第4話

 元は数日の間、遊びに来てはどうかという話であったはずである。だがそれは既に断りを入れて、その日のうちにお暇することで今日やってきたのだ。

 それなのに、何故今度は急に嫁ぐなどと言う話がでてくるのだろうか? おちかはこのことを知っているのだろうか?

 様々なことがお鈴の中を駆け回っていた。

「うちには息子が二人いるのだけど、今は二人とも商家よそへ修行にやってるの。でも上がそろそろ戻ってくるのよ。お鈴も年頃なのに、きっとしばらくは縁談もこないでしょう? だからね。あぁ、心配しないで。お鈴は器量良しだもの、息子もきっとあなたのことを気に入るわ」

 おえんは、当のお鈴の反応など一切気にすることなく、話を続けている。

 あの出来事以降、お鈴に関する噂は、お鈴自身の耳には届いていない。しかし、それは噂がないということと同義ではないのだ。傍から見れば男女の諍い。お鈴のことを悪し様に言う人がいてもおかしくはないのだ。そうなれば、当然縁談など来るはずもない。

 だが、おえんの話はお鈴の頭の中に半分も入ってきてはいなかった。今頭の中にあるのは、なぜ今ここに宗次郎がいないのか。一体いつになったら戻ってくるのか。とにかく早く戻って来て。というものだった。

「そうね……もしお鈴が息子を気に入らないようだったら、養子でもいいわ。それならそれで、婿を迎えればいいだけのことですもの」

「伯母さんっ?!」

 お鈴の声はもはや悲鳴に近かった。

 正気とは思えない発言である。それは自分の子供ではなく、お鈴を跡取りに据えると言っているも同然なのだ。とんでもないことである。

 そもそも、それを久右衛門が許すはずがないし、もちろん日野屋の他の人々もそうだ。そんなことはおえんだってわかっているはずだ。

「よしてください。あたし…………困ります。そんなこと、冗談でも言っちゃいけないことでしょう?」

 お鈴はやっとの思いでそれだけ絞り出した。だが、これまで取り繕っていた言葉遣いにまで気をやる余裕は当然ない。普段の言葉が出てしまっていたが、それには気付かなかった。

「冗談のつもりはないのよ。わたしは本当にお鈴に来て欲しいと思っているもの。でもそうね……養子については流石に性急すぎたかしら。まだ息子と会ってもいないものね」

 尚悪い。

 お鈴は速度を失った独楽こまのように、ぐらぐらと揺れそうになる体を何とか支えながら、改めておえんの姿に目を注ぐ。

 これは本当に先ほどまでここにいたのと同じ人なのだろうか? 戻ってくる時にそっくりな別人と入れ替わってしまったのではないだろうか。

 あまりにもおかしな話をするので、そんなことまで頭を掠めた。

 そこへ、天井からボタボタボタッと何かが当たったような音が響いてきた。

 何事かと思わず上を向いたが、天井には何も変わったところはない。家の外からの音だ。それはあっという間に数を増やして、次々と屋根を打ち鳴らし始めた。

 大粒の雨が降り始めたのだ。庭の土がどんどん濃い色に塗り潰されていく。しかも、もう少しすれば庭に小さな川が出来上がるのではないかというほど激しい。

 おえんは「あら大変」とあまり大変そうにない声を上げると障子をすっと閉めた。

「またひとりにしてすまないけど、ちょっと表の様子をみてくるわね。もう宗次郎も戻ってくるでしょうから、二人でそのまま待っていてちょうだい。わたしもすぐに戻るわ」

「はい」

 お鈴は内心ほっとしながらおえんを見送った。

 おかしな話をされるくらいなら、ひとりの方がよっぽどというものである。できるなら、宗次郎が戻ったらそのままお暇したいぐらいであった。


 それから程なく、入れ替わるようにして宗次郎が戻ってきた。

「何て顔してんだよ」

 予想外の様子であったからか、唐紙に手をかけたまま、中にいるお鈴の顔を見た宗次郎はそう投げ掛けた。

 そのお鈴の顔はというと、宗次郎の姿を認めた途端、眉間にぎゅっと皺がより、泣き出しそうな怒っているような、どちらにも見える顔に変わった。

「遅い! 後架に行くだけなのに何でこんなにかかるの。ひとりで大変だったんだから!」

 戻ってきた安心感がだんだんと怒りへ転じていく。本当は怒鳴りたい気持ちであったが、必死で声を潜めながらもその思いをぶつけた。

 だが、ぶつけられた方は訳がわからない。

 席を外すまでは楽しそうに話をしていたのだ。それは決して大変などという雰囲気ではなかった。

「落ち着け。遅いのは仕方がなかったんだよ。それより一体何があった?」

 宗次郎は自分にあてがわれた場所に戻ると、宥めるようにお鈴の肩を優しく叩いた。

 その声と手にまた安心したのか、怒りも急速に萎んでいき、無意識に宗次郎の袂をぎゅっと掴んでいた。

「……伯母さんが……ここに嫁いで来いって。それが嫌なら養子でもいいって。」

「はぁっ?!」

「声が大きいっ!」

「あ……」

 二人は誰かが唐紙を開けに来やしないかと少しの間見つめていたが、幸いにも雨音が激しかったお陰か、家のものが聞き咎めてやってくるようなことはなかった。

 そろって小さく息を吐くと、先ほどよりも息を潜めてお互い向かい合った。

「おまえ、それ本当か?」

「こんな莫迦げた嘘言う訳ないでしょう。伯母さんも冗談なんかじゃないなんて言うし。あたしもうどうしていいか」

「何だって急にそんなこと……もしやその話をする為にか」

「どういうこと?」

「さっき後架に行く途中で、女同士の内緒話をしたいから少し空けてから戻って欲しいって言われたんだよ。そんな風に言われりゃ従うしかねぇだろ? まぁ、そん時は渡りに船だったもんだから深く考えずに頷いちまったんだが」

「……宗次兄さん、何をしに後架に行ったの?」

 お腹を壊した風でもなし、端からすぐには戻れない事情などお鈴には思い浮かばなかった。

雲珠うずと話をしにな」

「そんなの、どうやって」

 もちろん、獣が一緒に来ていることを忘れたわけではない。おえんの手紙に付いていた匂いの妖怪もとを探してこの家の中のどこかか、もしかしたらこの部屋の中にいるかもしれないとは思っていた。

 だが、姿の見えないものを相手に示し合わせて落ち合うなど出来るはずがない。

「別に確実に話せると思ってた訳じゃねぇよ。だが、ここへ着いてからそれなりに経ってる。既に調べ終わって近くにいる見込みもあると思ってな」

 女二人がお喋りに夢中になっているのをこれ幸いと、合図するように部屋のあちこちに視線を向けた後、後架へと向かったのだと言う。

 首尾がどうであったかなど、聞かずとも宗次郎の様子から明らかである。

 お鈴は握りっぱなしになっていた袂をパッと離すと、自分の膝の上で手を結び直した。心なしか唇の両端が下がって見える。

 宗次郎は離された袂を見て、少しだけ呆れを浮かべた。かなり強く握っていたらしく、袂にはくっきりと皺が寄ってしまっている。だが手で二、三度伸ばすと、もうそれ以上は気にしないといった様子で自由になった腕を組んだ。 

「それで」

「うん?」

「雲珠はなんて?」

 宗次郎が顔を上げるのを待って、少しだけそっけない声でお鈴は訪ねた。上手く使われたようで悔しい気持ちもあるが、やはり結果が気になる。

「それなんだがなぁ……」

 妖怪がいる、いないの単純な話ではないのか。宗次郎は何とも煮え切らない言葉を返してきた。表情も、その返事に引き摺られらるように変わる。

「あら、そんな顔をしてどうしたの? 何か困った事でも起きたかしら?」

 お鈴は浮いてしまうのではないかというほど、体がびくりと跳ね上がった。宗次郎は流石に体を震わせたりはしなかったが、それでも動きがぎこちない。視線はお鈴の頭を越えた奥で止まっている。

 おえんが戻ってきたことに揃って気が付かなかったのだ。

 宗次郎もお鈴も、話をしながらも片耳は廊下に向けていた。人がやって来る足音が聞こえたら、すぐに会話を止められるように。だが、実際には唐紙が開くまでその音を拾うことができなかった。唐紙に背を向ける格好になっていたお鈴に至っては、おえんの声を聞くまでになる。その驚きや如何程であろうか。

 どうやら先ほど助けられた雨音に、今度は邪魔をされたらしい。

「まぁまぁ、随分驚かせてしまったみたいね」

 おえんは二人の様子を少しおかしそうに笑いながら、元の位置へと戻った。

「いえ……こちらこそ失礼しました」

 先に立ち直ったのはやはり宗次郎だった。それからお鈴も続いて「すみません」と小さく詫びを言うと、向きを戻して座り直した。

「いいのよ、こちらも急に声をかけてごめんなさいね。きっとさっきお鈴にした話を宗次郎にしていたのでしょう?」

 おえんは宗次郎の表情の訳をそう受け取ったらしい。獣についての話を聞かれていなかったことに二人は安堵しつつ、そのままその話に乗ることにした。これも真意を確かめねばならぬ話である。

「ええ、聞きました。本当に思ってもみなかった話で何と言ったらいいのか……この話おふくろは?」

「あの子にはまだ。今日お鈴と会ってぜひこの家に欲しいと思ったから、まずお鈴の気持ちを聞きたかったの」

「そうでしたか。ですが……差し出がましいのは承知していますが、これはまずおふくろや親父に話をすべきではないでしょうか」

 素っ町人ならいざ知らず、商家でもそれなりになれば縁組は家と家の問題。本人の気持ちなど二の次どころか、場合によっては考慮すらされない。おえんだって身を以ってそれを経験しているはずなのに。そして聞いたところで是非という答えなど返ってきやしないのに、何故お鈴の気持ちなど聞こうとしたのか、宗次郎はその答えを求めた。

「もちろん話はするわ。でもお鈴本人も望んでいれば話が早いでしょう? 雨が降ってきてしまったせいで半端になってしまったけれど、きちんと話をすればお鈴は喜んで頷いてくれるはずよ」

 いくら今日はおちかの名代とはいえ、本来宗次郎が口出ししていい問題ではない。顔を顰められても仕方のない行為なのだが、言を返すおえんは、まるで面を付けているかのように笑みの形を崩さない。

 その自信を持って言い切った言葉と相俟ってか、お鈴は何やら言い知れぬ不安を覚えた。

「伯母さん……あの、やはりわたしには過ぎた話だと思います。それに、まだそんなことを考えられないというか……申し訳ありません」

 半端になったという話の続きは正直大いに気になるが、聞くべきではない。覚えた不安からそう思い、お鈴はおえんへ向かって手をつき頭を下げた。

 そしてそれに倣うように隣に座る宗次郎も動く。

 だがすぐに、おえんは二人に手が届く位置までにじり寄ると、それぞれの肩に手を置き頭を上げさせた。

「いやだ、そんな風にするのはよしてちょうだい。お鈴の今の気持ちはわかったから。お鈴が望まないうちはあの子にもこの話はしないわ」

「……はい」

 あれだけ自信を持って言い切ったというのに、話を聞いてほしいとも言わず、掌を返すかのような言葉に少しだけ引っかかった。だがお鈴の気持ちを酌んでくれるという安堵の前には瑣末なことである。頭を下げたのが効いたのだろうと、お鈴は自分の中でそう解釈した。

 これでこの話は仕舞いだ。だが、おえんは元へとは戻らず、肩にあった手を滑らせて二人の手へと重ねると、そのまま「ところで」と続けた。

「やっぱり今日はここに泊まったらどうかしら? 雨が止みそうにないのよ。そんな中帰すのは心配だわ」

 重ねられただけであったおえんの手にほんの少し、力が加わる。それは強い力ではないが、素気無く払えるものでもない。

「いえ、お気持ちは嬉しいですがもう少ししたらお暇します。急に予定を変えてはおふくろも心配するでしょうし」

「こんな大雨の中を帰る方がよっぽど心配すると思うわ。それに、宗次郎は平気でも、お鈴はあまり慣れてないでしょう? 暗くなるのも早いのに、悪路を帰るだなんて危ないわ」

「それは……」

 その通りである。

 さらに言えば、近場で小雨程度であれば出掛けるが、今日のような本降りの場合は、よっぽどの事でなければ予定があっても変えてもらう。その為ぬかるんだ道を歩いた経験など皆無に等しいのだ。早々に雨が止んだとしても、家に帰り着く頃には裾以外の部分にも泥が付いてしまっている見込みは高いだろう。

「ですが、急に泊まってはこちらのご迷惑になりませんか?」

「いいえ。むしろ、二人が泊まってくれたら主人も喜ぶわ」

 締め切った座敷からは外の様子は伺えない。本当のところの空模様を知る術はないが、外からは相変わらず大きな雨粒が打ち付ける音が響いている。

 宗次郎とお鈴は顔を見合わせると、小さく頷きあった。

「では、今日はお言葉に甘えさせて頂いてもよろしいでしょうか?」

「こちらが言い出したことだもの、もちろんよ。福屋には後できちんと使いをやるから安心してちょうだい。そうだわ、二人が泊まるのを知ったら、主人が一緒に酒でも、なんて言い出すに決まっているわ。代わりと言っては何だけど、宗次郎さえよかったら付き合ってやってね」

 おえんは胸の前で手を合わせると、嬉しそうに少し弾む声でそう言った。

 それに合わせるように宗次郎も笑みを浮かべると、浅くこうべを垂れた。

「わたしでよければ勿論喜んでお相伴させて頂きます。ひと晩、お世話になります」

「えぇ。こちらこそ、大したおもてなしはできないけれど、ゆっくりしていってね。それじゃぁ早速準備をしなくっちゃ」

 そう言うと、この決定事項を伝え、その後を差配する為に、おえんはまた少し座敷を中座した。






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