第2話

 お鈴は縁側に腰掛けて庭をぼうっと眺めていた。ぶらぶらさせている足元には獣が一匹、目を閉じて伏せている。

 今日は稽古もなく、もう何もやりたくないと思ったのでこうしてだらだらと過ごしているのである。

 少し前に昼八ツの鐘の音が聞こえていた。昼間の陽射しはまだ厳しさを残していたが、秋も秋分を過ぎれば風が大分涼しくなってきているので、縁側は気持ちよかった。

「寝てるの?」

 お鈴は足元にいるものに声を掛けてみた。顔を上げこそしなかったが、耳がぴくりと動き、尻尾を一振りしてみせた。どうやらお鈴と同じくだらけているだけのようだ。

「――どうしたらいいんだろう」

 問いかけか独り言か、判りかねる声をお鈴は零した。足元の獣は関係ないとばかりに、今度は何も反応を返さない。

「おまえの独り言は随分と大きいな。それとも、その犬っころに聞いたのか?」

 まさか聞かれていると思っていなかったので、急にかかった声にお鈴の体はびくりとした。

 声のした方を向くと、器用に唐紙を開けて入って来る宗次郎の足があった。そこから視線を上へとずらしてみれば、両の手には湯呑みが握られていた。

「放っておいて。あと、いくらなんでもそれは行儀が悪すぎるんじゃないの」

「両手が塞がってるんだから、かてぇこと言うなよ。それに、おまえの今の格好も行儀がいいとは言えねぇだろ」

 お鈴はその言葉にぷいと外方そっぽを向いた。確かにその通りではあるのだが、宗次郎に指摘されるのは面白くないのである。

 宗次郎は苦笑しながら縁側へ腰掛けた。二人の間に置いた湯呑みには甘酒が注がれている。

 匂いに釣られたのか、獣が目を開けて頭を上げた。それに気付いた宗次郎は「わりぃな、おめぇの分は用意してねぇんだ」と告げる。すると獣は宗次郎をひと睨みして、また目を閉じて伏した。

「こいつは驚いた。俺の言ってることがわかるのか――ならおめぇ話せたりもしないもんかねぇ?」

 笑いながらそう言う宗次郎の言葉に、今度はお鈴が驚いた。思わず宗次郎の顔をそのままじっと見てしまった。

「なんて顔してんだよ。ただの冗談じゃねぇか」

 お鈴の態度に宗次郎は面食らった顔をして見返してきた。それを見てお鈴は一瞬しまったという顔をしたが、ごまかすように宗次郎が持ってきた湯呑みを手に取ると、また外方を向いて甘酒をちびりと飲んだ。

 宗次郎は訝る顔はしたが、それ以上触れることはせず自分の湯呑みに手をつけた。お鈴はそれにほっとして、また甘酒を口に含んだ。


「なぁ、お鈴」

 湯呑みが空になり元に置いた時、宗次郎がお鈴に声を掛けてきた。

「どうしたらいいってのは……善吉のことか?」

 お鈴の体が一瞬で強張る。

「なん……」

「おまえは本当にわかりやすいなぁ」

 宗次郎は薄く苦笑を浮かべると、真剣な顔でお鈴の方へ向き直った。

「善吉が伝馬町の牢屋敷に入ってるのは知ってるな?」

 お鈴は視線を庭へ移すと、小さく頷く。数日前、改めて話を聞きに来た御用聞きの親分が教えてくれたのだ。

「あいつ……大番屋で何も話さなかったんだよ。ただただ申し訳ねぇって言うばっかりでな」

 お鈴はもう一度小さく頷いた。それも親分から聞いていた。だからもう少し詳しく思い出せないか、善吉があのようなことをしでかす兆しはなかったかと尋ねられたのだ。

「おまえは、善吉はどうなっちまうのかって親分に聞いたよな。心配そうに。なんでだ? こう言っちゃなんだが、自分を傷つけようとした奴だぞ。なんで心配する?」

 今度は頷かなかった。そして宗次郎の問いに口を開くこともしなかった。

 そんなお鈴の態度に宗次郎は小さくため息を漏らす。

「なぁ――おまえも、善吉も、一体何を隠してる? そもそも、善吉はあんなことしでかせる性質たちじゃねぇだろ」

 宗次郎の声には困惑の色がにじみ出ていた。

 お鈴も宗次郎も、善吉とは何度も会っているし、言葉も交わしている。非常に優しい、穏やかな男で、いつも喧嘩っ早い職人仲間を止める側だった。間違っても、自分から人を傷つけるような真似をする男ではなかった。

「あたしは…………」

 まっすぐに見つめてくる宗次郎に対し、お鈴は揺れていた。

宗次郎が、親分が、善吉を知る者が、今回の一件をと思っていることは知っていた。お鈴一人が何を考えたところでどうにもならないのもわかっていた。

 だが誰に、どう話していいのかがわからないのだ。わからないから何も話せないままでいる。

 ――どんな話でも宗次郎は信じてくれるだろうか?

 お鈴はやっと宗次郎へと視線を向けた。宗次郎はじっと、お鈴の二の句が継がれるのを待っていた。

 覚悟を決めるように、お鈴は一つ息を吸い込んだ。

「いい加減、間怠まだるこしくてかなわん」

 沈黙を破ったのは予想もしていない声だった。

 お鈴のものでも、宗次郎のものでもない、少し低めの男の声は二人の足下から聞こえた。そこにいるのは、先ほど甘酒が飲めず腹を立てた獣だけである。

「なんだ、やはり兄妹というのは驚く様も似るのだな」

 驚いた理由は異なるが、二人とも金縛りにあったかのように固まり、同じように口をポカンと開けて足元の獣を見ていた。

 獣はその二人の姿を見比べ、さも面白そうに感想を述べた。

「おまえさん……」

 先に金縛りが解けたのは宗次郎だった。

「なんだ? 話せぬのかと貴様が言ったのだろう。だから要望に答えてやったのだ」

 獣は宗次郎に向かい尊大に告げると、フンと鼻を鳴らした。

「犬の口で人の言葉ってのは出せるもんなのか?」

「宗次兄さん、そこじゃないでしょう」

 宗次郎の頓珍漢な言葉にお鈴もやっと我に返った。よほどの衝撃だったのだろう。お鈴はこれほど吃驚する兄を見るのは初めてだった。

わしは犬ではない。そもそも、人の世の生き物と同じにするな」

「いや、どう見たって犬じゃねぇか」

 犬と呼ばれることが嫌らしく、獣は不機嫌そうに宗次郎の言葉を訂正する。しかし、未だ冷静ではない宗次郎はその言葉を即座に否定した。

「狼――の姿をした妖怪なの」

 お鈴は遠慮がちに宗次郎へと補足する。しかし、発した言葉はお鈴自身、頓珍漢なことを言っているような気持ちになるものだった。

「……狼?」

 頭の言葉だけ拾い上げた宗次郎は、改めて足元に立つ獣の姿を見た。

 短い耳が頭の真上に付いており、額から鼻にかけてはほぼ平らでくぼみがない。前足は少し短いようにも見える。

 しかしこれも市中にいる犬と比べ、言われてみればの話である。今まで狼など見たことがない人間にとっては、それも犬だと言われれば納得してしまう程度の違いでしかない。

 現に宗次郎含め、この獣を見た人間は皆犬だと思っていた。

「これが狼?」

「――の姿をした妖怪」

 疑いの眼差しを向けたまま獣を指差す宗次郎へ、お鈴は再度同じ言葉を伝える。

 そして宗次郎はまた、獣をじっと見たまま動かなくなった。

 お鈴は大きなため息を吐いて足元を恨めしそうに睨んだ。

「なんで急に喋ったりしたの。これじゃ台無しじゃない」

「儂のことも話すつもりだったのであろう? 何の問題もないではないか」

「物事には順序というものがあるでしょう! もう何で急に喋るのよ」

 確かに話すつもりではいたし、話した後で喋ってもらうつもりもあった。だが、まさか先陣を切って喋られるとは思ってもいなかったのだ。

 自分の中での決意を台無しにされてしまったことに、お鈴はだんだんと腹が立ってきていた。

「なんだ、癇癪か? 面倒な奴だのぅ」

 獣はやれやれといった様子で頭を左右に振って見せる。だがその姿は余計にお鈴を腹立たせた。

「違います!」

「まぁとりあえず一旦落ち着け」

 いつの間にか動くのを再開していた宗次郎は、段々と声の大きくなるお鈴の肩を叩いて宥めた。

「これ以上大きな声を出してみろ。おきよあたりが驚いてすっ飛んで来ちまうぞ」

 そうなれば言い訳したりと面倒だろう、という言葉にお鈴は慌てて口元に手を当てる。そういえばここは家の中なのだと思い出し、宗次郎の言う通りまずは落ち着こうと深呼吸をする。

「俺は妖怪なんてのは草双紙やらの作りもんかと思ってたんだがね」

 完全に混乱から立ち直ったわけではないが、先ほどのお鈴の言葉を何とか咀嚼したらしい宗次郎は、改めて獣と対話をはじめた。

「言葉そのものはそうであろう。妖怪、物の怪、神。人は都合のいいように呼ぶが結局はどれも〈この世にあらざるもの〉だ。それらは人の目に映らぬだけで存在しておる」

「妖怪も神様も同じ?」

「当たり前であろう。善事よごとをもたらすものは神、禍事まがごとをもたらすものは妖怪などと勝手に別ものにしているが、同じ行いを己らの状況によって異なるものに捉えておるだけだ」

 宗次郎は少なからず衝撃を受けた表情をしていた。そして横で聞いていたお鈴もそれは同じだった。獣を妖怪だと知ってはいたが、今までこのような話をしたことがなかったのだ。

「貴様は妖怪は信じておらんが、神は信じておったのか?」

「……いや、そういうわけじゃねぇんだが」

 宗次郎は珍しく歯切れの悪い返事を返す。しかしその肯定ともとれる返事に獣は特に嘲うこともなかった。

「なるほどな。なに、今の世はそういう手合いがおるのも仕方あるまい。事実、作りものもおるしな」

「そうなの?」

 聞き側に回ったことで少しは落ち着くことができ、また初めて聞く話にお鈴も興味を引かれていた。

「本来は人の目に映らぬ存在だ。なぜその姿を多数、しかも克明に描き出すことができる?」

 獣は今度こそ嘲い、大体豆腐なんぞ持ち歩くわけもない、と切って捨てた。

「そっか」

「まぁ、稀に儂らを映すことのできる目を持つ人間もおるがな」

 お鈴も興味で妖怪の描かれている草双紙や浮世絵をいくつか見たことがある。おどろおどろしいものから愛嬌のあるものまで、数多くの妖怪が描かれていた。それを描いている人間全てがその稀な目を持っている、というのは確かに無理がある話であった。

 そこで宗次郎の顔に疑問が浮かぶ。

「なら何で今、俺たちはおまえさんの姿を見ることができるんだ?」

 見た目はただの犬と変わらないが、獣は人の世の生き物ではないと言った。ならば見ることはできないはずである。しかし先の一件からこちら、多くの人間がこの獣の姿を認めている。

「永く存在し続けたものは力が強くなる。そうすると己の意思で、人に姿を見せることもできるようになるのだ。見ていろ」

 そう言うと獣の輪郭が霞がかったようにぼやけ始めた。それはあっという間に全体に広がり、そのまま霧散した。

 宗次郎は獣が口を開いた時ほどではないにしろ驚いていた。そして獣がいた辺りに手を伸ばしたが、何かに触れるようなことは一切なく、ただ空を切っただけだった。

「この庭に姿が見えない時は、こうやって姿を消して色々と出掛けてるんだって」

 お鈴はこれを見るのは初めてではなかった。そして普通の目しか持っていないので、今は獣の姿を見ることができない。

だが思わず姿を探して庭をぐるりと見回してしまった。

「信じてなかったわけじゃないが……いや参った。この状態でも俺たちの声は聞こえてるもんなのか?」

 その質問に答えるかのように、元いた場所にぼんやりと獣の姿が浮かんできた。そしてまたあっという間に先ほどと同じ姿を現した。

「聞こえておる。中にはわざわざ話を聞いて、臆病な人間を選んで姿を見せる数寄者すきものもおるぞ」

 そうしているうちに噂が広まり、それを絵師が妖怪として描いたものも草双紙や浮世絵の中にはある。だから全てが作りものではないということだ。

「何だってわざわざそんなこと」

「驚く様が面白いらしい。まぁただの退屈しのぎだ。この世のものとはときの長さも異なるからな」

 姿を見せることができるようなものは、それこそ人では考えられないほど昔から存在し続けているものもいる。そうなればやはり退屈はするし、人と係わってみたくなるものも出てくるというのである。

「おまえさんも退屈しのぎでここにいるのか?」

 宗次郎の眉間には皺ができていた。

 妖怪が人と係わることを退屈しのぎだと思っているならば、この獣がお鈴の件に係わっているのもまた退屈しのぎということになるからだ。

「全てではないが否定はせんよ。だが己から係わったからには見届けるのが道理であろう? だからここに留まっておる」

 獣は悪びれる様子もなく宗次郎へと答えた。その態度に宗次郎は短く息を吐いた。

「〈この世にあらざるもの〉だったか? まぁ妖怪の考えなんざ人にはわからねぇわな」

 どんな理由にせよお鈴を助けたことには変わりねぇ、と自分を納得させるように呟いた。

「それで! あの……」

 そろそろ本題に戻りそうだと、お鈴は思い切って割って入った。宗次郎と獣の眼がお鈴に向いた。

 お鈴の握られた手にはどんどん力が入り、心の臓もまた少し早くなっていた。しかし今話さなければと、もう一度決意し一つ大きく息を吸い込んだ。

「善吉さんのことだけど」

 その言葉に宗次郎の背筋が少し伸びた。獣も、尻尾をぶらりと一振りするとその場に座った。



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