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「霧絵、前だ!!」


 頭に被られたキャスケット帽が怒声を上げる。声に反応した少女の、眼前に迫る歩道橋。間に合わない、と判断したブルは、高度約5mで大通りを飛行する気創闘衣のコントロールを強奪した。


「えっ、ちょっ、むぐぅ!」


 高度を下げて歩道橋をくぐる。高度から速度へと変換したエネルギーを殺さずに十字路を左折し、一転して急上昇。急な機動に悲鳴を挙げる町村霧絵の身体を、オフィスビル屋上に着地させる。


「ったく、飛行中にボケッとしてんじゃねえぞ」

「ご、ごめんなさい」


 意識して出した厳めしい声に、霧絵はしょんぼりとうなだれる。が、次の瞬間にはもう顔を挙げ、視線を駅向こうへと向ける。


「でもブル、向こうで起きた霊素濃度変化って……」

「ありゃ別の憑獣だ、今は目の前に集中してろ。

 警魔庁の連中が間抜けでなけりゃ、あっちは奴等がなんとかするさ」


 彼女の懸念を払拭しつつ、ブルは内心で苦笑する。

 クルクルと、目まぐるしく変わる表情。心の内を包み隠さず面相で表明するという行為に、彼女は少しの躊躇いも持たない。それを可能としているのは、外界への無邪気なまでの信頼――ならば自分はその信頼に、応えて見せなければならない。

 いずれ社会へ適応する過程で失われるにしろ、彼女の持つ純粋さは今はまだ守られるべきであるはずだから。


「さぁ、連中が追いついてきたぜ」


 不敵を装うブルの声に応じるように、人気の無いビルの周囲に複数の唸り声が響きだす。続いて闇から姿を現す、三体のテナガザル――二mほどの体躯と長い四肢、鋭い爪を持ったそれらは、今夜顕在化した憑獣が分裂したものだ。

 リーダー格と思しき一体が、短く鋭い吼え声を挙げる。残りの二体が鋭い爪で、ビルに取り付き攀じ登る。


「引っ掻き回して時間を稼ぐ。いいな?」

「うん!」


 屋上の縁に足を掛けた霧絵はしっかり頷いて、大きく一つ息を吸ってから階下に身を躍らせる。

 ビルの三階部に取り付いた狒々型の憑獣に、両手に握った銃型創具を向ける。彼女の魔力を増幅し、ブルは光弾の形成を補助。創具に装填されたそれが、真下の憑獣へと放たれる。

 純粋な霊的エネルギーである光弾の射出魔法は、呪術における基礎中の基礎。霊素反応式の単純さに相応して威力も高いとはいえないが、それを数で補うのが霧絵とブルのやり方だ。

 右手の鋭爪で一射目を切り払った憑獣に、二射・三射・四射目が襲う。耐え切れずビルから落下した憑獣には目もくれず、霧絵は落下する身体を水平飛行に移行させる。


「気ィ抜くなよ!」


 ブルの注意に頷いて、高度を下げた霧絵は車道を舐めるように飛ぶ。背後には、二体の憑獣――一体は真っ直ぐに車道を駆け、もう一体が電柱や街路樹の上を跳躍する。

 再び創具に魔力が込められ、誘導型の光弾が形成される。その展開を補助しつつ、ブルは霧絵の機動制御に気を配る。身に纏っている気創闘衣は憑獣の攻撃にこそ防御力を持つが、時速六〇キロで飛行しながら電柱と衝突した場合には何の役にも立ちはしない。高等技術である対物障壁を習得していない霧絵にとって、障害物の多い街中はただ飛ぶだけで危険が満載なのだ。

 車道を駆ける憑獣を取り囲むように、霧絵は光弾を展開。八方から敵を襲う光弾の誘導に集中力を削がれてか、姿勢を僅かに取り崩す。同時にもう一方の憑獣が、電柱から跳躍・襲撃。反射的に身を捻った霧絵の、すぐ脇を掠める憑獣の爪。息を呑んだ霧絵の動揺は、無理な機動で崩していた肢体のバランスを更に損ねる。

 空中を翔る身体が傾き、大きく左へと拠れる。目の前に、迫った街路樹。バレルを打って強引にかわすが、引き換えに失ったのは身体制御と飛翔速度。失速に陥りかけた霧絵を、ブルが魔力を浮力に変換して支え――右側車線に飛び出していた二人を、正面から迫るトラックのヘッドライトが照らし出した。

 警音器が鳴り響き、続いてブレーキが悲鳴を挙げる。だが制限速度+二十キロで走行してくるトラックは、そう簡単に止まれない。フロントガラス越しのドライバー席に、幽霊に遭遇したように青褪めた禿頭が見える。左右どちらにも、避けている余裕は無い。ブルの魔力で体を支え、左手を前に伸ばした霧絵は、トラック上部に着いた手の平から光弾を射出した。

 ガゴン、という鈍い音とともに、光弾がトラックをへこませる。その反動は霧絵を持ち上げ、前方へと放り出す。

 廻る世界――ブルと霧絵の視線の中で、道路が、憑獣が、街路樹が、そして夜空が回転する。上昇しつつの前方宙返りでトラックをかわした二人は、空中で態勢を整えて街灯の上に着地した。

 後方から、二度の衝突音。そちらに視線を向けてみれば、憑獣を撥ねたトラックがそのまま電柱に衝突している。


「あのトラック、危ねぇだろうが!」

「この場合、悪いのは右側車線を走行してた私たちじゃない?」

「い、いや。俺たちは『走行』してたんじゃねぇし、それに向こうもスピードは出しすぎてて……」


 霧絵の冷静な指摘に、ブルは言葉を濁らせる。


「大体こんな時間に、こんなとこを車が通るとは、」

「油断しちゃったね――って、それより運転手の人!」


 悲鳴に似た霧絵の言葉通り、起き上がった狒々ひひ型憑獣は車から降りたドライバーに顔を向ける。怒りに満ちた表情で跳躍体勢に入ろうとした憑獣に、霧絵は慌てて光弾を放つ。不意を打ち、顔面に直撃した光弾は大して効いたようにも見えないが、憑獣の標的をドライバーから霧絵へと変更させるには十分だった。


「わゎ、なんかすごい睨んでるよう」

「周りをよく見ろ、そいつだけじゃねえぞ」


 ブルの指摘するように、右の電柱・左の民家の屋根の上にもいつの間にか憑獣の姿。それぞれビルから突き落とし、光弾の集中射撃を喰らわせたはずなのに、効果のほどは認められない。


「囲まれる?」

「そう思うんなら、さっさと動け!」

「う、うん!」


 ブルの指示に従って、霧絵は反転、離脱を計る。敵意を剥き出しにした三体の憑獣が、その後を追いかける。


「今のトラック事故で人が集まってくるはずだ。とりあえず、ここを離れるぞ」


 ブルの言葉に頷く霧絵。だが道路を真っ直ぐに進む彼女との距離を、憑獣たちは徐々に詰める。純粋な速さ比べならば霧絵に分があるはずだが、現在彼女が発揮する速度は先ほどまでのせいぜい六割。トラックと接触しかけた恐怖が無意識にブレーキを踏ませている、そのことに気付いたブルは素早く方針を転換する。


「次の交差点を右だ、車輛置場の方に行くぞ」

「え、でもまだミナ姉は……」


 ブルの指示に疑問を呈しつつ、霧絵は交差点手前で僅かに減速、右に大きく傾けた身体を横滑りさせつつ角を曲がり切る。体勢を立て直すとすぐに、見えてくる雑木林。


「手前の公園で足止めする。あそこなら車や一般人の心配をする必要はねえ。美那のことを気付かれる危険はあるが、要は連中を奥の車輛置場まで行かせなきゃいいことだ」

「分かった――ありがと」


 ブルの意図を理解した霧絵はその顔を綻ばせ、武蔵ヶ原駅・車輛置場に隣接する東原公園に侵入する。途中で開発が中止された工業団地の予定地であったそこは、『緑を守る』という名目のもと、雑多な木々が茂るに任せたまま放置されている。


「分担を変更するぞ。障壁展開と光弾の操作は俺がやる、お前は身体制御に専念しろ」

「うん!」


 霧絵の首肯と同時に、気創闘衣は権限設定を変更。光弾の操作を手放した彼女は、目前に迫る雑木林にむしろ速度を上昇させつつ突き進む。ブルが放った光弾をかわし、あるいは払い除け、憑獣たちもそれに続く。

 林に侵入した憑獣たちは、即座に散開。狒々を模っているだけあり、その動作は街中で見せたものより遥かに巧み。幹を攀じ登り、枝から枝へと跳び移り、相手を囲みこむように追い詰めて――しかし霧絵はその包囲をかいくぐる。木々枝々を障害ではなく足場とするのは、彼女も同じ。くぐると思わせた枝に手をかけ、左右の幹を蹴りつけて、ほとんどスピードを殺さぬまま飛翔の進路を強引に変える。かと思えば空中での、反転・停止・増減速……足場を必要としない飛翔ゆえの機動で、三対一という数の差を補う。

 林の中という相手のフィールドで、憑獣と互角に渡り合う霧絵。飛翔技能の才だけなら、彼女は母をも上回るのではないかとブルは考える。まだまだ未熟なところも多く、特に集中力には難があるが、この年齢ならむしろ当然。今後の成長を楽しみに思いつつ、ブルは光弾を創り出す。

 自分たちの目的は時間稼ぎ、ゆえに威力は必要ない。第一に重視すべきは数だというブルの思考を反映し、林の中に灯りが点る。豆電球ほどの小さな光が無数に光り輝いて、木々を飾りつけ、照らし出す。その光源、五十近い光弾の一つ一つを掌握したブルは、昼間のように明るくなった林の中を奔らせる。

 枝葉の隙間をすり抜け、幹の合間をかいくぐり、光弾は林を疾走。霧絵を見上げた憑獣が晒す喉元に殺到し、あるいは木々を移動しようとする憑獣の進路を立ち塞ぐ。一発の威力は無視してもかまわない程度のものでしかないが、ブルが重視しているのはダメージよりも精神的効果。一方的に打撃を与えているという展開が、霧絵に余裕と落ち着きをもたらす。逆に劣位を印象付けられた憑獣の行動は防戦に傾き、ついには一体がきびすを返して車輛置場へと離脱を計る。


「マズッた!」「させない!!」


 珍しく焦りをあらわしたブルの声を霧絵が打ち消す。右旋回に入りかけていた彼女は、松の枝に左腕を掛けて無理やりに飛翔軌道を変更。最低限の回避行動で最短距離を急加速、意図を理解したブルが避けきれない枝を光弾で排除する。

 憑獣の前に回りこみ、ブルが無誘導の光弾を射出。威力はあるが直線でしか進めない攻撃を、跳び避けた憑獣の、眼前に躍り出た霧絵はその鼻先を蹴り飛ばす。


「こっから先は、行かせない!」


 大見得を切った霧絵に気圧されるようにして、三体の憑獣はジリリと後退。完全に波に乗った彼女の予想以上の勇ましさに、本来の相棒を連想したブルがクヵヵと忍び笑いを漏らした。

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