第3話

 宗次郎が近くに居た店の男に声を掛けると、応対が帳場に座っていた初老の男に変わる。その男はこの日野屋の番頭だと名乗り、すぐに奥の座敷へと案内してくれた。

 先程の不機嫌さはどこへ消えたのか、お鈴は少し緊張していた。久しぶりにおえんに会うからというよりも、今家の中に妖怪がいるのか、獣は調べてくれているのか、ということのほうが気になってのことだ。気を抜くとつい家を見回してしまいそうになるのを必死で堪えて歩いている。

 奥の座敷の前に着くと、番頭が「お客様がお見えになりました」と言って唐紙を開け、脇に退いた。

 中は障子がある明るい座敷だった。今はその障子も開けられて、小さいながらも手入れの行き届いた奥の庭が眺められるようになっている。そして床の間に生けられた花が彩りを加えて、さらに座敷を明るく見せていた。

 そこにおえんだけでなく、もう一人座っているのが見えた。体に顔、おまけに目まで細いその人に二人は見覚えがあった。

 日野屋の主人あるじ・久右衛門である。

 宗次郎とお鈴は用意されていた座蒲団に腰を下ろすと、まずは挨拶をと手を付こうとした。しかし、久右衛門は片手を挙げてそれを制した。

「なに、他人でもあるまいて、堅苦しい挨拶はなしにしよう。それにしても何年ぶりかな。二人とも、随分と大きくなったものだ」

 最後に会ったのはおちかに連れられて挨拶に訪れた時で、それはまだ二人ともが子供であった頃だ。久右衛門はまなじりを下げ、さらに細くなった目で、年頃へと成長した宗次郎とお鈴を交互に見ている。

「伯父上、伯母上も息災のようでなによりです。母からご挨拶に伺えず申し訳ないと言付かって参りました」

 宗次郎は、そうして「こちらも」と付け足して、菓子が入った箱と懐から文を取り出して目の前の二人へと差し出した。

 その箱を見て、それまで久右衛門の横で黙っていたおえんが「あら」と嬉しそうな声を上げた。

「これは金澤屋ね。以前にもあの子から貰ったことがあって、とても気に入っていたの。あの子覚えていてくれたのね」

「あぁ、あそこの菓子は旨かったなぁ、これはいい物をいただいた。しかし、宗次郎は中身も随分と成長したな。あの幼かった子がこんな立派な口上をするようになるとは」

「いえ、わたしなどまだまだ」

 久右衛門の楽しそうな言葉に照れた顔をしてみせる宗次郎を見て、お鈴は腹の内で何が立派なものかと異議を唱えた。いつもは遊び歩いていて立派とは程遠い、立派なが上手いだけだと。とはいえ、今は宗次郎に助けてもらっているのだから、そんなことはおくびにも出さず、横で慎ましやかに座っている。

 そこへ座敷の外から「失礼します」と声がかかり唐紙が開いた。女中の手には盆があり、そこには茶菓が乗っている。

 女中は宗次郎、お鈴、おえんの前にそれぞれを置くと、久右衛門に小さな声で何かを告げた。久右衛門が頷き、言葉を返すと、金澤屋の菓子箱を持ってすぐに座敷から下がった。

 久右衛門にだけお茶が配されなかったのを不思議に思い、お鈴がそちらを見ると、その顔は酷く残念そうに眉を下げていた。

「わたしももっとゆっくりおまえたちと話がしたかったんだが、今日はこれから出かけなくてはならなくてね。すまないがこれで失礼するよ。おまえたちはゆっくりしていくといい。おえんに色々と話を聞かせてやっておくれ」

「はい。伯父上もお忙しいところありがとうございました」

 久右衛門が座敷を出ると、二人分の足音が部屋から遠ざかっていった。どうやら外で奉公人が一人控えていたらしい。

 何となく座敷に残った全員が遠ざかる足音に耳を傾けていたが、それもやがてすぐに聞こえなくなり、座敷には静寂が訪れた。

 お鈴は正面に座るおえんの様子をそっと窺った。

 以前会ったときは子供であったし、もう何年も前なので、その頃と大きく変わっているかどうかはよくわからない。先ほど菓子のことを少し話したときも特におかしいとは思わなかった。だが、茶屋の女が言っていたような厳しい印象もない。とは言え、これは身内である宗次郎やお鈴が相手なので、商売のときとは違った顔になって当然なのかもしれない。

 そんなことを考えていると、おえんは仕切り直すかのようににっこりと二人に笑いかけた。

「本当に、二人とも大きくなったわね。特にお鈴は昔のおちかに似てきたわ、やっぱり娘なのねぇ……それに、元気そうでよかった」

「伯母様にまでご心配をおかけして申し訳ありません。わたしはもうこの通り、元気になっております。それと、先日は素敵なかんざしをありがとうございました」

 お鈴は宗次郎に倣うようにおえんへと挨拶を述べた。少しぎこちなさを感じるそれにも、おえんは笑みを深めてかみ締めるように小さく頷いている。

「お鈴もしっかりした娘に成長したのね。でもそんなにかしこまらないで、昔みたいに呼んでちょうだいな。二人にそんな改まった言い方をされると、逆にわたしの方が落ち着かなくなってしまうわ」

 その申し出を素直に受けていいものか。ちらりと横の宗次郎に視線を向けると、小さく頷き返してきたので、お鈴は「はい」と小さく返事をして、おえんへとはにかんだ顔を見せた。

 普段言い慣れない言葉遣いを続けていては、そのうち舌を噛んでしまうかもしれないと思っていたお鈴は、おえんのこの申し出にこっそりと胸を撫で下ろしたのだ。

 それから勧められたお茶や菓子を口に運びながら、福屋やお鈴たち自身の近況などをおえんに話した。おえんはそれに相槌を打ち、また質問を重ねながらも終始笑顔で、とても和やかな空気が流れていった。

 そんな中、しばらくしておえんがふと思い出したような顔をみせた。

「そういえば、おちかはまだ心配してるのかしら?」

「心配、ですか?」

 宗次郎が返した言葉に、おえんは困ったように笑いながら頷いた。

 だが、そう言われてもお鈴には何のことだかさっぱりわからない。宗次郎は知っているのかと顔を覗いてみれば、目が合って小さく首を横に振られた。

「あら、あなたたちには言ってないのね……あの子ったら、こないだ文を送ってから、私の具合が悪いんじゃないかってしきりに心配していたのよ」

「具合が悪かったのですか?」

 もしや今も治っておらず無理をさせているのでは。そんな考えが頭に過ぎり、お鈴の声は少し大きくなってしまっていた。

 しかしそれを咎めるように、隣に座る宗次郎の手の甲が、お鈴の足を軽く叩く。それでお鈴もはっとして、体温を上げながら身を縮めた。

「はしたない真似を……申し訳ありません」

「いいのよ、心配してくれたのでしょう? ありがとう。でも、あの子の勘違いなの。見ての通り、わたしはどこも悪くないのよ」

 おえんはお鈴の無調法を咎めるどころか、嬉しそうにほら、と両腕を軽く広げてみせている。

「お鈴は気立てもおちかに似ているのね。あぁ、悪いと言っているのではないのよ。むしろなんだか懐かしくて」

 そしてそのまま手を口元に移動させて、少し笑いの息を漏らした。

「あの子ったら、今回もわたしの文の手がいつもと違うところが多い、どこか具合が悪いのではないの? なんて返事をよこしたの。そんなに乱れた手を書いた覚えはないのだけど、それでも、具合が悪くなくても手が乱れることぐらいあるでしょうに。ずいぶんな心配性よね」

「まぁ! おっかさんたらそんなことを?」

 くすくすと楽しそうに笑うおえんにつられて笑ったお鈴の頭の中に、ふと数日前のおちかの姿が浮かんだ。

 おえんから簪が届いたと話していた時、そういえば何だか普段と様子が違っていたではないか。途中手元の文に視線を落とすこともあった。

 それはこういう理由だったのかと、お鈴はようやくあの日のおちかに合点がいった。

 目の前のおえんの姿からは、本当に具合が悪そうな気配は感じられない。おちかはとんだ早合点をしたもんだと、お鈴は余計に笑いがこみ上げてきた。

「おふくろは確かに心配がすぎるきらいもありますが、普段はあまり表に出さないんですよ? 伯母さんはすぐに会うことができないので、ちょっとした違いにも過敏になってしまったんでしょう」

 おちかの肩を持つ発言をした宗次郎だが、その顔は笑いをかみ殺しているのが一目瞭然であった。息子として一応、おちかの側に立ったといったところである。

「ふふ、そうね。心配して貰えるというのは有難いことではあるものね。帰ったら、わたしはたいそう元気だったと伝えておいてちょうだいな」

「そうします」

 それからおえんは子供の頃のおちかの思い出を二人へと話した。ちょっとしたことでも心配すること、意外とお転婆であったことなどを、面白そうに、時に懐かしそうに語る。

 お鈴も普段のおちかからは想像できない幼少時の話に大いに興味を唆られた。そのおかげか、もとは訪ねるのを嫌がっていたのが嘘のように、今はおえんと楽しくお喋りをしている。

 そんな女二人の様子を面白そうに眺めていた宗次郎だが、何やら急にもぞもぞとお尻を動かしはじめた。

「伯母さん、申し訳ないのですが後架こうかをお借りしてもいいですか?」

「もちろんよ、案内するわ。ついでに替えのお茶も用意させましょう」

 言うが早いか、おえんはするりと立ち上がり、唐紙へと足を進めた。

 それに続くように立ち上がった宗次郎に、お鈴は思い切りあかんべえをしてみせた。もちろん、おえんは背を向けているのでその顔は見えていない。

 直前に茶屋なんかに寄るから、後架を借りるような羽目になるのだ。そう思ってのあかんべえだったのだが、それに対して宗次郎から返ってきたのは、意地悪そうな笑みを浮かべながら舌をちろりと出した顔であった。

 それはお鈴をむっとさせるには十分な表情であったが、おえんの手前何か言う訳にもいかない。眉間に皺を刻みながらもお鈴はそのまま二人を見送った。

 唐紙が小さな音を立てて閉まると、先ほどまでの楽しげな空気も一緒に出て行ってしまったかのように、座敷から音が消えた。お鈴はそんな場所に一人残されたことに心細さを感じ、それを紛らわそうと、落ち着きなく周りに視線を動かした。

 そこで最初に目に止まったのは外の様子である。

 庭に落ちる草木の影が先程よりも薄くなっているのに気がついた。日野屋へと向かう道中は晴れていたが、今は陽に薄雲がかかっているのだ。

 お鈴はそのまま少し眺めていたが、なかなか影は濃さを取り戻さない。雲は小さなものではなく、空全体を覆っているのだ。

 このまま天気が崩れなければいいけれど、とぼんやり考えていたら、声が聞こえた。意識を引き戻すと、先程と同じ女中が湯気の昇る湯呑みを盆に乗せ、座敷へと上がっていた。

 女中は黙々と手を動かしており、お鈴の前の湯呑みを替える時も視線が合うようなことはない。

 家であれば当然ひと言かけるが、こういう場合は礼を言うべきなのか、お鈴は迷った。

 先程はおえんたちと会話していたこともあり、何も言っていない。今回だけ声をかけるのも変ではないだろうか? だが、今ここには自分しかいないし。

 そんなことで迷っているうちにおえんが戻ってきた。宗次郎の姿はないので、まだ後架にいるのだろう。

「一人にしてごめんなさいね」

「いえ、大丈夫です」

 本当は少し心細かった、などとは言えないので、これ以外に返す言葉はない。そして女中はおえんが声をかけるとそのまま座敷から下がったので、結局お鈴は声をかけず仕舞いになった。

「ねぇお鈴」

 おえんは片手でお茶を勧める動作をしながら、内緒話でもするかのように声を落として名を呼んだ。それは先ほどまでの朗らかな話し方とは明らかに異なるもので、声色も一段下がって聞こえた。

 急な変化にお鈴の体が自然と身構えた。勧められたのだからと、お茶に伸ばしかけた手がぴたりと止まる。

 ゆっくりと、姿勢を直しながら正面に座るおえんへと視線を向けると、そこにはお鈴の内を探るような、あるいは見定めようとするような色が潜んで見えた。

「家へおいでなさいな」

 お鈴の眉根が微かに寄った。

 だが何も言葉を返せなかった。今何と? それだけが頭の中をグルグルと回っている。

 もちろん耳には届いている。そしておえんの様子から、それが冗談ではないことが伺える。だからこそ、その意味を咀嚼できない。

「お鈴?」

「あ……はい」

 消え入りそうな声ながらも返事を返すと、おえんの目元が少し緩んだように見えた。それはお鈴から即座に否定の言葉が出なかったからなのか、別の理由からなのかは分からない。

「随分驚かせてしまったみたいね。でも、あなたにとってもその方がいいと思うの。あんなこと、近所にその場所があるのはやっぱり恐いでしょう? それに……あなたの噂も立ってしまっているでしょうし…………だから、日野屋うちに嫁いでいらっしゃい」

 あまりの言葉に今度は身動ぐこともできず、お鈴は只々おえんを見つめ返すばかりだった。







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