第3話
「妖怪のことが一番話せないことだったから、それが知れれば後は大したことなくて……いえ、大したことなくはないのだけど」
自分で思っている以上に緊張しているらしく、お鈴はうまく言葉が出てこなかった。
順序だてて話すにはどうしたらいいのかと迷ううちに、顔が段々と下を向き始めた。
「おまえは、善吉がどうしてあんなことをしでかしたのかはわかってるのか?」
そんなお鈴に気付いたのか、宗次郎は助け舟のように質問を投げた。頷きで質問に答えながら、お鈴はそれにほっとして無意識に、ほんの少しだけ口角が上がった。
「妖怪に唆されたらしいの。憑かれてたって言った方がいいのかな? あたしは妖怪が見えないから、聞いた話だけど」
お鈴は自分にそう聞かせた張本人――獣をちらりと見た。その視線を手繰って釣られるように宗次郎もそちらに目を遣った。
「人の内にある小さな暗い情を嗅ぎ取って、わざわざ大きくする厭らしいやつがおっての。そやつに囁かれて無理にその情を起こされれば、人間は正気でなくなる」
獣はその妖怪のことが嫌いらしい。あの男からはそやつの匂いがしておったと、鼻に皺を寄せて吐き捨てるように言った。
「正気でなかったのは確かよ。善吉さんは……あんな目はしない」
その時の善吉の目を思い出して、お鈴の体はぶるりと震えた。それまでの優しい善吉からは想像もできないほど、怒りや憎しみが綯い交ぜになった目をお鈴へ向けていた。
「そのこと善吉は?」
「己の行いは覚えておるよ。元の、起こされた思いを覚えておる者もおるだろう。だが正気に戻った今では、なぜそのようなことをしでかすに至ったのかは覚えておらんだろう。妖怪に唆されたなどとは、それこそわかるまい」
だからこそ善吉は何も語らず――今は語れずと言った方が正しいが――ただただ謝るしかできなかったのだ。
「そんなことして何になる……それもただの退屈しのぎか?」
「そうだな。今回がそうかは知らんが、退屈しのぎにこのようなことを起こすものもおる。辻斬りなど、人の世で起こる出来事のいくつかにはそやつらが絡んでおるよ」
お鈴はどきりとした。自分たちも退屈しのぎに使われたのかと、そう思うとやはり恐ろしかった。
宗次郎は大きく顔を顰めていた。
「人の世がどうなろうと関係ないのだ。そこに生きるものに心を砕くこともない。人は虫の命に心を砕くか? それと同じよ――貴様も言うたではないか。異なる理で動くものの考えなど、わかるわけもないのだ」
その場に沈黙が落ちた。
宗次郎の腹の内に怒りが湧いているのをお鈴は感じ取っていた。しかしそれはどこにもぶつけられないものだと、宗次郎もそう思っているのだろう。だから言葉を返さなかった。
小さな息を吐き、短い沈黙を破ったのは獣だった。
「全てのものがそう思うておるわけではない。でなければ、人から神などと呼ばれるものは存在せんだろう?……儂とてそこまでするものは好かん」
最後はついでに付け足すように、小さな声で呟いた。
宗次郎は目を閉じるとゆっくりと、長い息を吐き出した。それはまるで腹の中の怒りを吐き出しているかのようだった。
息を吐ききった後、掌で顔を拭うと宗次郎は目を開けた。その眼に怒りは見当たらなかった。
「また話がそれちまったな。それでなんだ? 善吉は今は正気に戻ってるんだな?」
気を取り直すように話す宗次郎と目が合って、お鈴は大きく頷いた。
「稲荷様が払ってくれたから」
「稲荷様ってあの?」
お鈴はまた一つ頷いて、少しだけ微笑んだ。お鈴がいつもお参りに行っているあの稲荷社、そこに棲む〈この世にあらざるもの〉だ。それは人の世に心を傾けるものでもある。
「なるほどな……ぁ? 犬が助けたってのはじゃぁ何だ?」
宗次郎は庭先に座る獣を指差した。またも犬と呼ばれたことか、指を差されたことか、あるいは両方が気に障ったのか、獣は鼻に皺を寄せ大層不機嫌な顔をした。
お鈴は獣がそのまま指先に噛み付くのではと、慌てて宗次郎の手を下ろさせると先ほどの言葉を弁明する。
「それも本当よ。包丁を出されて足が竦んでしまって――その時横から善吉さんに体当たりして離してくれたの」
その後さらに倒れた善吉に飛び掛って伸したのだが、それを言うと宗次郎はまた顔を顰めそうなのでそこは伏せておくことにした。
「そういうことか。いやしかし…………」
宗次郎は腕を組むと困ったように考え込んだ。
「こりゃ確かに話せねぇわけだ。正直に話したところで誰も信じちゃくれねぇだろうしな」
だがこのまま黙っていても善吉の刑は軽くなりはしない。何より、牢屋敷は生き地獄と言われるような場所だ。このままではお
「やっぱり
とはいえ、お鈴にそんなものを用立てる当てはない。両親に願うしかないのだが、そうなればまたそれなりの理由が必要となる。
「そこいらの商人が取り次げる相手じゃお沙汰には関係しねぇよ。それに――それならもうしてる」
「誰が?!」
「善吉んとこの棟梁だよ。あとは親父もな」
お沙汰に差響きを与えることはできなくとも、牢内での扱いには大きな差響きを与えるのだ。
お鈴の口がまたポカンと開いてしまった。あまりにも驚き過ぎたせいか、頭の片隅には妙に冷静なところがあって、この短い間に何回驚いたかしら? などと考えているくらいだ。
「あたし、そんなこと全然聞いてない」
「わざわざ言うことでもないと思ったんだろ」
「なんで……」
表向きは薬屋が原因で死人がでるなど、どんな理由にせよ看板に傷が付く、としているようだ。しかし父親も棟梁が目に掛けていた善吉のことはよく知っている。二人ともが何も話さないのは、何かしら話せない理由があるのではないかと考えているらしい。ましてや、襲われた本人が相手の心配をしているのだ。
お鈴に何事もなかったから言えることではあるが、父親もまた、今回の一件をおかしいと思っている一人だった。
「皆心配してんだよ。おまえのことも。善吉のこともな」
自分が何とかしなければと思っても現実には何もできず、ただ無為に時間が過ぎていった。しかしその裏で動いてくれていた人がいたのだ。
何もできなかった自分が情けなく、善吉に救いの手があったことがうれしく、結局守られていたことに気づきもしなかったことが恥ずかしく。
お鈴は色々な思いがこみ上げてきて、また俯いてしまった。自分はまだまだ子供なのだと痛感していた。
「べそかいてんのか?」
からかう宗次郎の声も心なしかいつもより優しいものに聞こえた。
「泣いたりなんかしてません!」
「へぇ、そうかぃ」
お鈴は顔を上げるとあかんべぇをした。それを見て、宗次郎はいつものように意地悪く笑ったが、不思議と腹は立たなかった。
お鈴は空咳を一つすると、表情を引き締めた。問題が解決したわけではないのだ。
「でも賂も駄目となると、他に方法が――」
獣に証言してもらえば手っ取り早そうだが、以前お鈴が冗談めかして言ったら、そんな面倒は御免だと
「そうだな…………いや、賂か……ひょっとすると」
「何かいい方法があるの?」
お鈴は期待を孕んだ目をして宗次郎へと体を乗り出した。だが宗次郎はそれに反応を返さず、顎に手をやると思案げに獣を見つめていた。
「何だ?」
今度は訝るような視線を獣が返したが、それにも反応は無く、同じ姿勢のままだった。宗次郎は一体どうしたのかと、お鈴と獣は顔を見合わせた。
それから宗次郎は何某か腹を決めたのか、ぱっとお鈴の方を向いた。
「なぁお鈴、この件俺に任せちゃくれねぇか? こうして考えてても埒が明かねぇなら、どんな思いつきでもやってみるもんだろ」
「それってどんなこと?」
「そうだな――うまく纏まれば話してやるよ。そん時は協力してもらわなきゃならねぇしな」
宗次郎は獣とお鈴を順に見ると、意味ありげに笑った。それを訝しむ気持ちがなかったわけではないが、お鈴は首を縦に振った。今まで何もできないでいたのだ。光明になるならどんなことでもしてやろうという決意があった。
「よし。まぁ期待してろとは言えねぇけどな」
「それでも、何もないよりいいわ」
お鈴も宗次郎へ小さく笑みを返した。ほんの少しだけ、心が軽くなった気がしたのだ。
「それにしたって、何でおまえだったんだろうな」
「え?」
急に話の方向が変わったので、お鈴はきょとんとなり、獣は耳をぴくりと動かし宗次郎へと顔を向けた。
「いや、善吉だよ。元が小さかろうと、何かしらおまえに思うことがあったから狙ったんだろ?」
お鈴の体がぎくりと強張った。宗次郎はその反応に首を捻った。
「人の――特に男女の揉め事のほとんどは色恋絡みだと聞いたことがあるが?」
獣がちらりとお鈴を見ながら面白そうに宗次郎に返した。その意外な言葉に宗次郎は獣へと顔を向けるとにやりと笑った。
「色恋とは、おまえさん随分艶っぽいこと言うねぇ」
善吉の歳は宗次郎とあまり変わらないので、確かに浮いた話の一つや二つ、あってもおかしくはない。好いた相手がお鈴ということも考えられなくはないのだ。
だがそこで宗次郎の眉尻は下がり、浮かないような、何ともいえない顔をした。
「どうした?」
「いや、流石に妹の色恋を想像するのはむず痒いというか居た堪れないというか。大体そうだとしてもそれは叶わねぇ思いだ」
福屋は
「だからこそ、心の奥に秘めていた思いかもしれんぞ」
だとすれば、その秘めた思いを妖怪によって無理矢理暴かれたことになる。余計に堪らないのか、宗次郎は体を捩ると自分の腕をさすった。
だがその姿が面白かったのか、獣は喉を鳴らして笑った。
張本人のお鈴は口を挟むことなく、そんなやりとりを何ともいえない顔で見ていた。
「まぁこればっかりは善吉本人じゃねぇと判らねぇか」
最初に疑問を口にした宗次郎が、この話を仕舞いにする言葉を口にした。そして、両手で自分の頬を軽く叩くと、「よし!」と小さく掛け声を上げた。
「何はともあれ、まずは思いつきを何とかしねぇとな」
そう言うと宗次郎は立ち上がろうとした。しかし途中で何か思い出したようにあ、と小さくつぶやくと獣へ向かって座りなおした。
「ありがとよ」
宗次郎は深くではないが頭を下げた。その行いにお鈴は驚き、獣はさらに驚いた。
そこまで驚かれるとは思っていなかったのか、宗次郎は視線から逃げるように外方を向くと、気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「なぜ礼を言う?」
「どんな考えかはわからねぇが、おまえさんがお鈴を助けてくれたのは事実だ。なら、大切な家族を助けてくれたものにきちんと礼を言うのが道理ってもんだろ」
「――そうか」
「おうよ」
ぶっきらぼうな言葉にお鈴はくすりと笑ったが、宗次郎の思いはとても嬉しかった。
獣の返事も、何となく気恥ずかしそうではあったが、纏う空気は少し柔らかく感じられた。
「稲荷様にもきちんと礼を言わねぇとな」
「じゃぁ一緒に行こう。きっと稲荷様も喜んでくれるわ」
前回は話しかける前に宗次郎が迎えに来てしまったので、お鈴は稲荷社に棲まうものと会うことができなかった。だが真実を告げたことを言えば、宗次郎の前にも姿を現してくれるに違いないと、お鈴の心は浮き立った。
「ならおまえの次の稽古帰りにでも行くか。次はいつだ?」
「
「わかった。ならその日は俺が迎えに行くから稽古屋で待ってろ。おふくろには俺から言っといてやるよ」
宗次郎は湯呑みを手に持ち、今度こそ立ち上がった。それを目で追い、見上げたお鈴に笑い返した。
「出掛けてくるわ」
「今から?」
「おう。じゃあな」
そう言うと宗次郎は出て行った。入ってきたときとは違い、唐紙はきちんと手で開けていた。
お鈴は唐紙が締まったのを見届けてから、顔を庭に向けると一つ息を吐いた。どっと疲れが押し寄せてきたのだ。
それでも、宗次郎に大きな隠し事を話せたことで、お鈴の心を沈めていた錘が少し軽くなった。なのでこの疲れはお鈴にとって全く嫌なものではなかった。
「次の
お鈴はまた足をぶらぶらさせながら、獣へ声を掛けた。
獣は言葉では答えなかったが、尻尾を一振りするとまた体を伏せて目を閉じた。その姿に口元を綻ばすと、お鈴は久しぶりに天を仰いだ。
澄んだ空に傾き始めた太陽が眩しくて思わず目を細めると、涼やかな風がお鈴の頬を撫でて過ぎていった。
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