2-1

 欠伸を噛み殺したタクシードライバーが、アクセルをブレーキに踏み変える。滑らかに減速した車は横断歩道の手前で停止して、ハンドルに体重を預けたドライバーが信号機を仰ぎ見る。点灯していた赤のランプに上向きの青い矢印が加わって、一拍の後に再発進したタクシーは交差点を直進した。

 青矢印が消え、代わりに黄色の警告ランプを点灯させた信号。それが、昨夜と比べて0・5度ほど右に傾いていることを、見上げるドライバーたちは気付いていない。けれどポールの根元部分に微かに残る霊素痕を、乳母車を押して散歩する弥嶽庵美は見逃さなかった。


「ここだな」


 和服の首元に巻いていたストールが、端的に告げる。


「ええ――チョコ、お願いします」


 乳母車の上で日に当たっていた焦げ茶色の毛玉が、ナー、と小さく一声鳴いた。

 チョコと名付けられているその仔猫は、肢体を乳母車から躍らせる。彼の気配を見失った乳母車の主がヴウゥと不満げな声を上げ、庵美とタンを慌てさせた。.

 信号機の根元に駆け寄ったチョコは、そこで爪を砥ぐように前足を振るう。そのまま顔を捏ね回し、上を見上げて欠伸して、辺りをうろうろ歩いたところで思い出したかのようにウニーと鳴き――一転、泣きかけの宣を抱き上げている庵美の足元へと駆ける。チョコを確認した宣は途端に笑顔を取り戻し、彼をあやすべく苦戦していた庵美は溜息を付いた。


 魔導に身を置く庵美の周囲には、彼女が生み出した幻獣が常に侍っている。信号機周りの残留霊素情報を収集させたチョコもその一体で、モフモフの仔猫姿も本性を隠す擬態である。子育ての場として当初は懸念もされていたその環境に、しかし宣は完全に順応――どころか今では、近くに幻獣の気配がないとグズりだす始末である。幻獣が自身を守護する存在だと解している聡明さ(※親バカ的見解)を喜んでもいる庵美だが、こうもあからさまに振舞われると母親としての至らなさを指摘されているようで、


「少し、落ち込みます」


 基本的に無口なタンはこんな時も何も言ってくれなくて、庵美は右手中指で八つ当たり気味にチョコを小突く。その指を甘噛みしたチョコが庵身に伝えた情報――昨夜顕在化した憑獣が調伏されたこの場所に残されていた残留霊素は、今日既に調べた二箇所と同様のものだった。


 顕在化した瞬間の憑獣に叩き付けられた、高度圧縮霊素。物質化して砕けた一部の残留痕が、どの現場でも残されている。術式にも呪法にも拠らない、単純な力の行使。果たして魔法と呼べるのかすらも怪しいその攻撃法に、庵美は心当たりがある。


「やはり、ミズホなのでしょうか」

「違うと思いたいのか?」


 無自覚な思いを言い当てられた庵美は言葉を詰まらせて、


「……いいえ」


 そんな己を否定するようにはっきり首を横に振った。


 昨夜武蔵ヶ原で顕在化した憑獣は計九体。そのうち一体は庵美と霧絵たちが、三体は警魔庁の捜査員が調伏している。そして残る五体の憑獣を、顕在化したとほぼ同時に調伏したのが誰なのかは、今もって不明のまま――ただ調伏が行われたと思われる現場三地点いずれもで、霊素が高度圧縮された痕を庵美は確認している。

 おそらく残りの二地点でも、同様の痕跡は見つかるだろう。そしてだから、五体の憑獣を調伏したのはミズホに間違いないのだと、既に庵美は確信している。だって、あのミズホなのだ。真っ直ぐ健気で、思い詰めやすくて泣き虫で、なのに芯は自分やキーリだって絶対叶わないくらい堅い。そんな彼女の本質が一九年という歳月なんかで変わるとは思えないし、変わっていない彼女がこの武蔵ヶ原に居たならば、昨夜の騒ぎで何もせず手をこまねいているはずがない。だから誰が行ったのか分かっていない憑獣の調伏は、彼女によって行われたもので――ただ問題は、どうして彼女が行えたのかという点だ。

 五体の憑獣の調伏は、いずれも顕在化した直後に実行されている。つまり憑獣の位置を顕在化する前に察知していたことになるが、そのような感知系呪術はミズホの領分から外れている。自分やキーリと異なって呪術界に深入りしていない彼女が、新たに術を開発したという可能性も低い。同じ理由で、助力を受けられる友好的な呪術者の知り合いも――いいえ、いないことはないのですね、と庵美は考える。


 一九年前の事件の、友人たち。その親交を、ミズホなら保ち続けていても何ら不思議はありません。ただ卑怯者の私が、あの失敗を責められるのが怖くて背を向けただけで。そんな私だからこそ、今もミズホが無関係であればと――彼女と向き合わずに済めばいいと、無意識のうちに願っていた。


「自虐しすぎだ」


 庵美の思考を見通したように、タンが言う。


「大丈夫です――『神降ろし』の時のような醜態はもう晒しません」


 彼に応じた庵美の声は、けれど影の無いもので、


「今の私にはみのるさんも、それに宣もいますから」

「そうだったな」


 夫と息子の名前を口にした彼女に、タンも声だけで頷いた。





【神降ろし】。それは一九年前に起こった『武蔵ヶ原の十三夜』で、庵美が最後に行使した支援術式だ。土地の護りを司る鎮守神に願い奉り、その力を支援対象に降臨させて振るわせる。明らかに魔導の領域へ踏み入れているその効果は、成りたて魔法少女が行使できるレベルを完全に超えている。だから、だろう。そのとき彼女の支援を受けた久間瑞穂と武田霧子は、暴走した霊力炉を完全に圧倒した。


「すごい! 凄い凄い! スゴイスゴイスゴイ!」

「っは! さっすが、こんな隠し玉があったのかよ!」


 増幅された身体制御は光が如く瑞穂の躰を駆けさせて、振るわれた拳が霊力炉の複合障壁を崩壊させる。機関銃のように連射された霧子の光弾は、露出された霊力炉本体へと突き刺さる。呪詛に満ちた咆哮すらものともせずに、直射と曲撃を交えた射撃が炉の装甲を削り、降り注ぐその攻撃が不意に途絶えた瞬間に、雷を纏った瑞穂の蹴撃が完璧なタイミングで炸裂する。あんなにも恐ろしく、どうしようもなかった暴走霊力炉。鉄壁に思えたその装甲は熱湯に投げ入れられた氷のように解け消えて、内部に捕らわれているだろう者たちの気配すら感知される。


 出来る!

 大丈夫!

 きっと全部がうまくいく!


 瑞穂も、霧子も、そして庵美も、三人の魔法少女みんなが勝利を確信した――正にその瞬間、全ては破綻した。



 高い効果には、常に相応の危険が求められる。

 取り得る唯一の手段として庵美が選択した術式のリスクは、当時の庵美には到底制御不可能な代物だったのだ。



 とどめの一撃を放つべく、構えた瑞穂の身が跳ねる。何ごとかと振り向いた霧子にも、逆流した霊素の奔流が襲う。一瞬呆けた庵美は直ぐに表情を強張らせ、けれど彼女に出来ることはない。二人に降ろした「神」の力の暴走。手元の制御をすり抜けた力は直ぐさま奔放に暴れまわり、もうその時点で庵美には手を触れることさえ許されない。

 瑞穂が身を捩り、苦悶を漏らす。よだつような悲鳴を霧子が上げて、その全身が焦げ付かされる。なのに庵美は、暴走をもたらした本人は、ただ二人を見ているしかない。泣け叫ぶしかできなくて、でもそうすることに意味などなくて、耐えられず目を閉ざし耳を塞ごうとした彼女を――救ったのは、他ならぬ霊力炉だった。

 突如暗転した世界の、何処までも続く深淵。墜ちているのか昇っているのかすら分からぬまま、永遠に等しい刹那の間に晒されて、庵美は己が霊力炉に捕らわれたのだと理解する。途端に襲う、辛酸・苦痛。ありとあらゆる負の感覚を、錆びた釘で脳の表面に直接削り描かれるような懊悩は――けれど庵美には、むしろ心地良く感じられた。

 だって、そこには彼女一人しかいなかったから。自分のミスのせいで苦しむ瑞穂や霧子の姿を、目にしないでいられたから。だからもうこのままでいいと、霊力炉に全てを委ねようとした庵美の最後の記憶は、


《まーったく。イオ! なにやっとんだ!》


 自分のことを怒鳴り付ける、町村剛平太の呆れ声で終わっている。


 次に庵美が目を覚ました時、全ては既に終わっていて、警魔庁に保護された彼女は病院に運び込まれていた。その後の警魔庁の捜査によると、庵身が聞いたのは空耳ではなく本物の剛平太の想いだったらしい。霊力炉を封印しようとして逆に炉へ封じられていた彼は、けれど瑞穂と霧子の攻撃による混乱に乗じて炉の制御権を一時的に奪取。取り込まれようとしていた庵美たちを最後の力で解放した後、自身諸共で霊力炉を武蔵ヶ原に封印したのだという。

 同級三人の魔法少女の中では最も呪術に理解が深かった庵美は、警魔庁の言う『霊力炉の封印』が何なのかもすぐに理解した。炉は一時的に機能停止しているだけで、その中には剛平太をはじめとする多くの人々が封じられている。それを知って、彼等を救わなければと勇み立って――結果庵美は、更に色々な人たちに迷惑を掛けた。

 廃人のように研究へのめり込んで体を壊したこともあれば、非人道的な手段に傾倒しかけたこともある。母である弥嶽庵里や夫の稔、増幅器のタンにも心痛を振り撒いた。研究の副産物として幻獣が幾体も生み出され、いつの間にか『武蔵ヶ原の魔女』なんて名前で呼ばれるようになっていて、でも本当の意味で庵美が落ち付けたのはほんの二年くらい前……宣を妊娠していることが発覚するのに前後した、稔さんとの壮絶な夫婦喧嘩を経てからだ。

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