およずれごと

もり

お参り

第1話

 江戸市中には表通りから裏通り、武家屋敷の中まで、とにかく多くの稲荷社が建てられている。

 長屋にある小さな祠まで含めたら、一体全体どれほどあるのかわかるものはなく、人々からは「さて伊勢屋の看板とどっちが多いのか」などと笑いの種にされるほどである。

 それほどの数なのだから、もちろん参詣する人の数も様々である。

 広い境内に立派な社が建てられたところは、すぐに名が知れて遠くからも大勢が詣でに来る。しかし小さなところはそうはいかない。なんせ数軒先にはまた別の稲荷社があるような状態なのだ。

 建てられた当初はせっせと通っていた近所の者も、「隣の稲荷様にお参りしていた棒手振ぼてふりがその後店をもったらしい」などという話を聞けば、どれ大した距離でもなし、せっかくだからご利益のありそうな方にお参りしとこうか、となる。

 小さな噂話で賑わったり、寂れたりするのだ。


 南本所二ツ目通りと三ツ目通りの間にある袋小路の突き当たりに建てられた稲荷社も、今や寂しい場所となった一つである。

 九尺二間の棟割長屋とさして変わらぬ広さに鳥居と、高さ七、八尺ほどの社があるのみ。しかし後ろに少し高い椿が植わっているせいか、社はとても窮屈そうに座している。

 この小さな稲荷社がある小路は途中で折れ曲がっているために、表通りからは全くみえない。そのため元から訪れる足はそう多くはなかったが、それでも少し前までは日に幾人かはお参りに来ていた。だが今はそれすら途絶えている。

 そんな社の前に娘が一人立っている。本所緑町に店を構える生薬屋きぐすりや福屋の娘・お鈴である。

 お鈴は社の方へ向かって一礼すると小さな境内を見回した。今日もここを訪ねている者は他にいないらしい。複雑な気持ちでまた社の方へ向き、口を開きかけた。

「お鈴」

 後ろから耳慣れた声が聞こえたため、お鈴は口を噤みゆっくりと振り返った。

 境外に福屋の次男・宗次郎がいた。少し安堵を浮かべたような顔をしていたかに見えたが、互いの目が合った時には面倒そうな顔を張り付けていた。

「稽古屋へ迎えにやった三太が、またおまえがいないって青い顔して帰ってきたぞ」

 わざと大仰にため息を吐き、お陰でまた俺が探しに出るはめになったじゃねぇか、とこぼす。

 三太は福屋へ奉公に来て二年目になる小僧だ。言いつけをきちんと守るし、覚えも悪くない。しかしどうにも気が弱くていけない。

 お鈴は三太の半べそをかく姿が頭に浮かび、胸がちくりとするのを感じた。しかし、

「お供なんていらないって何度も言ったし、帰りにここに来るのはいつものことじゃない」

 お鈴も宗次郎を真似て大仰にため息を吐いてみせた。

 そもそも、ついこないだまでは一人ででも出掛けていたのだ。前みたいに迎えなどよこさずにおいてくれれば、三太がべそをかくこともなかったはずだと、頭の内で言い訳する。

「仕方ねぇだろ、あんなことがあったばかりなんだからよ。なのに、よりによってここに来るなんざ……」

 お鈴は無意識に眉を顰めていた。

「そんなにお参りに来てえなら誰も止めやしねぇよ。あぁいや、他はわからんが、とりあえず俺は止めねぇ。だからせめて三太をつれてけ。何だって一人でここに来ようとする?」

 宗次郎の声音は本当にお鈴を案じているようなものだった。しかしお鈴はそれに素直に頷くことができないでいた。

 仕方ない――わかっている。でも……

「お鈴」

 先ほどよりも近くで聞こえた、自分を呼ぶ声にお鈴ははっとした。知らず俯いてしまっていたらしく、顔を上げるとすぐ目の前まで宗次郎が来ていた。

「とにかく帰るぞ。これ以上遅くなったら今度は俺が怒られる」

 軽く首をすくめながらそう言うと、お鈴の手首を掴み、くるりと向きを変えて歩き出す。お鈴は少しだけ社の方を見遣ったが、逆らうことはせずそのまま後に続いた。


「宗次兄さん、そろそろ腕を放して」

 小路をぬけるあたりでお鈴は宗次郎の背中に声をかけた。さすがにこのまま家まで手を引かれては恥ずかしい。

「いやいや、離しちまったらお前また迷子になるかもしれないだろ」

「また? 子供じゃあるまいし、迷子になんてなるわけないでしょ」

「いやいやいや、さっきまで迷子になってたお前のいうことは当てにならねぇよ」

「迷子になんてなってないじゃない」

 宗次郎は振り返ることなく――だが、からかいを多分に含んだ声で――答え、腕も離さないままだった。

 お鈴もこれには少しむっとして小さく抗議したが、このような往来で意地になって腕をはずそうとするほうが注視されることになるので、結局諦めてそのまま従うしかない。

 その後大した会話もなく家へと歩を進める中、先ほどの小さな怒りなどとうに引っ込んだお鈴は、手を引いて前を歩く宗次郎の姿を見ながら子供の頃のことを思い出していた。

 両親は商いで忙しく、長兄も物心つく頃にはすでに手伝いを始めていたので、自然宗次郎と過ごす時間が一番長かった。仲はよかったと思う。だが幼子特有の、些細なことでの喧嘩もよくしていた。家の者や近所の大人に叱られ、しぶしぶながら仲直りさせられる。でも四半刻しはんときもすればけろりと忘れて一緒に遊ぶ、その程度のものだ。

 そんな喧嘩も、しかし大人の仲裁がなければ大喧嘩に発展することがある。大喧嘩になっても宗次郎は絶対に手をださなかったが、その力を全て口に回しているのではないかという勢いで言い負かしにきた。三つ歳の離れたお鈴が勝てるはずもなく、仕舞いにはいつもお鈴が大号泣する結果となった。

 今では泣いた喧嘩の理由など一つも思い出せないあたり、本当に瑣末なことだったのだろう。だが、泣かされた後のことはよく覚えている。

 宗次郎はばつの悪そうな声で、ぶっきらぼうにお鈴の名を呼ぶ。しかしそんなことで火が消えるわけもなく、結局弱って家の者がいるところまでお鈴の手を引いて帰る羽目になっていた。

 その後いつも泣き疲れて寝てしまっていたが、宗次郎はこってり絞られていたらしい。それを教えてくれたのは誰だったか――

 そこでお鈴ははたと気付く。なぜこんな昔話を今思い出したのか。

 手を引かれて帰っている、というのもあるが、先ほど稲荷社で名を呼んだ宗次郎の物言いがその時とそっくりだったのだ。

 お鈴は一気に顔に熱が集まるのを感じた。

 俯いたのは泣いているせいと思われたのか。それとも本当に今にも泣き出しそうな顔をしていたのか。何にせよ十六にもなって兄の言葉で泣くなど、思われただけでも恥かしい。

 そして自分はそんなにごまかしが出来ないのかと思うとさらに顔が熱くなるのを感じた。

「そういやおまえ」

 そう言うと、宗次郎は急に手を離し振り返った。

 お鈴の心の臓は一気に跳ねた。そのまま体も跳ね上がりそうになったが、なんとかそれは堪えた。わざとやっているのではないかと疑いたくなるような絶妙な間である。

「何?」

 色が赤くなっていないことを祈りつつ、平時を装って返事をする。それを知ってか知らずか、宗次郎はなんとも憎たらしい笑みを浮かべていた。

「三太がおまえに置いてきぼり食らって帰って来たとき、べそかいてたと思っただろ?」

「何で?!」

 どきりとした。事実、お鈴はそう思っていたからだ。

「おまえのことだからなぁ。勝手にべそかいたと思い込んでるんじゃねぇかとな。ま、あいつも来たばっかの頃はよくべそかいてたから、そう思われちまっても仕方ねぇか?」

 宗次郎は自由になった手で自分の顎をなでながら、にやにやとお鈴の顔を覗いた。

「だってそれは宗次兄さんが!」

「俺は青い顔してたって言っただけだ。おまえが勝手に思い込んだだけだろ? あぁ、そうか。おまえもべそっかきだもんなぁ。自分と重ねちまったか?」

 その言葉で、今度はお鈴の体全部がかあっとなった。やはり先ほどは泣きそうに思われたのだという確信と、宗次郎の意地の悪さに、恥ずかしいやら腹立たしいやらだった。

「子供じゃないんだから! あたしは泣いたりなんかするもんですか」

 逆上のぼせたようにぼうっとして頭がうまく回らず、お鈴はそれを言うのが精一杯だった。

「そうかそうか、なら一人で帰って説教食らうのも平気なわけだな。まぁ頑張りな」

 そう言うと宗次郎はお鈴の横を通り抜け、片手を軽く挙げると元来た道へ取って返した。

「え? 宗次兄さん?!」

「一緒に帰って側杖食うのは御免なんでね。湯屋にでも寄ってから帰らぁ」

 てっきり一緒に帰るものだと思っていたお鈴は呆気に取られ、とどめる言葉も掛けられないまま宗次郎を見送った。

 宗次郎の姿が人込みに紛れると、お鈴はようやっと家へと足を向ける。思い出に現を抜かしている間に、家までもうすぐそこの距離に来ていた。しかし足取りは先ほどよりも重くなっていた。

 と思った。

 お鈴とて皆に心配を掛けたのはわかっている。だから説教されることは仕方ないと理解もしている。理解してはいるが、やはりできることなら食らいたくないと思うものだ。

 そして先の身の振り方も定まらず遊んでばかりの宗次郎は、近ごろ母に小言を言われることが多い。どうにか話をそちらへ流し、矛先を転じてしまおうと考えていたのだ。

 だが先ほどの言葉からして、そんな考えなど宗次郎には全て見通されていたということだろう。だから家に着く前にさっさと余所へ行ってしまった。

 なんで宗次郎にはこうも考えていることが筒抜けなのかと、お鈴はため息を零した。



 重い足と心で家に帰ったお鈴は、やはり堂々と入るには決まりが悪く、勝手口からそろりと中を覗いてみる。

「あれまあ! お嬢さん!!」

 早々にお鈴の姿を認め、大きな声をあげたのは女中のおきよだった。四十半ばで少しふっくらしているが、しゃきしゃき働く女だ。

「何事もなくてよかったですよ。坊ちゃんが探しに行かれたんですけど会いませんでした? あぁ、とにかくお内儀かみさんに知らせなくっちゃ」

 よく陽に焼けた顔が安堵したり慌てたりと忙しく変わる。そしてそのままこの場を離れようとしたのでお鈴は思わず声をかけた。

「あの! えっと……三太は?」

「あの子でしたら先ほど調剤場へ使いに出ましたから、そのうち戻りますよ」

 福屋は間口三間ほどのおたなだが、調剤場は裏通りの別の貸家にある。そのため三太はちょくちょく使いに出るのだ。

「それよりお嬢さんは座敷で待っててください。あたしはお内儀さんを呼んできます」

「わたしならここに。お鈴、おかえりなさい」

 おきよが早口に言い終えるのとほぼ同時に、落ち着いた声とともに店側から女が一人現れた。

「あ――ただいま戻りました」

 お鈴は母のおちかになんとかあいさつを返したが、見事なまでに尻すぼみだった。

「あらやだ、お内儀さん。もしかして表まで聞こえてましたか?」

「おきよさんの声はよく通るから。でも最初の方だけよ」

 またやってしまったと恥ずかしがるおきよに、茶目っぽく笑いながら答える。

 おきよより少し下の歳なのだが、その所作はかわいらしくみえた。意思の強そうな眉にすっと通った鼻梁は、若い頃なかなかの器量よしだったであろうことを窺わせた。

「お鈴、いつまでそこに立っているの? 話を聞きますからいらっしゃい」

 かけてきた声に怒気は含まれていなかったが、お鈴には逆にそれが怖くもあった。

「おきよさん、少し時間がかかるかもしれませんから、すみませんけどその間のことよろしく頼みますね」

 そう言い置くと、おちかは先に座敷へと入っていった。おきよは「かしこまりました」と返事をし、お鈴へ「頑張ってください」と小声で励ますと自分の仕事へと戻っていった。

 お鈴はぎくしゃくと足を清め、母の待つ座敷へとあがっていった。

 結局二人は暮れ六ツの鐘がなるまで――半刻はんとき以上座敷から出てこなかった。



 宗次郎は一人で社の前に立っていた。先ほどお鈴を迎えに来た稲荷社だ。

 お鈴を家近くまで連れ帰った後、湯屋へは行かずいくつかに顔を出してまたこの稲荷社まで戻ってきたのだ。

「一体なんでこんなとこに来るかねぇ」

 当人からは答えを得られなかった疑問が口をついて出た。

 ひと月ほど前――暑さの峠をやっと越え始めた頃、お鈴はこの稲荷社で襲われかけた。相手は福屋出入りの大工の弟子で、名を善吉と言った。

 お鈴は昔からこの稲荷社にお参りに来ており、その日も稽古帰りにここへ寄っていた。

 ちょうど居合わせた女の話では、お鈴のところへ善吉がふらふらとやってきたらしい。少し危なげな目つきに見えたので様子をみていたら、いきなりお鈴の肩に掴みかかり、何事かを大声で喚きだした。これはいけないと、慌てて表通りから男手を呼んで戻ってみれば、善吉は気絶していて、お鈴の傍には犬が一匹いたという。

 善吉は包丁を持っていたことから、そのまま番屋へと運ばれた。お鈴は知らせを受け、急いで駆けつけた宗次郎とそのまま家へと帰された。

 後日、御用聞きが改めて話を聞きに来たが、お鈴は「犬が助けてくれた」としか言わなかった。

 宗次郎はどうにも合点がてんがいかなかった。

 善吉がしでかしたこと、お鈴が狙われたこと、仔細を話さないこと、犬が助けたこと。何もかもがだと思った。

 何より、震えるほど怖い思いをしたのは間違いないのに、未だにここにお参りに来ることだ。

 あの出来事以来、縁起が悪いと町のものはこの稲荷社に来なくなった。今では「お参りすると災いがかかる」だの「妖怪に憑かれる」といった噂まで立つ始末である。

 そんな場所にわざわざ来る理由が何なのか、考えてはみるが宗次郎から答えがでるわけもなかった。

「見てたのは稲荷様とあの犬っころだけか――いっそ本当に妖怪か何かで、人の言葉を話せりゃいいのになぁ」

 お鈴を助けた犬はその後なぜか福屋へついて来て、今では庭に住み着いている。試しに今度話しかけてみるか? と詮無いことを考えていると暮れ六ツの鐘の音が聞こえてきた。

「稲荷様もとんだ災難だ。いや、うちのもののせいですまねぇな」

 宗次郎は社へ向かってそう言うと手を合わせた。

 その時、何かが宗次郎の膝あたりを撫でた気がした。風が通り抜けたのとも少し違う。しかし足元を見ても犬猫がいるわけでもなかった。

「なんでぇ、稲荷様か?」

 冗談めかして軽く笑うと、やはり風が通ったんだろうと思い、宗次郎は今度こそ湯屋へ行くために稲荷社を後にした。




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