気配を察知してか、すぐに複数の足音が近付いて来る。

 獣は何故このようなことをしでかしたのか。今すぐにでも問い質したい気分だが、それはできない。

 それよりも。

 この部屋から出るには、先ほど獣が飛び込んできた障子からよりほかない。だが、今はその前におえんが立ちはだかっている。一体どうやって逃げるつもりなのか。

 もちろん、姿を消してしまえば逃げることなど造作もない。しかしそんなことをすれば騒ぎはもっと大きくなってしまうだろう。

 やはり強引にでも、おえんの横を擦り抜けて出るしかないか――。

 この部屋の中、互いの動向を窺うかのように全員が動きを止めているが、頭の中は皆あちらこちらに考えが動き回っているに違いない。そしてその間にも、外の足音は徐々に近付いて来ている。

 最初に動いたのは獣だった。

 足音の元が到達してしまえば、何をするにもさらに面倒になるのは自明なこと。この部屋から飛び出すべく、僅かに身を屈めたのだ。

 だがその刹那、他の誰も思いもしなかった動きをする者が出た。

 おえんが、獣に向かって捕まえるように手を伸ばしたのだ。

 普通は引っ掛かれたり、噛み付かれたりするのではと恐れて逃げるもの。それを逆に向かっていくなど、何も知らぬ人間の女に出来る動きではない。

 宗次郎も、身を捩り視界が開けたお鈴も、その様子に釘付けになった。

 獣は伸びてきた腕を避けるように、元より逸れた場所へと飛んだが、おえんもそれを追いかけるように進む先を変える。脇から迫る手に、獣は鼻に皺を寄せると前脚を振り下ろす。「ぎゃっ!」という女の声が上がったのと獣が畳へと着地したのは同時だ。

 おえんがよろめいたことで障子の前が空いた。獣は着地から間を置くことなく直ぐに外へと走り出る。

 庭に躍り出た獣へ、もうすぐ側まで来ていたのだろう男の怒号が飛んだが、それらを気にすることなく獣は板塀の下にある隙間からさらに外へと這い出ていった。

 男の声が外まで追い掛けるよう指示しているがもう遅い。人の目がなくなれば、獣は即座に姿を消すことができる。どんなに捜してももう見つけることは出来ないだろう。

 打って変わって、部屋の中は今し方の出来事が夢であったのかと思えるほど静まり返っていた。しかし、決して夢ではない証のように、おえんの手の甲には赤の滲んだ筋が数本残っていた。

 座り込んだままのお鈴はその傷と目の高さが丁度同じであった。それが目に入り、獣が怪我をさせた申し訳無さと、それでも大した怪我ではない安堵で眉尻が下がる。

 しかし、そこから目線を上げておえんの顔を見ることはできなかった。

 恐ろしかったのだ。獣へ向かって行ったおえんが、今どんな表情をしているのかを知るのが。

 そこへ手代と思しき若い男を先頭に数人が部屋へ入ってきた。まずは何があったのか聞くためだろう、おえんの元へと近付くのを見てお鈴はその姿を視界から外した。すると今度はその先に転がっていた、事の発端となった柄鏡が目に入る。

 お鈴が座る場所からは少し離れて、鏡面を上にして転がるそれは古いだけの、何の変哲も無いものにしか見えない。

 一体この柄鏡に何があるのかと、お鈴はそれを探るように

 すると天井を映す鏡の一部が黒く霞んで見えた。不思議に思い数度瞬きをしてみるがやはり消えない。やがてその霞は染みが広がるように大きくなり、形を変える。

 これ以上見てはいけない。

 そう言わんばかりに、お鈴の頭の中でカンカンと擦半鐘すりばんしょうのような音が響く。

 それなのに――目を離すことができなかった。

 霞は形を変え、色を変え、やがて女の姿となる。年老いた、貫禄ある女の姿だ。

 だが鏡の中の老女は明後日の方を向くと、忌ま忌ましげに顔を歪め、何もすることなく身を翻して鏡の奥へと姿を消した。

 直後に、それを追うように駆ける獣の姿を鏡の中に見た。お鈴へと一瞥をくれ、そして老女を追いかけるように鏡の奥へと消えていった。

 ――あれは一体何だ?!

 お鈴以外それを見ていた者はいない。おえんは若い男に指示を出し、宗次郎はやって来た者に話し掛けられていた。それでも、今のが見間違いでもなければ幻でもないのは確かだった。

 そして思い至る。獣がお鈴に鏡を見ないようにさせたのは、あの老女が潜んでいたからではないのかと。

 頭の中にあった半鐘は今や心の臓に移り、そこでまた激しく打ち鳴らしている。血と共に怖気が一気に巡り、お鈴の全身が粟立った。

 もしあのまま老女と目を合わせていたら一体どうなっていたのか。いや、それ以前に、姿を現してまで忠告をしてくれたのに、それを忘れて鏡を見るなど、なんと迂闊なことをしたのだろう。

 また考えなしな言動をしてしまい、今度は獣の行為を無にするところだったのだ。

「どうした?」

 様子が変わったことに気付いた宗次郎が声を掛けるが、お鈴は俯いたまま小さく首を横に振るだけだった。だが、宗次郎の着物の胸元を握るお鈴の手は微かに震えていた。

 それまで宗次郎と話していた男もお鈴を見て、その顔色に驚きの声を挙げた。

「こりゃいけねぇ、お嬢さんの顔が真っ青だ! 休めるよう今別の部屋を用意してますんで、もう少しだけお待ちくだせぇ」

「すみません」

 顔を挙げることもできず、お鈴は男の目を見ないままか細い声で礼を述べた。その様子に男はさらに気遣わしげな表情になる。

「いきなり犬が入って来て暴れたんだ、そりゃ怖かったでしょう。どれ、もう用意が出来てるかもしれねぇ。ちょいと様子を窺ってきまさぁ」

 言うが早いか、男はすぐに部屋から出て行った。

 それを見送ってから、まだお鈴を抱き寄せたままの宗次郎は、物問いたげな視線を投げかけた。様子がおかしいのは獣のせいではない。それは二人にとって驚きはすれど青ざめることではないからだ。原因は宗次郎と男が話している最中、お鈴の様子が変わった時だ。一体何があったのか。

 だが、他にも人がいる中それを聞くことは出来ない。

「……大丈夫か?」

 胸中複雑ながら、宗次郎はそう聞くしかなかった。








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