5-1

「どうした、もうバテたのか?」

「ま、まだまだ、ぜんぜん平気!」


 ブルの問いに、霧絵が応じる。とはいえそれが強がりであることは、両者とも理解していた。

 東原公園の林を舞台にした三対一の追い駆けっこは、既に五分以上続いている。肩で息をするようになっている霧絵に対し、憑獣の動作に変化はない。それ以上に気になるのは、精神面における疲労。木々を縫っての空中機動は、確実に霧絵の神経をすり減らしているはずだった。

 枝を蹴って後退する霧絵を、狒々型憑獣三体が追撃――ブルの操作する無数の光弾が迎え撃つ。先頭の憑獣を樹上から追い落とし、二番手の憑獣が掴もうとした枝をへし折って、しかしブルの援護もそれが限界。迫る三体目に対して霧絵は向かい合う愚を冒さず、背中を向けて距離を取る。

 霧絵を追う狒々ひひは、枝から枝へと大きく跳躍。だがそのタイミングで、飛翔機動を取る霧絵は方向を転換――晒された横腹に光球を放ち、バランスを崩した憑獣は着地に失敗して地面に落下する。切らしかけた息を整え枝に足を下そうとして、霧絵は憑獣の位置を二体までしか把握していないことに気付いた。


「下にいるぞ、跳べ!」


 ブルの声を、理解するより前に身体が動く。彼女が蹴り上げた木の枝を、すぐ下に迫っていた狒々の爪が無残に抉る。危うくかわした霧絵だが、飛翔した先にある針葉樹の細枝と衝突、崩れたバランスを立て直す間に別の憑獣が接近し、


『グギャ!』


 霧絵に跳びかかろうとした体勢のまま吹き飛んだ。


「コギヌエか!」

『ケンッ』


 憑獣を吹き飛ばした人魂のような光が、ブルに纏わり嬉しそうに啼く。ぎぬ――霧絵の近所の神社の娘、柿崎美那が飼う管狐のうちでももっとも聡明な一匹である。それがここに現れたということは、


「準備できたんだ!」「ふぅ、ようやくか」


 霧絵が笑顔を、ブルが安堵をそれぞれ浮かべ、同じく態勢を整えた憑獣たちと向かい合う。

 一拍の対峙の後、初めに動いたのはブル。形成した光弾を放つが、三方向に分散したそれを狒々たちは容易に掻き消す。勢いそのままに霧絵へと殺到しようとした憑獣だが、その前に飛翔状態へと移行していた霧絵は彼等の間をすり抜ける。唸り声とともに方向を転換した憑獣たちは、霧絵の後を追いかけて――林の外、公園に隣接する車両置場へと跳び出した先頭の一体が突如弾けた。


うるしろう、次弾を」

『コン!』


 響き渡った声の主は、巫女服姿の柿崎美那とその管狐。廃棄車両の陰に立つ彼女たちの足元には、複雑な魔術陣が記されている。

 陣が淡く発光し、その光が管狐、漆朗へと集ってゆく。霊素脈を操作して、その力を管狐へと注いでいるのだ。強化された漆朗によって放たれる狐火の威力は、霧絵の光弾など比較にさえならない。再び放たれたそれは、二番目の憑獣をあっけなく貫き弾けさせた。


「もう一発、これで最後です!」

『コ、ケコン!』


 咳き込むような漆朗の返事、それでも最後の憑獣に対する狐火は放たれる。同時に魔術陣の発光が失せ、へたり込んだ美那の膝の上に漆朗もフワリと落下する。霊素脈との直結は効果こそ大きいものの、術式形成に時間は掛かるし持続可能時間も極めて短い。

「あっ!」

 悲鳴にも似た霧絵の声。同時に、美那の顔も歪む。身を翻した最後の憑獣を追って放たれた狐火は、左腕を僅かに掠めるだけで躱される。


「無理だ、キリエ」


 慌てて後を追おうとする霧絵を、ブルが止める。強化術式の効果が切れた美那は無論のこと、長時間憑獣と対峙していた霧絵にも追撃を行う余裕はない。とはいえここで憑獣を逃がせば、街に被害が生じてしまう。車両置場から離脱しようとする憑獣をせめて小衣江に追尾させようとして――美那は、空気が歪むという感覚を理解した。

 その異常を感じたのは、美那だけではなかった。ブルの声を無視しようとしていた霧絵も立ち止まり、何よりこの場から去るはずだった憑獣までが動きを止めている。三者の視線の交差地点に、いつの間にか立っている女性。着物姿で乳母車を押す彼女は圧倒的存在感を持ちながら、何故今まで気付けなかったのかという疑問を抱くことすら許さない。


「おいでなさい、ココア」


 鈴のような彼女の声で、彼女の影が盛り上がる。キシキシキシという音を立て、影は異形を型造る。その姿は、硬い外皮を持つ褐色の蜘蛛。体節から伸びる八の付属肢の一本が無造作に振るわれて、硬直したままの憑獣を貫き地へと縫い止めた。

動きの取れない憑獣を、化け物が引き裂き、切り刻む。それは戦闘というよりも捕食行為。細切れにされた憑獣を、貪り喰らう化け物の口器――ボリ、グチャ、ベチョリという咀嚼音が、次は自分たちの番なのだという事実を二人の脳裏に否応なく刻む。

 霧絵さんだけでも、ミナ姉だけでも、逃がさなければとの思考が浮かぶ。だが恐怖で竦んだ足は動かず、理性は早くも諦めを示す。

 女性の視線が憑獣から霧絵と美那のほうへと移り、いよいよという覚悟とともにきつく目を閉じた二人に、


「お久しぶりですね、ブルさん」


 掛けられたのは、何か懐かしむような親しげな声だった。


「ああ、あの夜以来だから――二十年ぶりか?」

「否、十九年」


 同様の気安さで応じるブル。それに訂正を入れた声は、女性の含思型魔力増幅器だろうか。


「えっと……知り合いなの?」

「昔のな」


 恐る恐る頭上へ問う霧絵に、ブルはあっさり頷いた。


「コイツは町村霧絵。こっちの巫女見習いは柿崎美那だ」

「弥嶽庵美といいます。ブルさんには以前大変お世話になりまして」

「タンだ」


 挨拶を交わす彼女たちに、虚脱から我に返った美那は慌てて立ち上がる。だが開きかけた彼女の口は、乳母車から挙がった赤ん坊の泣き声によって遮られた。

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