第5話

 座敷を出た宗次郎は、おえんに続いて歩く中、昔見た姿と比べながらその背中を見つめていた。

 宗次郎は以前会った時のことを少しは覚えていたのだ。

 姿形は年月の分だけの変化はもちろんあるが、所作や話し方には目立った違いは感じられない。茶屋の女が言っていた厳しさなんかは欠片も見当たらなかった。もちろん、表と奥で態度が違うというのはよくある話ではあるが。

 やはり、お内儀かみという立場になったからの変化か――。そんな風に考えていると、おえんが振り返った。

後架こうかはこの先にあるわ。そうそう、それで宗次郎にお願いがあるのよ」

「お願い、ですか?」

「ええ。別に難しいことではないの。この後お鈴と二人っきりで話がしたいのよ。だから、少しだけ戻るのを待ってもらえるかしら?」

「それはかまいませんが……」

 元々、後架へ行きたかったのは雲珠うずと話がしたかったからで、それが首尾よくいった場合は戻るのが少し遅くなるだろうと思っていた。おえんの申し出は宗次郎にとって願ってもないものだった。だが、いきなりそのように言われれば、一体何を話すつもりなのかと、多少気にはなる。

「あぁ、大した話ではないのよ。でもそうね……女同士だからできる話、といったとこかしら」

 好奇心を感じ取ったのか、茶目っぽく笑ったおえんの顔は、宗次郎の母であるおちかによく似ていた。

 宗次郎はそのことに少し吹き出しつつ、おえんの願いを了承すると、ここまでの案内の礼を言って、一人後架へと向かった。


 後架の戸を閉めると中は薄暗くなった。小さな明かり取りしかない上に、外からの光も雲が邪魔をして弱々しいものだったからだ。

「雲珠、いるか?」

 宗次郎は立ったまま壁へと寄って、小声で獣の名を呼んだ。

 何せ後架は狭い。とはいえ、幸いにも日野屋は長屋などにあるものに比べれば造りが広いので、獣が現れる分ぐらいは無理せず確保できる。普通は人ひとりしゃがんだらもう他に入る隙間など無いに等しいほどなのだ。

 獣のために空けた場所を見つめていると、それほどたたぬ内に暗い中におぼろげな輪郭が見え始めた。そしてそれはあっという間に明確な存在になった。

 その様子に宗次郎はにやりと笑う。それは昔悪戯が成功した時に見せていた顔と同じものだった。

「気付いてもらえたみてぇで何よりだ。それで、どうだった?」

 急かすように問い掛けた宗次郎に対して、獣は座りながら鼻に皺を寄せている。

「そうせっつくな。しかし、もう少しな場所はなかったのか」

 心なしか耳の立ち具合もいつもより元気がない。だが、今の宗次郎にそこまで気にする余裕はなかった。

「仕方ねぇだろ。家のもんに見つからねぇ場所なんてそうはねぇんだから」

 本当は後架も絶対に安全な場所ではない。薄い板戸一枚でしか隔たれていない場所なのだ。この前を人が通れば、いくら声を落としていても会話は漏れ聞こえてしまう。それでも、人の目から完全に隔離されるだけ、他のどの場所よりも安全ではある。

 獣も一応はそのことを理解している。故に、姿を現した後は宗次郎と同じように大きな声は出していないのだ。

「ならばここを出てからでもよかったであろう」

「万が一に当たっちまってたらまずいだろ?」

 宗次郎もお鈴も妖怪が近くにいたとしてもそれを見ることすらできない。それでも、それが好からぬものならそのまま放っておくことはきっとできない。

 だから、日野屋を出た後では遅いのだ。

 とは言え、先ほどまでのおえんの様子から、そんな深刻な状態ではないだろうと踏んでいる宗次郎の声音は非常に軽いものであった。ただ早く裏付けが欲しいだけである。

 宗次郎は自分の膝に手を付き前屈みになると、もう一度獣へ向かって「どうなんだ?」と聞いた。

 獣は一つ大きく息を吐くと、近くに寄った宗次郎の顔を見るように首を上げる。

「この家全体から妖怪の匂いが漂うておるが、身の内からもその気配がするのは、おまえたちの血縁というあの女だけだ」

「それってつまり……万が一に当たっちまったってことか?」

 打って変わって、宗次郎の表情がさっと翳る。そしてそれに呼応するかのように、外からの明かりも一層弱々しくなった。

「いや、そうではない……と思う」

「何だよそれ」

「儂にもわからん。何せこの家の中には妖怪の姿がない。だが、生きた憑り代よりしろが入っておると思しき箱はある。中が見えんのでそれが何かまでは確かめることができなんだが」

 人の世の生き物ではない獣は、本来の姿であれば様々なものをすり抜け、中を覗き見ることが出来る。それが出来ないということは、すなわちそれは獣と同じ理のものであると同義なのだ。そして中を見ることを拒むものがそこにいる、ということに他ならない。

「憑り代はあるのに、妖怪がいない?」

 一層暗くなった後架の中、そのまま闇に紛れてしまいそうな獣を目を凝らすように見つめる宗次郎へ、獣は小さく頷く。

「だがそんなことはありえぬ。一体どうやって隠れておるのやら……」

「でも、ここに生きた憑り代があるのは確かなんだろ? なら、隠れてるとしてもそれから生じた妖怪だ。伯母さんも、この家の者にも、何も悪いことなんざ起こりゃしねぇじゃねぇか」

 宗次郎に襲い掛かった強張りが幾許か緩んだ。

 以前稲荷社で小さな翁が語っていた。生きた憑り代から生じたものは、人を害するようなことはしないと。

 では何故、獣は先ほど万が一ではないと言い切らなかったのか。

「そうだな。普通、生きた憑り代から生じた妖怪がひとりの人間にのみ憑くようなことはせんので気になったのだが……まぁあの女の考えや行いは既に妖怪に左右されておるはず。それで今まで何も起きておらぬのなら、この先も何も起きぬか」

 獣はそう言うと、首の角度を元へと戻し始めた。

 だが、宗次郎にしてみればその言葉は聞き捨てならない。

「ちょっ、ちょ! おまえ今何だって?」

「何がだ?」

「だから、既に左右されてるってなんだ?!」

 ともすれば声が大きくなってしまいそうなのを何とか堪えながら訊ねると、獣は不思議そうに首を傾げた。

「言葉の通りだ。人の身の内から妖怪の気配がするというのは、その魂まで染まっておるということ。そうなれば、左右されるなど当たり前のことであろう」

 通りすがりに、退屈しのぎに囁くだけでもその人間に差響きを与えるのだ。ずっと側に居れば、それはより強いものとなる。

 だが、今まで妖怪と関わったことのない人間が、そんな当たり前など知るはずもない。

「それは妖怪に乗っ取られたってことじゃねぇのか?」

 宗次郎の顔が苦々しく歪む。おえんが先ほど見せていた、おちかとよく似た仕草も偽者だったのかと。

 だが、獣はゆるりと頭を振った。

「染まっておるとしても、本来の魂が消えるわけではない。そもそも、人の身体は人の魂無くして動かすことはできん。あの女は間違いなくおまえたちの知るものであるよ」

「じゃぁ左右されるって何だ?」

「それはそこに憑く妖怪によって異なる。それまでと何も変わらぬこともあれば……そうだな、今までの文と手が僅かにたがうこともあるやもしれんな」

 それはおちかが気付いた僅かな違い。獣はそれが妖怪のせいかもしれないと言っているのだ。しかし今それを確かめる術はない。そして、もしそうだとしても実害のあるものでは決してない。ないが……

「それ乗っ取られてないって言えんのか」

 長年身についていた己の手が変わるというのに?

 自問するように呟いた宗次郎の顔も複雑に変化する。そんな様子を、何が問題なのか分からないといった風情で獣は見ていた。

 そこへ、突如何かを打ち付けたような大きな音が上から聞こえてきた。

 咄嗟に明かり取りから外を見た宗次郎の目に映ったのは、厚く垂れ込めた雲から滴り落ちる無数の雫であった。

「……ひでぇ雨だな。すぐに止んでくれるといいんだが」

 浮かんだのはお鈴の顔だ。この雨の中を帰るのはお鈴の足では中々の苦労である。

「とにかく一旦戻らねぇとだな。雲珠も、できるならもう少し探ってもらえるとありがてぇんだが」

「まぁよかろう。どうせなら何故なにゆえひとりの人間に憑き、姿を隠すのか儂も聞いてみたい」

 そう言うが早いか、獣の姿は闇に紛れるようにその場から消え失せた。

 宗次郎はそれからゆっくり十数えるほど待ってから、後架の板戸をそっと開けて出た。そこで大きく伸びをし、首を一回ぐるりと回すと、足早に座敷へと戻った。



 後架でのことをすっかり話し終えると、宗次郎は下に敷いてあった布団に肩肘をついてごろりと横になった。並ぶように敷かれた隣の布団の上では、お鈴が座ったまま大きく息を吐き出していた。

 二人は今も日野屋に居る。だが部屋は離れで、既に町木戸も閉まり家の者も寝静まっている頃。誰に聞かれる心配もない。そこで、昼間の話の続きと相成ったわけである。

 声が途切れ静寂が満ちた部屋に、外から僅かな水音が届く。随分弱くはなったが、未だ雨は降り続いているのだ。

 雨戸の隙間から忍び込んで来るひんやり湿った空気に寒さを覚えたお鈴は、夜着を羽織るとさらに暖かさを求めるように有明ありあけ行灯あんどんを眺めた。

 今は被せに使う箱を台にして置かれ、部屋を照らしている。しかし、濡れた空気に気圧されているのか、その灯は灯袋ひぶくろに守られてなお頼りなげにちらちらと揺れていた。

 まるで自分の心のようだと、お鈴は思った。

 獣の言う通りならば、その身を案じるようなことはないのだろう。だが、宗次郎も引っ掛かっていたところ……本当に問題ないと言えるのだろうか?

 お鈴の心もまた、惑い、答えを出せず揺れていた。

「茶屋の女が――」

「え?」

 再び口を開いた宗次郎を見ると、ぼんやりとしてしているように見えた。

 久右衛門に勧められるまま飲んだ酒が今になって回ってきたのかとも思えたが、顔は少しも赤らんでいないし、話し口もしっかりしている。何事か考えているところ、声を漏らしてしまったようだ。

 宗次郎は頭だけお鈴の方へ向けると、釈然としない顔をして見せた。

「茶屋の女が、伯母さんは昔に比べて厳しくなった、目利きになったって噂があるって言ってたな」

「そういえば」

 お鈴はそのことをすっかり忘れていた。その後があんまりだったのだから仕方がない。

「宗次兄さんは結局何をしにあそこへ行ったの?」

 休むためではないと、暗に言われたことも思い出した。流石にもう腹は立たないし、責めるつもりもないが、やはり訳は知りたい。

「別に大層なことじゃねぇよ。普段を知らない俺たちじゃあ何か変わってても中々分からねぇからな。頻繁に出入りしてるか、そういった人間と話をしたことある者にも聞いといた方がいいと思ったんだよ」

「そっか」

 確かに。茶屋で聞いた話は、お鈴たちでは見れなかった姿の話であるし、見たとしても元々そうなのだろうと思ったに違いなかった。

「あぁ。で、それが本当だとするとだ。普通は先代に仕込まれたってことなんだろうが……もしかするとそうじゃねぇのかもしれねぇな」

 宗次郎はお鈴からついと目を逸らすと、虚空を見詰めながら呟いた。そしてその言葉に、お鈴もはっとする。

 憑く妖怪によって何が起こるかは異なると言う。文の手が違うことがあるなら、それも十分にありえるはず。

 だが、そうなるとことはさらに複雑だ。

 その妖怪は、おえんの魂の有り様からすれば乗っ取るものとなるかもしれないが、日野屋からすれば害するどころか商いの才を授ける、まさに神様と呼ばれるに相応しいものになるのだ。

「でも……伯母さんだって昔から商いを見てきたわけだし、そうとは限らないでしょう?」

「…………そうだな」

 一度その考えに行き着いてしまうと、お鈴はそれが真実のように思えて仕方がなかった。それでも、それを認めてしまうにはあまりにも忍びなく、弱々しくも反駁すると、同意するような言が返ってきた。自らが推量したこととはいえ、宗次郎も同じ思いなのだろう。

「雲珠? いないの?」

 推量の先を知れるかは獣次第だ。

 お鈴は部屋の中をきょろきょろと見回しながら、遠慮がちにその名を呼ぶ。しかし、部屋には何の変化もなく、灯が大きく揺らめくといったことも起こらない。

 この部屋に通され、家の者が皆下がってすぐにも呼びかけたが、その時も獣は姿を見せなかった。家の中を動いていてたまたまいないだけなのか、諦めて帰ってしまったのか。

 お鈴から大きなため息が零れる。その息が途切れると、宗次郎は体を起こし、台にしていた箱を行灯に被せるため動かし始めた。

「とりあえず、怪我や人死にが出るようなことはないのは分かったんだ。今はそれで良しとするしかねぇ。ほら、もう寝るぞ。明日はなるべく早いうちに帰るんだからな」

「うん」

 おえんや久右衛門は翌日もゆっくりしていけばいいと言ってくれたが、その言葉通りに甘えるわけにはいかない。おちかも家で気を揉んでいるだろう。

 既に二人とも寝支度は済ませている。お鈴は羽織っていた夜着を直すとその身を横たえた。宗次郎も、行灯の始末を終えるとお鈴に背を向けるように横になる。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 そうは言っても、気になることがありすぎるので、中々眠れないのではないかとお鈴は思っていた。

 だが、普段にはない長さを歩いたり、気が張ったりと色々あったお陰が、四半刻もたたないうちに小さな寝息を立てていた。






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