お内儀の鏡

第1話

 お鈴は片手を胸にやり、ゆっくりと深呼吸した。そうして反対の手を唐紙の引手へと持っていくと、そっと力を加える。唐紙はあっさりと道を開け、中の座敷の様子を見せた。

 そこにあったのは母・おちかが座っている姿だ。


 話があるからとおちかが声をかけてきたのは、お鈴がお針の練習をしている最中だった。おかげで、危うく指に針を刺しかけた。

 単に母に呼ばれただけなのだから、普通ならそこまで驚くようなことではない。しかしつい先日まで、一人で出歩くこと――特に稲荷社へ行くことで咎められてばかりいたので、また叱られるのかと思ってしまったのだ。

 だが今は稲荷社へは兄・宗次郎と一緒に行くようになったし、お鈴は他に呼ばれるほどのことをしでかした覚えもない。では一体何用なのか? それらしい理由が浮かばず、道具箱を片付け母の元へ行く間に、余計に恐々となっていた。

「練習の途中にすまないわね」

 正面にお鈴が座ると、おちかから切り出した。そろりとその顔を覗き見てみれば、そこには微苦笑が浮かんでいた。

 その表情に、お鈴はほっとする。

「一体なあに?」

 幾分か緊張が解けたからか、お鈴の口調は平時の砕けたものになったが、おちかは特に何も言わなかった。どうやら今回は叱られるわけではないようだ。

「これを……」

 おちかはそう言って、自分の前に置いてあった箱をお鈴へと差し出す。長方形の、両手に乗る程度の大きさの箱だった。

 お鈴は差し出された箱を見ると、視線をおちかへと移した。それを受けたおちかがひとつ頷くのを確かめてから、もう一度視線を戻し、箱の蓋をそっと開ける。

「……素敵」

 ほぅっとため息が零れ、自然と言葉が口をついて出た。

 中に入っていたのは、銀製の二本足に、瑠璃色の蜻蛉玉とんぼだまを飾ったかんざしだった。

 箱を手に取り近くで見ると、蜻蛉玉には縦に溝が何本か入っていた。市中でも人気の蜜柑玉みかんだまになっていたのだ。

「これどうしたの?」

 お鈴は簪から視線を引き剥がすと、おちかを見て首を傾げた。

 もちろん、今までにおちかや父兄が簪を買ってくれたことは何度かある。だが、箱を渡した時のおちかの様子から、今回はそうではないように思えたからだ。

「姉さんからお鈴にって」

 おちかは微笑みながら答えたが、そこには少し困ったような気配も感じられた。

「伯母さんから?」

 おちかの姉・おえんは、浅草駒形町にある小間物問屋へ嫁いでいる。お互いが嫁いだ後も、折々で様子伺いの文をやり取りしており、時折併せて小間物を届けてくれることもあった。

 なるほど、見てみればおちかの手元には、おえんからのものと思われる文が置かれている。

「気慰みになればと届けてくれたのよ」

「そうなんだ」

 お鈴はもう一度簪を眺めると、胸の内でそっと、先ほどとは異なるため息を吐いた。

 つまりそれは、おえんもお鈴の身に降りかかった出来事を知っているということになる。おちかが伝えたのか、御用聞きがおえんのところまで話を聞きに行ったのか、それとも他から聞いたのか。

 お鈴は何故知っているのかということよりも、できればあまり多くの人に知られたくないのにということを思った。

「そう、それでね…………」

 話の続きがあることにいささか驚いて、お鈴はおちかへ顔を向けた。そこには、先ほどよりも濃い困惑の色が浮かんでいた。

「よかったら、物見遊山がてら何日か遊びに来たらどうかと言ってくれているの」

 お鈴の表情も、おちかとそっくりな形に変わった。

 何度か会ったことはあるので、全く知らない人というわけではない。だが、このような申し出をされるほど、頻繁に会っているわけではないのだ。

 それに件の出来事はひと月も前のことでもある。知ったのがここ数日だったとしても、さすがに行き過ぎたことではなかろうかとお鈴には感じられた。

「変な話」

 お鈴は感じたことをそのまま口に乗せてしまった。常ならおちかにそんな言い方をするものじゃないと叱られるところだが、今日はその声はない。

「わたしも驚いたわ……ああ、でもきっと姉さんはお鈴のことを深く心配してくれているのよ。近くにその、襲われた場所があれば、気が塞いだままになることもあるでしょうし」

 確かに、普通は自分が襲われた場所なぞ近くを通るのも怖いだろう。若い娘なら、ひと月ぐらいでは立ち直れない者もいるかもしれない。そして、まさか逆にそこに足繁く通っているなどとは、露ほども思わないだろう。

 そう考えると、特に変な話ではないのかもしれないとお鈴は思い直した。

「じゃあ、やっぱり一度会いに行ったほうがいいのかな? 文だけよりも、安心してもらえるだろうし」

「そうね……でも、無理に行くことではないから。気が進まないならそれでもいいわ」

 おちかにしては、煮え切らない様子で答えた。先ほどから浮かんでいる惑いも消えておらず、手元の文へと視線を落としていた。

「何か気になることでもあるの?」

 お鈴はそんなおちかの態度が珍しく、首を傾げながら視線の先にある物を眺めた。届いた文には一体何と書かれていたのか。意味ありげにされれば、その内容が気になるのは仕方のないことだろう。

 それに気付いたおちかは、頭を振ると「何もないわ」と言って微笑んだ。その顔は、先ほどまであったはずの色が綺麗に隠されていた。

 隠したということは、話さないということだ。そしてそれは、どんなにしつこく聞いても絶対に話してくれないことをお鈴は知っていた。文の中身については諦めるしかない。

「お鈴がよければ、姉さんに顔をみせてあげて。今時分は季候もいいし、ついでに浅草寺へ行くのもいいと思うわ」

「何日ぐらい?」

「いくら姉さんがいいと言ってくれても、あちらも商いがあることだし、泊まらずその日の内にお暇させていただきなさい」

「それなら行きます」

 お鈴は頷いて了承した。泊まるとなるとさすがに気が引けたが、そうでないなら強く拒む理由もない。

 おちかもそれを見てお鈴へ頷き返した。

「じゃあ、姉さんに伝えておくわね。あちらの都合のいい日に伺いましょう」

「おっかさんも一緒にいくのよね?」

 当然のことのようにお鈴は訊ねたが、おちかは一拍置いて、ゆっくりと首を横に振った。

「失礼かもしれないけど、うちも商いがあるし。急なことがあっても困るから、今回は無理ね」

 福屋は今おきよ以外に女中をおいていない。その為、お内儀かみであるおちかも台所だいどこに立つ。おちかが居なければ、若い調剤師が手伝いに入るだろうが、それだとおきよの負担が大きすぎるのだ。

 お鈴の顔が途端に情けないものになって、両手をもじもじと弄り出した。

「あたしだけじゃ、伯母さんと何を話したらいいのかわからないわ」

 少し俯きがちに、小さな声で抗議した内容に、おちかは驚きを見せ、そして見る間に呆れへと変わっていった。

「何情けないことを言ってるの。もう十六でしょう? それぐらいできなくてどうするんですか」

 なおも縋るようにお鈴は「でも」や「だって」と呟いたが、おちかがそれで折れるはずもない。

「それなら尚のこと丁度いいわ。いきなり他人よそ様のお相手をするより、よっぽど気安いでしょう。きちんと挨拶してらっしゃい」

 これでこの話は終わりだと言わんばかりに、おちかはぴしゃりと言い切る。そして文を手に取ると、そのまま立ち上がった。

 俯いていたお鈴は、その気配を感じてぱっと顔を上げると、悪あがきのように少し腰を浮かせる。

 高い位置からそれを一瞥したおちかは、額に手をやり、盛大なため息を落とした。

「なんて顔をしてるの」

 あまりの情けなさに心配になったのか、おちかは何かを考えるように目を瞑った。お鈴はその眉間にうっすらとよっている皺を期待を孕んだ目で見つめる。

「宗次郎と一緒に行ってきなさい」

 おちかが目を開けて告げた言葉に、お鈴の顔が顰められた。一人は嫌だが、諸手を挙げて歓迎できる相手でもなかった。

「家の者で手が空いているのは今宗次郎だけよ。それが嫌なら三太を連れて行くか。どちらかね」

「……宗次兄さんでいいです」

 三太は完全にお供だ。元々付ける予定だったに違いない。そしてそれでは一人で行くのと変わらない。お鈴は不承不承の態で、おちかの譲歩案を飲んだ。

「一両日中には返事が来ると思うから。そしたらまた知らせるわ」

 それまでにしっかり心積りをしておけと暗に伝えると、おちかはさっさと座敷を後にした。


 音もなく唐紙が閉まると、お鈴は体を畳へと転がした。おちかに見られたら、確実に叱られるだろう格好である。

「嫌だなぁ」

 お鈴の頬が綺麗に膨らんだ。

 おちかも一緒だと思ったから了承したのだ。行かないと知っていたら最初から断っていた。とはいえ、後の祭りである。

 おちかは一度返事をしたことを、条件が違うからと覆すことを良しとしない。それは商いをする上で、信用を失うことにもなりかねないからだ。だからそうならないように、慎重に返事を返すし、普段からそれを徹底している。そしてそれは、お鈴を含む子供たちも、ずっと言い聞かされてきたことだ。今さらやはり行かない、は絶対に認められない。

 お鈴は頬を膨らませていた空気を吐き出すと、もう一度「嫌だなぁ」と呟いた。

「お鈴」

 そこへ急に低い声が聞こえたので、お鈴は慌てて跳ね起きた。今の格好は、おちかでなくとも窘めるものである。

「ごめんなさい!……なんだ雲珠うずか」

 声の主の姿を確認すると、お鈴はその名を呼んで安堵の息を漏らした。いつの間にか現れ声をかけたのは、獣――狼の姿をした妖怪だった。

 先日宗次郎と小さな翁が初めて会った日、家に帰り着くとお鈴は早速獣の名を考え始めた。

 いくつか挙げた中には、宗次郎が腹を抱えて笑ったものもあるが、その中から獣自身がそれでいいと言ったのが『雲珠』である。

 以来、福屋では獣のことをこの名で呼んでいる。そして小さな翁も、お鈴たちといる時は、この名を呼ぶようになった。

「あっ! 汚れたまま上がったでしょう」

 獣が現れたあたりの畳に、土のような汚れがあるのがお鈴の目に入った。獣が自ら足やら体やらを清めるわけもないので、当然といえば当然である。

「知らん。それより聞きたいことがある」

「駄目だったら。あぁ爪も! もう、話なら縁側で聞くから」

 気にせず動こうとする獣をせめて膝に乗せようと、お鈴は慌てて前足の付け根に手を入れて、持ち上げた。汚れなら取れるが、爪で傷がつけば畳を変えなくてはならなくなる。

 しかし、獣はそれなりの重さがある。後ろ足は畳から離れず、お鈴に支えられながら二本足で立っているような格好になってしまった。

「……何をする」

「……だって爪が」

 獣は怒ってはいなかったが、呆れたような冷たい視線を投げた。お鈴はその視線を受けきれず、すいっと逸らす。

「とにかくここは駄目だから、庭に行ってちょうだい、あたしもすぐに行くから」

 爪を引っ掛けないようにと付け足しながら、獣の前足をゆっくり下ろす。獣は「早く来い」とだけ告げると、そのまま霧のように消えた。

 お鈴は畳に引っ掻き傷が付いていないことに胸を撫で下ろし、後で掃除しなくてはと、汚れを見て眉を下げながらも先に縁側へと向かった。

 縁側では獣が沓脱石くつぬぎいしの上に座って待っていた。その一見愛らしい姿に思わず顔が綻びそうになったが、頬に手を添えて何とか留まる。

「それで、一体なあに?」

 縁側に腰掛けながら、わざわざ座敷まで上がってきた理由を尋ねる。

「おまえの母親に文を送った者は人間か?」

「何それ?」

 問われた内容の突拍子の無さに、お鈴は吹き出した。随分と下手な冗談だと、笑いながら獣を見れば、その目は一切笑っていなかった。

「人間に決まってるじゃない。おっかさんのお姉さんよ? それに、あたしも会ったことあるもの」

 笑い飛ばそうとしたが、獣の目を見るとうまくいかず、それは酷くぎこちないものになった。

「そうか……」

 そう言ったものの、獣の目つきは依然として厳しいままで、それは何かを考えているようでもあった。

 お鈴もその顔を見ていると、だんだんと緊張してきた。獣は何故わざわざそんな当たり前のことを聞くために座敷まで来たのか。文を送った者、と言っていたが、あの文には何かおかしなことが書かれていたのか。そういえばおちかの様子も少し変だった。色々なことが浮かんで、心の内は混乱していた。

 だが一向に獣からは次の句が出てこない。もう限界だと言わんばかりに、お鈴が先に口を開く。

「何でそんな当たり前のことを聞くの? 伯母さんからの文に変なことがあったの? 雲珠はあの文を読んだの?」

 鼓動と連動するかのように、早口で捲し立てる様な言い方になり、頬も少し上気したように見える。獣はその様子に逡巡する素振りを垣間見せたが、元より隠し立てするつもりはなかったらしく、ゆっくりと落ち着いた声を紡いだ。

「母親の持っておる文……そしておまえの持っておる箱。両方から妖怪の匂いがするのだ」

「…………どういうこと?」

 意味が分からなかった。いや、言っていることは分かるのだが、何故そんなことが起こっているのかが分からなかったのだ。

「文の方が特に色濃い匂いがしておる。だが、おまえは文を送った者は人間だと言った。ならば、その者に妖怪が憑いておるか――もしくは家に憑いておるかだ」

 お鈴は言葉を失った。そして、その顔からも色が失われていった。


 真っ先に思い起こしたのは善吉の時のことだった。あの時のように、おえんにも妖怪が憑いているのだとしたら、今は何もなくとも、近いうちに大事が起きるに違いない。

 背筋がぞくりとした。放っておくと震えそうな手を強く握り締める。

「どうしよう。それなら早くなんとかしないと! ああ、でもあたしじゃ妖怪は見えないし」

「待て。全ての妖怪が人に仇なすわけではないと前にも言ったであろう。近くでその者を見ておるだけやもしれん。それに、家に生きた憑り代があるだけということもある」

 どこへ行こうとしたのか、立ち上がっていたお鈴は、獣の、尚もゆっくりとした声にはっとした。同時に緊張が薄れたのか、そのままへたり込んでしまった。

「そっか……そうよね。そうだ、稲荷様や雲珠みたいな妖怪もいるのに、なのにあたしったら」

「恐怖は心に強く刻み込まれる。仕方あるまい」

 ましてや初めて会ったものなのだ。より深く印象に残ってしまうのは致し方ないことである。

 獣は落ち着かせるかのように、尻尾をゆらりゆらりと揺らした。それを目の端で捉えたお鈴は、焦点をそこに合わせると、意識してゆっくりと息をした。力の抜けた手も、もう震え出そうとはしなかった。

 その姿を確かめた獣は、尻尾を動かすのを止め、またゆっくりと口を開いた。

「だが、儂が今まで会ったことのないものの匂いゆえ、もちろんおまえが考えたようなことが絶対に起こらぬとは言えん」

 お鈴の顔色はまだ青ざめたままだったが、先ほどのように取り乱すことはなかった。なんとか獣の言葉を飲み込もうと、ゆっくりと頷く。

「どうやったら見分けられるの?」

「生きた憑り代のものであればすぐに分かるが……おまえはその家に、人間の言う先祖代々の物があるなど聞いたことはあるか?」

 決して冷静とは言えない頭で、それでも数えるほどしか会ったことのないおえんとの会話を思い返してみる。だが、お鈴は聞かれたことに短く答えていただけだ。隣で話していたおちかとの間にも、そのようなことを言っていた覚えはない。

 お鈴は悔しそうに首を横に振るしかなかった。

「でも、そんなに会ってる訳でもないし、そういう話が出なかっただけってこともあると思うの」

「そうだな」

 そう言って、また獣は黙ってしまった。

 お鈴は少しの間その姿を見つめると、決意したように口を真一文字に結び、姿勢を正した。

「雲珠は、あたしとおっかさんの話を聞いていたんでしょ?」

 元からあの部屋にいたのでなければ、おちかが座敷を出て行ってすぐに、姿を見せられるわけが無いとお鈴は考えている。

 獣から言葉は返って来なかったが、真っ直ぐ見返してきたのは肯定の仕草だと受け取った。

「あたしも宗次兄さんも妖怪が見えないの。お願いします。一緒に見に来てください」

 お鈴は獣に向かって、手を付いて頭を下げた。

 本来なら関係ないのだから、何も言わずに放っておくこともできたのだ。それを知らせてくれた。ならばこれ以上を望むなら、きちんと礼を執るべきだと思ったのだ。

 だが、その態度に獣は驚いて、わずかだが普段よりも目を大きくしていた。もちろん、頭を下げているお鈴には残念ながらその顔は見えていない。

 しばしの沈黙の後、獣はくるりと反対を向き、お鈴に背を向けて座り直した。

「もし、このまま放っておいて何かあったら寝覚めが悪い。仕方ない、どのようなものがおるのかは見に行ってやろう」

 お鈴はその言葉で顔を上げた。

「ありがとう。雲珠」

 その顔色はまだ元には戻っていなかったが、先ほどよりは随分とよくなっている。獣の背中に向かって、安堵したような声で感謝を告げた。







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