5-2
「お前の子か?」
乳母車から挙がった泣き声に、ブルはさして驚いたふうも見せず言う。平然としたその声は、弥嶽庵美の胸を郷愁で揺らした。
「はい、
弥嶽庵美の返答を、首にかけたストール――含思型魔力増幅器、タンが補足。庵美は泣き止まない赤ん坊を乳母車から抱え出してあやす。
「夜泣きがなかなか収まらなくて……癪の虫にでも憑かれたのでしょうか?」
自信なさげな声で言う。もちろんこの子が何かに憑かれたのなら、魔導に携わる自分が真っ先に気付くだろうことくらい分かっている。だが武蔵ヶ原の魔女と呼ばれ幾多の幻獣を造り出した彼女でも、初めて経験する『子育て』には不安を覚えずにいられなかった。
泣き止まない宣を抱えてあやし続ける庵美だが、やがて小さく肩をすぼめ、
「ココア、お願いします」
影と結び付けて使役する蜘蛛に似た幻獣に声を掛ける。生理的なおぞましさすら喚起させる姿に霧絵と美那がしり込みを見せるが、逆に宣は幻獣に向けて手を伸ばした。
「なぜか、この子には懐くのです」
困惑の混じった庵美の言葉通り、すっかり泣き止んだ宣はキャッキャと笑い声を上げている。
「情緒教育的に、どうなのかとも思うのですが」
「そんなに心配することでもねえさ。ガラガラの替わりに俺を丸めて振り回してたような赤ん坊も、今じゃそれなりに育ってるしな」
「ち、ちょっとブル!」
自身の記憶にすらない過去を暴かれた霧絵が、顔を赤くして悲鳴を挙げる。むうっと頬を膨らませて被っていたブルを右手で掴み、にらみつける彼女の様子に、庵美は頬が緩むのを感じた。
「あ、あのっ! ありがとうございます」
ようやく気を取り直した美那が、周囲を舞う管狐に支えられるようにして言う。
「それで……これは、」
「私の幻獣です。戦闘用に作成したものなので見た目はちょっと怖いですけど、命じない限り乱暴はしないし慣れればちゃんと可愛いですよ」
赤い袴を握ったままで問う美那のいじらし気な様子に、何故か悪戯心を誘われた庵美は何気ない口調で言う。
「触ってみます?」
キチキチキチと、軽自動車ほどもある蜘蛛の脚が差し伸ばされる。瞬時に警戒態勢を取ろうとした管狐たちを、けれども美那は視線で抑えて及び腰ながら右手を伸ばす。
「……あなたも、ありがとう」
体毛が立ち並ぶ節足を、ぎこちない手つきで撫でて言う。本当に触られるとは思っていなかった庵美は丸くした瞳を泳がせて、それに気付いた霧絵が自慢するように胸を張った。
庵美の悪戯の目論見を打ち破った美那を誇って、フンッと小さく鼻を鳴らす霧絵。仲間を大切にするその様子は本当に「彼女」そっくりで、まるで十九年前に戻ったようだと放心しかける庵美を、
「おーい、どうしたい?」
全て見通した様子で、ブルが今へと引き戻す。
「いいえ、何でも。それよりブルさん、あなたまで動いているなんて――今の武蔵ヶ原は何が起きているんですか」
瞬時に表情を引き締めて、話を切り替える。ともすれば冷たい印象すら与えかねないその態度は、庵美に付けられていたかつての綽名をブルに思い出させた。
「美浜小のクールビューティー、か」
「何か?」
「いいや、何でも。ああ、俺たちが把握している事の初めは美那の学校の召喚事故で……」
「あ、それでしたら私が説明します」
誤魔化すブルを、蜘蛛の幻獣を撫でる手を退かせた美那が引き継ぐ。オカルト好きのクラスメイトが憑獣の元となる「ナニカ」を呼びだしてしまった、という彼女の話に、けれど庵美は首を傾げた。
「不審点、其之一」
「先ほどの憑獣はそれなりの敏捷性もあり、なにより『分裂』の術式を用いていました」
「其之二」
「今朝私のところに警魔庁の職員がいらっしゃったのですが、その方のお話と今の憑獣を統合すると、発生している顕在化には量産効果が考慮されているようです」
庵美とタンが口にした内容、それはどちらも呪術現象の複雑さを示すものだ。
「そのような憑獣が、オカルトマニアなんて呪術的な『素人』が『偶然』起こした召喚事故で顕在化するとは思えません」
「そりゃつまり、美那が嘘を付いてるってことか?」
そんな馬鹿な、と声を荒げようとするブルを左右に揺さぶって、霧絵が首を横に振る。
「じゃなくって。庵美さんが言いたいのは、『憑獣はミナ姉のクラスメイトが偶然召喚した』って思わせようとしようとしている別の誰かがいるんじゃないかってこと――なんじゃ」
「はい」
頷く庵美。大抵を感覚で乗り切っていた母親とは異なる霧絵の聡明さに、微かに戸惑いつつ続ける。
「それに美那さんのお話では、召喚された数は十三体。そのうちこれが七体目の顕現体ということですが――」
「不審点、其之三」
「今夜武蔵ヶ原では、此処の他に八体の憑獣が顕在化しました」
「八体も………………って、ぇ?」
七と八の和である十五は、十三よりも二つ大きい。ゆえにありえないはずの事態に、霧絵と美那の表情が固まった。
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