第5話

「私たち〈この世にあらざるもの〉はのように自由に動けるものと、私のように一つ所から動くことのできないものがいます。これは先ほど宗次郎さんから問われ答えたことですね。では何故か――」

 語り始めた小さな翁の声はよく徹った。先ほどまでと大きさはさして変わらぬはずなのに、明らかに違う。周囲の喧騒さえも遠くなった気がするのだ。それなのに、椿の枝葉が風に揺れる音は境内に広がっている。

 お鈴はそんな不可思議な感覚に囚われていた。それでも、小さな翁の言葉はしっかりと届いてくる。

「一つは、己が憑り代よりしろに左右されます」

「憑り代……」

「はい。私たちは様々なものを憑り代にして生じます。生き物、自然、道具。なんでもです――人の世と異なる存在なのに、人の作り出した道具からも生ずるとは、何とも奇妙な話ですよねぇ」

 小さな翁は声を漏らして笑ったが、お鈴や宗次郎がそれを笑えるはずもない。何と返していいのか、曖昧な顔をするのが精一杯だった。

「生ずるってのは?」

「そこに意識が宿り、己が理を知り、在るものとなる。ただそれだけです。私たちには生き物のように親などはいません。独りでに出来上がるのです。そして、憑り代となったものによっては、そのものから離れることができません」

 それは憑り代だと言った。命の有無ではない。祀られた巨石や高木、長年大事に使われている道具など、他との係わりを持つものだ。

 その他の思いがくびきとなって、憑り代となったものから離れられないのだという。

「じゃぁたとえば、先祖代々の何やらってぇ物には、〈この世にあらざるもの〉が離れられないでいるってことか?」

「全てが憑り代となっていわけではありませんが、そういった物はいることが多いですね。あぁ、でもそういうものは人を害するようなことはしませんから、安心してください」

 穏やかに答えていた小さな翁だが、お鈴の顔が青くなったのを見て、慌てて言葉を付け足した。

 今後どれほどの機会があるかは判らないが、そういった物に出合ったら何かされてしまうのでは、と考えたらぞっとしてしまったのだ。だが、人を傷つけないものなら怖がることもない。お鈴は胸を撫で下ろした。

「稲荷様も生きた憑り代から生じたから、ここから動けないんですか?」

 自分はもう大丈夫だという意思表示も合わせて、お鈴は質問を投げた。その様子に小さな翁も笑みを浮かべたが、質問には頭を振っていた。

 では何故? 小さな翁の答えにお鈴と宗次郎は首を傾げた。

「一つ所から動けない理由がもう一つあります……それが〈いみな〉です」

「あ……さっき言ってた」

 お鈴はちらりと獣を盗み見た。先ほどは反対していたが、今はその言葉が出ても変わらず、その場に伏して目を閉じていた。その姿は寝ているようにも見えたが、宗次郎の足が動いて出た音に耳がピクリと動いたので、しっかり聞いてはいるようだ。

 小さな翁もその様子を横目で見ていたらしく、お鈴を見ると目を細めて首肯した。

「ただ、これは私たちの在り方そのものを左右するものです。そのことを忘れないでください」

 その言葉はそれまでと変わらず穏やかな声で告げられた。だが、思わず息を凝らした。そこにそれまでにない重みを感じたからだ。

 宗次郎は拳をぐっと握り、小さな翁をまっすぐに見ると深く首を縦に振った。それに倣うように、お鈴も両の手を強く握り合わせると首を振った。

「人の間にも〈諱〉はありますから、言葉からどのようなものか、見当は付くかもしれませんね」

 人にとっての〈諱〉とは、口に出すことをはばかる名のことだ。帯刀を許された者や大店の主など、力のある者が持っている実名。当然、お鈴や宗次郎にはない。

「個の存在を示す名である、というのは同じです。しかし、人のように身分によってではなく、私たちは永く存在し続けることによって、持つことができるようになります。そして、人に姿を見せることができものは皆、〈諱〉を持っています」

 口に出すことがどれほど無礼であろうと、人にとっては所詮ただの名でしかない。しかし〈この世にあらざるもの〉にとって〈諱〉を持つことは、力を得ることであり、己を縛ることでもある。そのため、それ相応の器――永いときを存在し続け、それを受け入れるだけの強い力を持つことが必要なのだという。

「だがどうやって?」

 人はそれを親や主から与えられる。しかし、独りでに生じた存在には与えてくれるものなどいないのだ。

「己で決めます」

「己で?」

「そうです。とはいえ、別に己の決めた名を吹聴して回るわけではありません。己が存在へとその名を刻むのです。成功すれば人に姿を見せることができるようにもなりますが、失敗すればそのまま消滅します」

 小さな翁は事も無げに言ったが、それは力が足りなかったものは死ぬということである。

「し……死んでしまったら、どうなるのですか?」

 お鈴の喉がごくりと小さくなった。

「どうもなりませんよ。そもそも、私たちには死というものがありません。本当に、ただその存在が消えるだけです。後には何も残りません」

「消滅とか、しないんだと思ってた」

 その言葉に小さな翁は可笑しそう笑った。

「さすがにそんなことはありません。私たちは結構簡単に消滅しますよ。生きた憑り代から生じたものなんかは、その憑り代が朽ちれば消滅します。姿を見せられるものでも、人間の祓いなどで消滅します」

 祓い屋、などというらしい。〈この世にあらざるもの〉を映すことができる稀な目。それを持つ者が、妖怪と呼ばれるものを消滅させたりするのだ。

「そんなのがいるなんざ、知らなかった」

「人間は見えない者がほとんどですからね。妖怪が見える、退治できる、などと言おうものなら、頭のおかしな者だと思われるでしょう。ですから当然、おおっぴらにはしませんよ」

「あぁ……」

 まさに宗次郎はつい先日まで信じていなかった口である。気まずそうな、納得したような面持ちで相槌を打つと、頬を掻いた。

「さて。〈諱〉を得ても、私たちは滅多にそれを他に教えることはしません。その名で呼ばれれば、己を支配されるからです。とはいえ、〈この世にあらざるもの〉同士であれば、強く支配されることはありません。ですから、信頼の証としてお互いの〈諱〉を教えあうこともあります。ただ、人間に知られれば強力な支配を受けます」

 人間が妖怪を支配する。そんなことができるのだろうか?

 いつの間にかお鈴の体は強張り、心の臓も打つ速度が上がってきていた。横にいる宗次郎の表情も強張っていた。しかし真っ直ぐ、真剣な眼差しを小さな翁に向けている。

 お鈴も小さな翁に意識を戻した。

「姿と〈諱〉。両方知っていれば、そのものを従わせることができるのです。先ほど話した祓い屋の中にも、それらを使役する者がいます」

 それが縛られるということ。〈諱〉を持たなければ他に支配されることもないのだ。

「なぁ……」

 宗次郎は遠慮がちに、だがどうにも腑に落ちないといった表情で、腕組みをしながら口を開いた。

「今までの話だと、〈諱〉と一つ所から動けねぇってことが全く繋がらねぇんだが。稲荷様は一体何に縛られてるんだ?」

 人に支配され縛られる、というのであれば、その人間のいる所に縛られることになる。それは一つ所に縛られることとは全く別だ。お鈴も確かに、と宗次郎の言葉に頷いた。

 小さな翁は何か企んでいるような、含みのある笑みを満面に浮かべると、口を開いた。

「――私の〈諱〉は『三峰』と言います」

「は?…………」

 あまりに突然の告白に、お鈴と宗次郎はポカンと口を開けて固まってしまった。

 さすがにこれには獣も目を開けたが、小さな翁と目が合うと、やれやれといった体で小さく息を漏らし、また目を閉じた。

「二人ともせっかくの綺麗な顔立ちが台無しですよ。それにしても、驚く様はよく似てますね。さすが兄妹といったところでしょうか」

 小さな翁は二人の反応に大層満足したようで、声を立てて笑っていた。

 一方の二人はまだ混乱から立ち直れないでいる。先ほど自分で言ったばかりなのだ。その姿と〈諱〉、両方知られれば支配されてしまうと。それなのに、いとも簡単に明かしてしまうのは何故なのか。全く理解できなかった。

「稲荷様……自分が何を喋ってるのかわかってるのか?」

 宗次郎は恐る恐るといった感じで声をかける。しかし小さな翁は我に帰ることも、笑みが引くこともなかった。

「十分に承知してますよ」

 それどころか、尚も楽しそうにしていた。その様子にお鈴は「あっ」と口元に手をやった。

「わかった!……からかってるんでしょう。嘘を言って、私たちが驚くのを楽しんでるんだわ」

 口に出してみると、もうそうとしか思えなくなって、少し腹が立ってきた。腰に手を置くと、小さな翁をじとっと見据えた。

 その視線を受けた小さな翁は、目元に手をやると芝居がかった仕草で嘆いてみせた。

「よもや疑われるとは……このような大事なこと。嘘など言うわけないではないですか」

 確かにそうかもしれない。しかし、ことこれに関しては、大事なことだからこそ嘘でなければまずいのではないか。そう考えると、大げさな仕草も相俟って、やはり嘘を言っているように思えてくる。

 腰にあったお鈴の手から力が抜けていくと、それと繋がっているかのように眉も下がっていった。結局、混乱から抜け出せないままである。

 そこを見るに見かねたのか、獣はのろりと立ち上がると、盛大なため息を吐きながら双方に声をかけた。

「こやつの言ったことは本当だ――おぬしも、いい加減遊ぶのはその辺にしておけ。このままでは話が進まんぞ」

「あ……おまえさんは、稲荷様の〈諱〉を知ってるのか?」

「まぁな」

 この獣までもが嘘を吐くとは思えないと、ようやっと二人は小さな翁の言葉を受け入れた。しかし、それでも何故という疑問は残ったままだ。

「その代わり、というのも変ですが、私もの〈諱〉を知っています。まぁさすがに、他のものの名は絶対に口にはしませんけどね」

「当然だ」

 先ほどまでと変わらず、軽やかに笑いながら話す小さな翁に、獣は睨みを利かせた。しかしそれを気にする素振りは一切ない。その様子に、本当に間違って口にしたりしないだろうかと、二人は心配せずにはいられなかった。

「私の〈諱〉、覚えてますか?」

 笑声を収めた小さな翁は、二人に問うた。元の落ち着いた声に気を取り直して、揃って深く頷く。

「では、この名を他で聞いたことはありませんか?」

 続いた問いにお鈴は目をぱちくりとさせた。宗次郎は怪訝そうな顔をしている。

 滅多に他に教えることのない名をどこで聞くというのか。小さな翁が一体どんな答えを望んでいるのか、お鈴には皆目見当がつかなかった。

 ところが、宗次郎は何かを目に止めると、「あっ!」と声を上げた。

「あー……そういうことか」

 緩く天を仰ぐと、頭を掻いた。

「ねぇ、どういうこと? 自分ひとりで納得してないで、あたしにも教えてよ」

 この場にいる自分だけが答えを知らないことに、若干の疎外感と焦りを感じて、お鈴は宗次郎の腕を引いた。だが、そこへ向けられたのは、呆れとも見えるものだった。

「おまえ、俺よりよっぽど来てんのに、まさか名前も知らねぇわけじゃねぇよな?」

「来てる? 名前?…………あぁっ!!」

 お鈴はやっと答えに至り、手を打った。

稲荷社ここの名前」

「正解です」

 小さな翁の口は弧を描いた。

 『三峰稲荷神社』それがこの稲荷社の正式な名なのだ。

「そもそも、こやつが〈諱〉を口にした時に、引っかかりはせなんだのか」

「だって、びっくりし過ぎてそれどころじゃなかったもの」

 小馬鹿にしたような獣の物言いに、お鈴は口の中でもごもごと反論してみたが、その後も宗次郎の助けがあってやっと思い出した有様なのだから、全く説得力がない。

「元々あった堂舎や場所の名を、己の〈諱〉として貰い受ける。そうすることで、その名を持つ場を支配できるようになり、同時に、離れられなくなるんです」

 その為、人に完全に支配されることもなくなる。これが、すんなりと〈諱〉を明かした理由らしい。

「そうは言っても、やはり差響きはあるので、あまり口には出さないでくださいね」

「己で明かしたのだから、呼ばれても自業自得であろう。むしろ呼ばれてしまえばいい」

「なんて酷い言い種ですか」

 小さな翁は胡坐を解くと、意地悪く笑う獣の正面に行き、文句を言いながらまた大げさに嘆く真似をする。その様子に、お鈴と宗次郎は笑い声を零し、絶対に呼ばないと約束した。

 そこで何か気になったのか、小さな翁はふと顔を上げると、目の前の獣をじっと見つめた。獣は顔を顰めたが、気にすることなく、今度はお鈴と宗次郎の顔の前までやってきて首を傾げた。

「そういえば、二人はのことを何と呼んでいるのですか?」

「指を差すな」

 もはや獣の言葉など葉擦れの音かのように、小さな翁は視線すらそちらへ動かさなかった。

 お鈴と宗次郎は互いに顔を合わせると、困ったような微妙な顔をした。

「おまえさん……とか」

「犬っころ……とか?」

 実は以前に名を聞いたことがあるのだが、その時は「無い」と言われたのだ。勝手に名を付けるのも気が引けて、結局今までねえ、とかおまえさん、などと呼びかけていたのだ。

「なるほど。この際です、名を付けてしまいましょう」

「え、でも」

 小さな翁は、その方がいいなどと呟き、ひとり笑顔でうんうんと頷いていた。

 しかし獣にはきちんと名があることを知ったのだ。余計に付けづらい。

「二人は私のことを『稲荷様』と呼んでくれるでしょう? それと同じですよ。普段呼べるあざながないと、やはり何かと不便です」

 どうせもう少し二人の家にいるんでしょう。とは、獣への言葉だ。

 惑ったお鈴が獣を見ると、「好きにしろ」と投げやりに了承を出し、外方そっぽを向いてしまった。

「――じゃあ、宗次兄さんと考えてみる」

 お鈴は少しはにかみながらも了承を受けとった。

「おう、おまえさんに似合いの名を考えてやるよ」

「では決まったら私も今後はその名で呼ぶことにしましょう」

 言葉通り受け取るには憚られる笑顔を浮かべた宗次郎と、それに乗る小さな翁。この二人が寄ると質が悪そうで、お鈴はその矛先となる獣が少し気の毒に思えてきた。

 小さな翁の話はこれで終わったのだろう。話し始めから感じていた不可思議な感覚は、今はもう消えていた。

 何だかんだ言っても緊張していたらしく、体全体がぎこちない。お鈴は深く息を吸い込み、天を仰いだ。

 いつの間にか、西の空が茜色に染まっていた。

 そのままぼうっとしていると、気付いた他のものも空を見た。

「随分と長話をしてしまいました。そろそろ帰ったほうがいいですね」

「そうだな、あんまり遅いと叱られちまう」

 今日は宗次郎が迎えに行くと伝えてあるのだ。稲荷社に寄る程度なら何も言われないが、さすがに日が暮れるほど遅くなってしまうと、どこへ連れ回したのだと説教されるだろう。

 お鈴は小さな翁へ向き直ると、ぴょこんと頭を下げた。

「今日はありがとうございました。必ず約束は守ります」

「こちらこそ、そう言ってくれてありがとう。でも――」

 お鈴へ向けられていた眼差しが、一層優しいものになった。

「本当に困ったときは呼んでください。ここから離れられなくとも、力を貸すことはできますので」

 もちろん宗次郎さんも、と顔をそちらへ向けて微笑んだ。

 改めて、自分たちを信頼してくれているのだと感じる。二人は嬉しさと、照れくささを抱きながら、礼の言葉を口にした。

「それじゃあ、また来ますね」

 お鈴は小さく手を振ると、境外へと歩き始めた。宗次郎も「またな」と軽く手を挙げ、その後を追いかけた。

「気を付けて帰ってくださいね」

 後ろ姿へ掛けた声に、二人は振り返ると笑顔でまた手を振った。

 並んで帰る後ろ姿は随分大きくなったが、その笑顔は昔とちっとも変わっていなかった。



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