第4話
その日のお鈴は朝から浮き立っていた。それは誰の目から見ても明らかで、朝はおきよに「何かあったんですか?」と聞かれ、
宗次郎は何も言って来なかったが、その顔には呆れを湛えていた。
そんな状態なので、もちろん稽古も集中できるはずはなく、間違いが多くなる。それを師匠は叱ったが、それすら耳に入っていない様子に最後は呆れるばかりだった。
よく練習してくるようにとの言葉で稽古が終わると、普段より素早い動きで身支度を整えて辞した。
表へ出るとそこには既に宗次郎が来ており、出てきたお鈴に気付くとその表情はやはり呆れの形になった。
「おまえは本当にわかりやすいなぁ」
お鈴はその言葉に反射的に顔に手をやったが、むくれることはしなかった。流石に今日の自分が浮き立っている自覚はあったからだ。
一応お鈴も冷静に、いつも通りでいるよう努力はしたのだ。だが心はうさぎのようにぴょんぴょんと跳ね回って、結局捕まえることができなかった。
「いいから! もう、早く行こう」
お鈴は少し頬を赤らめながらも、とにかく稲荷社を目指そうとした。しかしそこであることに気が付く。
「一緒に来てないんだ」
宗次郎の足下、周りに獣の姿が見当たらない。
「うん? あぁ、犬っころのことか。いや、折角だから一緒にと思ったんだがなぁ。庭にいなかったんだよ」
つまり姿を消して何処かしらへ出掛けてしまっていたというとである。
お鈴は「そうなんだ」と抑揚なく返事を返すと、稲荷社へ向かって足早に歩き始めた。宗次郎は先に進んだお鈴へ大股で寄ると、横に並んで歩幅を合わせた。
気にしていない体を装ったが、お鈴は内心がっかりしていた。確かにあの日、獣は一緒に行くと言葉にはしなかったが、それでも来てくれるものだと思っていたのだ。そのため、何も言わずに出掛けてしまったことに何だか約束を破られたような気分にもなり、知らず少し膨れていた。
横を歩きながらその顔を見た宗次郎は苦笑いを浮かべるしかない。思っていることのほとんどが顔に書いてあるのだ。よくもまぁこんなでひと月も黙っていられたもんだと独りごちた。
実際、普段顔を合わせることのない親分でさえ、お鈴が何某か隠し事をしていることには気付いていた。だがお鈴は昔から都合が悪いことになると、いつもだんまりを決め込む。襲われた娘相手に強気に出るわけにもいかず、結局詳しい話を引き出すことができないまま帰る羽目になっていただけのことなのだ。もう少し強く問い質す人間がいれば、もっと早く黙っていられなくなったかもしれない。
「稲荷様も獣の姿なのか?」
先ほどから一転、浮かない顔で横を歩くお鈴の気を紛らわせるように、宗次郎は話を聞いてから気になってたんだがと前置いて質問した。
お鈴はぱっと宗次郎の顔を見ると、すぐに周りをきょろきょろと見回した。そして睨みながらまた宗次郎へと顔を向けた。
「なんでこんなとこでその話をするの。誰かに聞かれたらどうするの?」
「誰も聞いてやしねぇよ」
声を潜めて怒るお鈴を宗次郎は笑い飛ばした。通りは確かに人が多い。だがその分騒がしさもひとしおなのだ。多少大きな声で話したとしても、そうそう聞こえたりしない。
「大体、聞かれたから何だってんだよ。こんな話、ただの戯れ言にしか思わねぇだろ」
「それは――まぁそうかもしれないけど」
「で、どうなんだよ?」
それでも納得のいかない様子で、でも、もしかしたら、などと呟いていたお鈴は、声を潜めるでもなく、笑いながら答えをせっついてきた宗次郎にむっとした。
「知らない! どうせもうすぐ会えるんだからいいでしょ」
完全にへそを曲げたお鈴は、一層膨れた顔をして口をへの字に結んでしまった。
宗次郎は「そんなに怒ることかねぇ」と呟きながら項あたりを掻いた。
結局その後は宗次郎が話しかけなかったので、お鈴は一回も口を開くことなく稲荷社までたどり着いた。とはいえ、稲荷社はそう離れた場所にあるわけではないのでほんの
しかしその間に少し熱が引いたお鈴は、流石に自分の態度が子供じみたものだと反省していた。予想外の出来事に少し拗ねていたので、宗次郎の態度が余計にカチンときたのだ。だが、謝罪の言葉を口にしたらまた意地の悪い顔でからかわれるんじゃないかと思うと、素直に謝る気にもなれないでいた。
このばつの悪い状態で一体何と言って声を掛けたものかと、内心弱りながら鳥居の下から境内を見回した。
やはり今日もまた、ここを訪れている者はいないらしい。人が寄り付かないのは噂のせいなのだが、そのきっかけを作ったのが自分なのだと考えると、どうにも申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだった。
人が訪れるようになれば、稲荷社に棲まうものは姿を現さなくなるかもしれない。それはお鈴にとって寂しいが、しかしそれでも以前のように少しでも人が訪れるようになってほしいと願う気持ちの方が強かった。
「お鈴。とりあえず先に挨拶するぞ」
いつの間にか物思いに沈んでいたお鈴に、宗次郎は先ほどのことなどなかったかのように声を掛けた。見れば宗次郎は既に社の前に立っており、お鈴へ手招きしていた。
ほっとしながらも一つ頷き返すと、数歩しか離れていない距離を小走りでより、宗次郎の横に並んで社へと向いた。
揃って
後ろ手を組んで優しそうな笑みを浮かべる、好々爺然とした風貌のものが目の前にいたのだ。
「稲荷様!」
お鈴は目を輝かせ、嬉しそうに声を上げた。その言葉に宗次郎は横を向き、また正面に顔を戻した。
総髪頭を乗せて、小袖と野袴に羽織を合わせたその姿は、どこぞ立派な家のご隠居が物見遊山に出掛けてきたような出で立ちだった。
「これが稲荷様? ……小せぇ」
「失礼でしょ!」
思わず零した宗次郎の言葉に、今度はお鈴が横を向いて慌てた。
だが確かに小さい。その姿形は全く人と変わらないが、身の丈は二尺もない程しかなかったのだ。それが宙に浮いているから、顔をあげた際に視界に捉えることができたのだ。
「これは身の丈が同じなら人間としか思えねぇな」
「だから失礼だったら!! 稲荷様ごめんなさい」
まさしく頭の先からつま先まで、といった様子でまじまじと見続ける宗次郎の腕を軽く叩くと、お鈴は弱り顔で謝った。
「何、構いませんよ。それにお鈴さんも初めて会った時は同じようにじっと私を見ていましたよ」
「なんだ、おまえ人のこと言えねぇじゃねぇか」
「だってあの時は本当に驚いてしまって! あの、ごめんなさい」
「いやいや、むしろ可愛らしい娘さんに見つめられて嬉しいものでしたよ」
カラカラと笑いながら返されたその言葉に、お鈴の顔は薄紅の花が咲いたように染まった。その
「それよりどうして? 私まだ宗次兄さんに話したこと伝えてないのに」
「先ほどあれが教えてくれたんですよ。それで早く会いたくてね」
そう言って小さな翁が振り向くと、椿の枝葉が揺れる音がした。少しして、社の後ろからあの獣が姿を現した。
「やっぱり来てくれたんだ!」
「――儂はもともとその爺と古馴染みだからな。たまには訪れることもある」
嬉しそうに笑いかけたお鈴に、獣は近寄りながらも淡々と返す。しかし多少の気恥ずかしさはあるのか、お鈴や宗次郎と目線を合わせることはしなかった。その代わりとばかりに、余計なことをと呟きながら小さな翁を軽く睨んでいた。
「庭に居ねぇからどこに出掛けたのかと思ったら。まさか先に来てるとはなぁ」
「そうよ、どうせなら一緒に来てくれれば良かったのに」
先ほどの笑顔から一転、拗ねたように口を尖らせたお鈴に獣は大きなため息を吐く。
「人と同じように道を歩けと? そんな面倒は堪らん」
「おや、最近は姿を現していることの方が多いのでしょう? ならば良いではないですか」
「
「まあでも、お鈴さん達のことを先に知らせに来てくれたお陰ですぐに会うことができたんです。今回は大目に見てあげましょうか」
ね? と言って微笑みかけた小さな翁に釣られるように、お鈴はくすくすと笑い声を零しながら頷いた。宗次郎もその様子に笑みを浮かべていたが、唯一、獣だけは面白くなさそうな表情を浮べていた。
「もう用は済んだであろう。儂は行くぞ」
「せっかく友に会ったというのにせっかちですねぇ。もしかしてへそを曲げてしまいましたか?」
「曲げてなどおらん」
笑みを湛えたまま尚もからかう小さな翁を獣は目一杯睨んだが、当の本人はどこ吹く風といった様子だった。そのやり取りはお鈴と宗次郎の笑いをさらに誘った。
「稲荷様はいい性格してんなぁ。俺は好きだぜ、そういうの」
「それはよかった。ではこれからも仲良くできそうですね」
お互い顔を見合わせると含みのありそうな顔で笑いあった。そこで宗次郎はふと思い出したような表情に変わった。
「そういやまだ名乗ってもなかったな。改めて、俺は宗次郎ってんだ。こないだの一件、稲荷様がお鈴と善吉を助けてくれたんだってな。ありがとな」
「いえ、そのように頭を下げられるようなことではありませんよ。元はこちら側のものがしでかしたことですから。彼は大丈夫ですか?」
今日姿を現してから初めて、小さな翁の表情が笑み以外の形をとった。それはとても痛ましげなもので、お鈴も宗次郎も思わずつられて表情が沈んだ。
だが宗次郎はすぐに変えた。まだ眉尻は少し下がったままだったが、なんとか口元は笑みを作っていた。
「牢屋に入っちゃいるが、今のとこ体に問題はねぇらしい。早いとこ出してもらえるように色々手を打ってるとこだよ」
「そうでしたか」
体に問題はない、というところを聞いて小さな翁の顔にも少しだけ安堵の笑みが混ざった。だがお鈴は引っかかったことがあり、宗次郎の袖を摘んで引いた。
「……今のとこって。宗次兄さん善吉さんに会ったの?」
牢屋の中にいる善吉の今の状態など、どうして宗次郎が知っているのか。
「そんなわけねぇだろ。牢屋に入った
その伝手が何なのかははぐらかすので、きっと差し入れに行った者か、親分あたりが中の様子を訊き出したのだろうと、自分を納得させた。
「何にせよきちんとお沙汰が出るまで、どうしてるかは気になるだろ。また様子がわかったら知らせてやるよ」
「うん……」
「それはぜひ、私にもお願いできますか?」
「あぁいいぜ」
「ありがとうございます。本当は己で行ければいいのですが、私は
小さな翁は申し訳なさそうに言いながら、足元に留まっていた獣を指した。
指された獣は鼻に皺を寄せて、大いに不満のある顔をした。
「なぜ儂がおぬしの使い走りなんぞをせねばならん」
「どうせ普段ゴロゴロしているだけなのでしょう? 大した手間でもなし、いいじゃないですか」
「いいや大きな手間だ」
「なんと狭量な! あなたはどこへでも自由に行けるというのに、動けぬ友の些細な頼みごとも聞いてくれないのですか?」
小さな翁は獣の返答に大げさに驚いて見せ、俯き目元に手をやった。それを見た獣はうんざりとすいった顔をする。
「いつおぬしが頼みごとなどした?」
「長い付き合いのある相手の意を酌むぐらいできなくてどうするんです」
「知るか」
お鈴は始まったやり取りにまたも笑い声をあげそうになるのを堪えていた。普段の獣は泰然としている印象が強い。それがからかわれている様はなかなかに珍しいし、見た目も相俟ってなんとも可愛らしかった。
「まぁ俺もたまには稲荷様に会いたいし、こっちに来るようにするさ」
宗次郎も大いに面白がっていたが、何やら気になることがあったらしく、仲裁の言葉を挟むと、ところで、と言って小さな翁を見た。
「稲荷様は姿を消しててもここから動けねぇのか?」
「えぇ。どのような姿でも私はここから動けません」
「でも犬っころはどこでも自由に動けるのか?」
「はい」
首を傾げて訪ねた宗次郎に、小さな翁は笑って頷く。足元では獣が犬ではないと咆えたが、どちらも全く気にしていない。
その姿にお鈴は思わず頭を撫でてやりたくなり手を伸ばしたが、触れる前に慌てて手を引いた。この獣にそのようなことをすれば手を噛まれかねない。
獣はお鈴が動いたのは気付いたようだが、何をしようとしたかまでは思い至らなかったらしく、特に何も言ってはこなかった。だが変わりのようにフンと鼻息を荒く吐いた。
「儂とこやつとでは立場が違う」
それと自由に動けないことがどう関係するのか。宗次郎には全くわからないので、獣の言葉ではさらに首を傾げるだけだった。それはお鈴も同様だ。
その二人の様子に小さな翁は呆れの視線を獣へと流した。
「それでは言葉足らずすぎますよ。〈
「当たり前だ。する必要もないであろう」
「そうですね。でも私は二人を気に入っています。ですから、話しても良いと思ってます」
獣の耳がぴくりと動き、表情が険しくなった。鋭い視線を投げるが、小さな翁はそれににこりと笑って返す。
「それが危険なことくらい、承知しておろう?」
「もちろんです。ですがこの二人なら大丈夫ですよ――あなたもこのひと月、人となりを見てきたのでしょう?」
やり取りされる口調に激しさはないが、空気は張り詰めていた。宗次郎はその様子を腕を組んで見ていたが、お鈴は手を伸ばしかけたり口元にやったりと、おろおろしていた。
「あの、別に無理に話さなくてもいい……です」
正直に言えば色々気にはなる。だがそれで喧嘩になるくらいなら聞かなくてもいい。お鈴はそう思い、控えめに声を掛けた。
しかし途中で全員の視線がお鈴に集ると、急にに恥ずかしくなってきて、仕舞いの方は蚊の鳴くような声になっていた。
「そうだなぁ。自由に動けないのもいる。俺が気になったのはそこだし、別に理由とかはいいぜ」
宗次郎は苦笑いで顎を触りながら、お鈴の意見に同調した。
その二人の言葉に小さな翁は破顔し、獣へ向かって「ね、大丈夫でしょう?」と言った。
獣は諦めたように大きな息を吐くと、その場に伏して目を閉じた。どうやら黙認することにしたらしい。
小さな翁は満足げに頷くと、兄妹へ向き直りその場に胡坐を組んだ。宙に浮いたままの状態なのだから、なかなかに器用である。
「さて、これの許可もでたことですし、何から話しましょうか」
少しはしゃいでいるようにも聞こえるその声に、お鈴は逆に心配になった。
「あの……本当に大丈夫なんですか?」
「危険というは私側のことなので、お二人の身は心配せずとも平気ですよ」
お鈴の心配の意味を履き違えているらしく、小さな翁は「あぁ」と言って手を打つとそう答え、安心して下さいと続けた。
「いやそうじゃなくて。稲荷様の身が危険だってんなら、余計に話しちゃまずいんじゃないのか? 特に俺なんて今日会ったばかりだ。そんなに信用していいのか?」
「二人とも本当にいい子ですね。そう思ってくれているなら、話したとて私に危険が及ぶこともありません。それに――」
小さな翁は宗次郎と目を合わせると、さらに相好を崩した。
「直接言葉を交わしたのは今日が初めてですが、宗次郎さんのことも以前から知っていましたよ」
お鈴が昔からお参りに来ていたように、宗次郎も昔からここに来ていたのだ。幼い頃は手習いの帰りに一緒に寄ったりもしていた。
「そりゃ近所だからお参りに来たりもしたが……」
大勢来る人間の顔をいちいち覚えているものなのだろうか? というのは当然の疑問である。怪訝な顔になった宗次郎に、小さな翁はいたずらっぽく笑った。
「ここは元より訪れる人があまり多くないんですよ。そこに幼い兄妹が睦まじく度々訪れてくれれば、自然と顔も覚えます」
言って今の二人を通して幼い頃の姿が見えたのか、懐かしそうに二人の顔を見た。
自分達の知らないところでずっと成長を見守られていた、というのを知らされるのは何とも面映いもので、お鈴は少し俯き足をもじもじと動かす。宗次郎は目線を斜め下に向けながら項あたりを掻いている。
「さて、何やら本題からずれてしまいましたね。折角です。私たちについて色々お話しましょう」
小さな翁が居住まいを正すと、凛とした空気が広がる。相対する二人も視線を上げ、姿勢を正した。
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