第2話

 それから何度か使いが行き来し、最初におちかとお鈴が話をした日から三日後に、おえんのところへと行くことになった。

 その間に、おちかは宗次郎へも話をしたようだが、お鈴はまともに顔を合わせてもいない。

 以前から、ふらふらと遊びに出ては帰ってこないことがあったが、最近はさらにそれが多くなっているのだ。お鈴としては、今は預けた事柄に奔走してくれているのだと思いたいが、どうなっているのかと聞いてみても、まだもう少しかかると言うばかりなので、本当のところは分からない。

 そんなわけで、その日の朝になっても、お鈴は獣から言われた話を宗次郎にできていなかった。

「それじゃあ二人とも、行ってらっしゃい。付け届けの菓子を金澤屋さんにお願いしてあるから、行く途中で寄ってちょうだいね」

 お鈴はおちかの言葉にしっかりと頷くと、行ってきますと福屋を出た。

 数日ぶりにゆっくりと見た宗次郎も、大いに不服そうな面持ちではあるが、お鈴に続いて歩き出した。

 まずはおちかの言っていた菓子を受け取りに、二人は松坂町にある菓子所・金澤屋へと向かう。その途中で、宗次郎は大きなため息を零した。

「おまえが我が儘言うせいで、俺まで巻き込まれちまったじゃねぇか。伯母さんのとこぐらい、ひとりで行けるだろう」

 宗次郎のことだから、絶対に文句の一つも言ってくるだろうと思ってはいたが、いざ言われると、お鈴はその言い方にカチンときた。

 当初おちかはお鈴と三太で行かせる腹積もりであっただろうから、巻き込んだのは確かだ。だが、そんな言い方をされれば素直に詫びも礼も言えたものではない。

「あたしだって、別に宗次兄さんとなんて行きたくなかったのよ。でもおっかさんは行けないっていうし……それに、やっぱり今回は万が一ってこともあるから」

「万が一? なんだそりゃ。伯母さんのとこで何かあるっていうのか? それとも、道中襲われるようなことでも起こるってぇのか」

 売り言葉に買い言葉である。お鈴も腹立ち紛れにつっけんどんな言い方をしたので、さらに宗次郎もまたとげのある言葉でもって返してきた。

 お鈴は襲われる、というところでぴくりと反応したが、そのまま何も言わず、横に並んでいた宗次郎とは逆の方へ顔を向けて、足を少し速めた。

 宗次郎はお鈴のその反応を見逃すほど本気で腹を立てていたわけではない。さすがに先ほどの言葉は冗談で言っていいことではなかったと気付き、頭を掻いた。

「今のは俺が悪かったよ。それで、万が一って言うからには何か思うところがあんのか?」

 歩く速さをあげてお鈴に追いつくと、先ほどとは反対側に並んで、顔を覗き込んだ。

 お鈴はそこでぴたりと足を止めると「後で話す」と小さく呟いた。そして顔を正面に向けてまた足を動かし始める。

 宗次郎は小さく息を吐くと、その背中に付いて歩いた。もうすぐそこに、金澤屋の看板が見えていた。


 金澤屋で菓子を受け取ると、宗次郎は大川まで出て、そこから船にでも乗るかと聞いた。しかし、お鈴は首を横に振った。小さな猪牙船ちょきぶねでは船頭に話を聞かれてしまうかもしれないので、具合が悪いのだ。

 そのことを宗次郎に言うと、ならば人通りが多いほうが聞かれにくいだろうということで、両国橋を渡り、浅草御門あさくさごもんを抜けて歩くことになった。

 金澤屋のある松坂町も、近くに回向院えこういんがあるので人通りはなかなかに多い。だが、両国橋を越えた先は、その比ではないほどに人が行き来している。

 久しぶりに見たその光景に、お鈴は少し圧倒されながらも、やっと先ほどの続きを喋り始めた。

「おっかさんから伯母さんの話を聞いた後、雲珠うずに聞きたいことがあるって言われたの」

「雲珠が?」

 出てくるとは思ってなかったものの名前が挙がったからか、宗次郎の眉根に薄く皺がよった。お鈴は相変わらず正面を向いたままだったが、宗次郎の言葉には頷いて返している。

「雲珠が…………伯母さんは妖怪かって聞いてきたの」

「はぁっ?!」

「宗次兄さんっ! 声が大きい!!」

 あまりにも突拍子のない話なので、宗次郎が驚いて思わず大きな声を出してしまうのもわからないでもない。しかしここは人通りが多いのだ。お鈴は恥ずかしさで顔を赤くしながら、宗次郎の腕を強く引っ張って耳元で諌める。

 だが、周りもそれぐらいの光景は慣れたもので、宗次郎が声を挙げた瞬間こそ何事かと二人を見てきたが、すぐに笑ってそれぞれの仕事に戻っていた。

「お鈴! 急にひっぱるな。菓子があぶねぇっ」

 金澤屋の菓子は宗次郎が持っている。急に引かれて体勢を崩せば、ひっくり返って落ちてしまう。お鈴はその言葉にはっとして、すぐに宗次郎の腕を放した。

 どうやら菓子は無事だったようで、ふたりそろって安堵の息を漏らす。

「それで? 何だって雲珠はそんなこと言ったんだ?」

 宗次郎は菓子を両手でしっかりと持ち直すと、次を促した。するとお鈴の片手が上へと動いた。しかし、肩の辺りで惑うような動きを見せると、そのままたぼを気にするかのように項へと着地した。その手の動きにつられた宗次郎は、お鈴の頭に今まで見たことのない、瑠璃色の玉簪たまかんざしを見つけた。

 手を下ろしたお鈴は視線も一緒に下がり、歩幅が心持ち小さくなる。

「伯母さんからの文と、一緒に届いた簪から、妖怪の匂いがしたんだって」

「妖怪の匂い?」

「伯母さんの傍に、妖怪がいるって」

 宗次郎は足こそ止めなかったが、その表情は明らかに先ほどよりも翳っている。宗次郎にとってもまた、妖怪は危ういものという印象なのだ。

「でも、だからといって伯母さんに何かあるとは限らないの。稲荷様や雲珠みたいに優しい妖怪が見ているだけかもしれないし、もしかしたら、前に稲荷様の言ってた生きた憑り代があるのかもしれない」

「あぁ」

 お鈴は自身が獣に言われたことを、同じように危ぶんだ宗次郎に告げたが、その内容とは裏腹に、表情は不安に彩られていた。そんな様子では、宗次郎の顔も晴れるはずがない。

「雲珠の知らない妖怪だから、詳しくはわからないの」

「それで万が一……か」

 宗次郎は呟くと、長い息を吐き出す。目に見えないはずのそれに、お鈴は重たさを感じた。

「だからね……」

「うん?」

「だから、雲珠にどんな妖怪なのか見てもらおうと思って、付いて来てもらってるの」

 宗次郎の足が止まった。そして何かを探すように後ろを振り返り、周りも見渡す。探しているのは当然獣の姿である。

「近くにいるのか?」

「いてくれてるはずよ」

 獣は姿を消して一緒に行くことになっていた。

 だが、このような往来で姿を現してもらうわけにはいかない。ならば妖怪を捉えられる目を持たないお鈴は、獣が約束を守ってくれているのを信じるより他ない。

 それは宗次郎も心得ているのだろう。ふぅんと気のないような返事をすると、またわずかばかりか後ろをちらりと見やり、そして少しだけ口の端を上げるとゆっくりと歩き出した。


 そのまましばらく互いに無言のまま、足だけを動かした。決して早い足取りではなかったが、元々一刻もかからぬ距離である。すぐに駒形町へと辿り着いた。おえんの小間物問屋はもう目と鼻の先にある。

 ところが、無言の間に何を考えていたのか、おもむろに宗次郎が口を開いた。

「ちょいと寄り道するぞ」

「え、どこに?!」

 お鈴は慌てた。寄り道がまずいというわけではないが、それはおえんの家を訪ねた後にすべきものだ。先に寄るとはどういうことかと思うのは当然である。

 しかし、宗次郎はお鈴の言葉を無視して、きょろきょろとあたりを見回しながら、そのまま歩みを進め続けた。そしてついには目的地であるはずの小間物問屋を通り過ぎてしまった。

 一体何を探しているのか、訳も分からず後に続くお鈴は、宗次郎がやっと見回すのをやめて、一軒のお店へと目的地を定めているのに気付いた。

 目的地と思われる軒先に下がっているのは、茶屋の暖簾のれんであった。

「いらっしゃいまし」

 中に入るとお鈴より少し上ぐらいの茶汲み女が声を掛けてきた。宗次郎はその女にお茶と菓子を二人分注文すると、空いている床几しょうぎにさっさと腰掛けた。

「何莫迦みたいに突っ立ってんだ? いいからおまえも座りな」

「でも、こんなとこで暢気にお茶を飲んでる場合じゃないでしょう?」

 反対はしてみたが、もちろん既にお茶を頼んでしまった後ではこのまま出る訳にはいかない。お鈴は呆気にとられながらも、のろのろと宗次郎と同じ床几へと腰掛けた。

 と、丁度そこへ茶汲み女が戻ってきた。盆には湯呑みと、醤油の香ばしい匂いがする団子が乗っている。

 宗次郎は早速団子を口に運ぶと、「旨いね」と言って茶汲み女へと笑顔を向けた。

 美丈夫とまではいかずとも、なかなかに人好きのする顔立ちをしている。そんな男に笑いかけられれば、悪い気はしないだろう。女はそのまま立ち去らず、少し頬を染めながら礼を言っている。

 宗次郎は一口お茶を啜ると、また女と目を合わせた。

「そこの小間物問屋の扱う品が評判良いって噂を聞いたんだが、おまえさんも聞いたことあるかい?」

「あら、お客さん日野屋さんに仕入れに来たの?」

 日野屋とは、おえんの嫁いだ小間物問屋の屋号である。

 女の目には明らかに落胆の色が浮かんでいたが、宗次郎は笑みを崩さなかった。

「そうさなぁ。おまえさんに似合いの簪を買いたくなったって言ったら信じるかぃ?」

「やだ、お客さんたらずいぶん口が上手いのね」

 そうは言いながらもまんざらではないのだろう。お鈴のことをチラチラと気にしながらも、その顔には優越感のようなものも見えた。

 では今の間、お鈴はどうしていたかというと、黙ってお茶を飲んでいた。

 宗次郎の言葉にも、女の視線にも、胸の内がもやもやとしたが、ここで宗次郎の名を呼んで兄妹だと知られるのも何となく癪だったのだ。結局目を伏せ気味にし、全く気にもしていないと装って、意識をお茶と団子へと向けていたのだ。

「以前聞いたことがあるんだけど、日野屋さんは昔から評判いいらしいわ」

「へぇ、そうなのかぃ」

「ええ、何でも代々お内儀さんに恵まれてるんですって。商いの勘がいいとでも言うのかしらね? 扱う品も上手く流行りを取り入れた、出来のいい物が多いって」

「そいつはすげぇな。いや、俺にも欲しいもんだねぇ、そんな勘。もしかして神様にでも気に入られてるのかねぇ」

 宗次郎は大げさなまでに女の話に相槌を打って、返事を返した。お鈴にしてみれば少々やりすぎな気もしたが、女にしてみれば、自分の話に夢中になってくれていると悦に入れる態度なようだ。

「でもほんと、日野屋さんには商いの神様でも付いていらっしゃるのかと思うわよ。今のお内儀さんだって、昔はあんな目利きだなんて思わなかったって、よく聞くもの」

 その言葉に宗次郎が僅かに反応したが、気分の上がっている女はもちろん気が付かない。横で湯呑みを傾ける動きが止まったお鈴のことは、もはや眼中にもないようだ。

「昔はって、それじゃぁまるで日野屋のお内儀さんの目は最近利きだしたみてぇじゃねぇか」

「どうなんでしょうね。先代のお内儀さんがいらっしゃる内は、ほとんど表に出ることがなかったから、知られてなかっただけかもしれないけど。そうそう! あそこへ行くお客さんの話じゃお内儀さん、昔はもっとこう……優しげな印象だったらしいの。それが、先代のお内儀さんが亡くなってから段々と変わってきて、今じゃ先代にそっくりなんて言われてるのよ」

「ずいぶんと印象が変わっちまったってことかぃ?」

「そうねぇ、先代はどちらかというと厳しい人だったみたいだし。まぁ、先代が亡くなってお内儀として表にも出るようになったから、ってこともあるのかもしれないけど。わたしは聞いただけで直接会ったことないから、実際のところは知らないの」

 と、そこで先に居た客が店を出ていったので、女ははっとした。まずそうな顔をしながらも「またどうぞ」と客を見送りに行った。

 戻ってきた女は、先程よりも幾分か声を落として、この話は全部噂で聞いただけだからと注釈すると、湯呑みやらの乗った盆を持って奥へと引っ込んだ。

 宗次郎は残っていた団子を口に放り込み、ぬるくなってしまったお茶をゆっくりと啜った。お鈴はとっくに飲み終わっていたので、それを呆れた顔で眺めていた。

「さて、それじゃあそろそろ行くか」

 湯呑みが空になると、宗次郎はおあしを盆へと置いて立ち上がった。

 それに気付いたからか、再度女がやってきて「またぜひ寄ってくださいな」と宗次郎へと笑顔を向ける。宗次郎も「ご馳走さん」と笑顔で返すと、外へ出た。

 結局、お鈴は床几に掛けて以降一言も口を開かないままお店を後にした。

「何だおまえ、むくれてんのか?」

 茶屋から数軒離れた場所にある、本当の目的地に向かってゆるゆると歩き出した宗次郎は、後ろから付いて来るお鈴の顔を見て声を掛けた。

「別にむくれてなんかいません」

 しかしそう言ったお鈴の顔は不機嫌そのものであったし、声にも苛立ちが現れていた。

「しっかりむくれてるじゃねぇか」

「むくれてないったら!……ただ、何も今じゃなくたって。終わってから、一人の時に存分にやればいいじゃないって思っただけよ」

「……おまえ、そんな風に思ってたのか」

 僅かに驚いた顔からすぐに苦笑して見せた宗次郎に、お鈴はさらに苛立った。その言い方ではまるで他に目的があったようではないか。それならそれで、先に言っておいてくれればいいのだ。

 お鈴は宗次郎に食ってかかろうとしたが、生憎と目的地までそれほどの距離はない。言葉を投げつける前に、日野屋へとたどり着いてしまった。

「まぁカリカリすんな。後できちんと話してやるから」

 確かに先日のお礼に来たのに、仏頂面のままおえんに会ったのでは失礼にも程がある。お鈴は悔しく思いながらも、何度か深呼吸して自身を落ち着けようとした。

 宗次郎はそんなお鈴の腕をぽんぽんと軽く叩くと、お店の前の通りを見回した。

「それじゃあ行きますか」

 小さく呟くと、宗次郎は日野屋の暖簾をくぐった。





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