Ⅲ.2017年11月15日 夜

1

「難しい子だからねぇ、瑞っちは」


 汐瑠間理絵が、苦笑を漏らす。場所は廃ビルと思しき建物の地下、薄汚れた階段を下った先にある倉庫を改装したバーだ。

コンクリートが剥き出しの、粗雑な内装。BGMの代わりに響く、グラスと氷の触れ合う音。それに耳を傾ける、厳つい風貌の男たち。はじめて訪れた店の雰囲気に戸惑っていた実島宏美は、しかし上司の言葉に思わず反応して振り向いた。


「子、ですか? ミズさんが」

「もちろん。私から見ればあなたもレイジも、所員はみーんな子供みたいなもの――あ、雄さんは除く」


 きっぱり言い切った後で付け加えられた一言に、宏美と琴樹奈織が小さく噴出す。夏端怜次は相も変わらぬ冷ややかな態度で、むしろ彼女の父親よりも高齢である田込雄二が浮かべたのは憮然とした表情。嗄れた笑い声を漏らす、というもっとも顕著な反応を示したのは、奥のテーブル席でグラスを傾けていた四十過ぎの男だった。



 苅野郁人から言付けを受けた久間瑞穂が半休を取得した後、汐瑠間理絵は所長権限で本日業務を終了させた。調査方針の変更とサブリーダー交代によって生じたチームのしこりを、早急に解消すべきと判断したためだ。残っていた全員を誘って繰り出した昼食は、当然のように呑み会へ移行。各人の愚痴や本音をうまい具合に聞き出して、午後十一時を回った現在はその四次会だ。酔い潰れた光澤こよりと介抱役の光澤こよみ、この店を見て逃げ出した苅野郁人が脱落し、残った五人――汐瑠間理絵、夏端怜次、実島宏美、琴樹奈織、田込雄二――がその順番でバーのカウンター席に掛けている。



「失礼。ですが、鬼巡査長殿も形無しですね」


 テーブル席の男が穏和そうな相貌を持ち上げて、からかうような口調で言う。そのハスキーな低音を田込は完全に無視するが、彼の態度に気付かぬふりして理絵は男へと顔を向ける。


「お知り合いですか?」

「ええ、商売敵でした」


 男もイスから立ち上げり、胸ポケットから取り出した名刺を理絵に差し出す。それを自らの名刺と交換した理絵は、記されている肩書きに首を傾げた。


「一桟会会長、くらきく……一桟会というと、」

「関東にシマを持つ、柴佳組の二次組織だ」


 店の一部と化したかのように無言でグラスを拭いていたバーのマスターが、ボソリと小声で口添えする。


「甲栢組の若いのが同席しているってことは、手打ち式は上手くいったのか」


 え、それって今日終結したっていう抗争の? 酔いによる聞き違えかと疑う宏美だが、よく見ればマスター自身の左手も小指と薬指は金属性の擬い物。薄暗い店ゆえ目立たないが、右頬にも深い刃傷がある。


「……ここって、どういうお店なんですか?」

「甲栢組若頭がマスターを勤める、武蔵ヶ原近辺に縄張りを持つ組の幹部の懇親場所――要は屑どもの巣だ」


 こわごわ発した質問を田込にあっさり答えられ、思わず宏美は息を呑む。背後のテーブル席に座した男達の、威圧するような迫力が持つ意味を理解する。


「元・若頭だ。今はもう堅気だぜ」

「表向きだけだろうが。代紋を返したと思いきや、こんな店始めやがって……」


 忌々しげな田込の悪態を平然と受け流し、丁寧に拭いたグラスを棚へと戻すマスター。確かにその動きには、場末の酒場の主というだけでは説明のつかない凄みがある。


「なるほど、あなたが汐瑠間さんでしたか。御噂はかねがね」

「雄さんから?」

「いえ、苅野郁人から。あれとは、海外で共に仕事をしていた時期がありまして」


 実島の動揺を気にする風もなく、倉葉は理絵と会話を交わす。彼の柔らかな物腰、人の好そうな笑顔は、実島に銀行の営業マンを連想させた。


「そういえば今日は、奴は来ていないのですか?」「ええ、逃げました」

「苅野郁人だと?」


 端的過ぎる理絵の返事に倉葉は首を傾げるが、その意味を問うより前にマスターが田込に喰い掛かった。


「おい田込さん。あの野朗、今アンタのとこに居んのかよ。使えんのか、あんなチンピラ?」

「ああ、あいつは骨の髄までチンピラだからな。ヒトが自分より強いか弱いかを見極める目と、逃げ足は確かだ」

「ッチィ!」


 無意識に義指を抑えつつ舌打ちをするマスターは、郁人に何か恨みでもあるようで。姿を眩ました郁人の危機回避能力に、倉葉はなるほどと首肯する。倉葉が見せた納得の笑みに思わずつられかけた宏美は、誤魔化すように唇を自らのグラスへと寄せた。


「でも苅野さん、今日は何かに怯えているみたいでしたけど」

「ああ、たぶんあの町村っていう男に会ったせいね」


 奈織の疑問に、理絵はグラスを傾けつつ応じる。


「知っているのか?」

「知らないわよ。でも瑞っちの知り合いなら、郁人がしっぽを丸めても不思議じゃない」


 言ったでしょ、瑞っちは難しいって――はぐらかすように微笑んで、理絵は空いたグラスを置く。私とレイジに、同じものをロックのダブルで。ミッシーはおかわり、どうするの?


「あ、はい。同じものを……シングルで」


 それで難しいってどういうことですか、と話題を戻した宏美に、理絵は悪戯っぽく笑う。


「じゃあミッシーは瑞っちのこと、どう思っているの?」

「えっと、頭も回るし気遣いもできて、すごい人だなー、と」


 世辞にしてもありきたりだが、それは間違いなく実島宏美の本音。


「ほかには」

「ときどき妙に抜けてて、でもそういうところもカワイイなあ、とか」


 つい食べちゃいたくなるときがあるくらい、とはさすがに言わない。


「あとは」

「心配性だったり謙遜が過ぎたり……というよりもなんか、自分を信頼してないみたいな」

「それ、なんでだと思う」

「単なる性格――だと、思っていました」

「確かにそれもあるだろうけど、生来の気質だけにしちゃ瑞っちの卑下は行き過ぎよ。もともとの傾向を助長させた理由があると考えるのが自然じゃない?」


 つまり自分を信じられなくなるような経験が、彼女にはある。それを断ち切れず、今も引き摺っている。


「それって、この場所と関係があるんでしょうか」

「この場所って、このバーのこと?」

「いえ、この街です」

「ああ、そういやあいつの生まれは武蔵ヶ原だったか」


 倉葉との雑談に区切りを付け、田込が脇から口を挟んだ。


「大地震の後で引っ越したって言っていました」

「地震って十九年前の? なら関係ないんじゃないかしら」


 宏美の言葉に、理絵は手にしたグラスの替わりに自身の頭を傾ける。


「瑞っちって、過去に果たせなかった責任の重さに轢き潰されているように見えるのよね。でも震災当時だと、彼女まだ十歳くらいでしょ」

「そんなガキに大きな責任が課せられるとは考え難い、か。むしろ今日の思い詰めた様子からして、絡んでいる可能性が高いのは町村って男のほう……苅野の奴をビビらせたんなら、そこそこ以上には危ない男なんだろうしな」

「その人にあって全部解決、とかなってくれたらうれしいんだけどね。正直、いつまでも今のまんまでいられたんじゃ困るし」

「それって、所員として役に立たないってことですか?」


 あっけらかんとした理絵の言葉に反発を覚え、宏美は恐々ながら言う。


「今のままでも、瑞穂さんは十分有能だと思います」

「有能だから、よ」

「え?」

「あれだけ使える人間を、平の所員としてしか使わないなんてもったいないわ。

 でも、自分の価値を測れていない人間に、プロジェクトチームは任せられない」

「それは、」


 なんとなく、分かる。自分に不当な価値しか認められない者が、率いているチームを正当に評価できるとは考え難い。ゆっくりとではあるが頷いた宏美の、瞳の中を覗き込むように真っ直ぐ見つめて理絵は言う。


「つまり、瑞っちが過去に引き摺られなくなることは、会社にとっても利益なの。でもあの子、放っておくといつまででもグズグズウジウジしてそうでしょ。だから――」


 彼女のことをお願いね、とロックグラスを持ち上げられ、言葉を詰まらせた実島はコクコクと首を縦に振る。思っていたのとは裏腹に、あるいはむしろ自分以上に理絵は瑞穂を評価している。そのことは純粋な驚きとともに誇らしさも宏美にもたらした。


「でもまあ、その町村さんに再会して全部丸く収まっちゃう可能性も無いわけじゃないんだけど……そういう解決の仕方ってレイジには面白くないかしら?」


 からかいを含んだ理絵の声――新たに矛先を向けられた夏端が、音を立ててグラスを置く。先ほど受け取ったばかりであるそこには、もう丸く彫り作られた氷しか残されていない。


「それって、どういうことですか」

「分からない? じゃあミッシーは、久しぶりに会うってだけで思い詰めた顔しなきゃいけない異性って、どういう相手だと思う」


 宏美の戸惑い顔に向け、理絵は新たな謎を掛ける。思い詰めなければ、顔を合わせる覚悟さえ覚束ない男……宏美が思い浮かべた数人の顔、その中には昨日の帰り道に思い出した元恋人のものもあった。


「ああ、そういう……え、でも、それで夏端さんが面白くないって、それって、あれ、えっと、えぇぇー!?」


 思い至った推論と、そこから導き出される理絵が言ったことの意味。声を上ずらせてしまったのは、酒の回りだけが原因ではない。


「なんでぇ夏ちゃん、おめぇ瑞さん狙いだったのかよ」

「狙いとしては、悪くないと思われます。所内でも人気の高い彼女ですが、明確な立候補者は今のところ確認されていません」


 面白い玩具を見付けたと喜色を浮かべる田込、一方の奈織は普段と変わらぬ冷静な口調で煽り立てる。


「強すぎる責任感が異性に対する壁としても機能しているためですが、同僚あるいは上司という立場を利用すれば攻略は不可能でもないはずです」

「なんの話ですか」

「あら、じゃあレイジは瑞っちのこと、なんとも思っていないわけ?」

「……あいつの能力は、評価していますよ」

「すかした言い方。でもそんなので私のことを誤魔化せると思っているのかしら?」


 ロックグラスの氷のように引き締められた夏端の表情。だが彼を睨み付ける理絵の視線は、獲物を前にした捕食獣のそれだ。

一瞬にらみ合った後、先に目を逸らしたのは夏端のほう。新たに注文したスピリッツを一息に流し込んだ彼は、表情こそ変わらぬままながら不貞腐れたように口調を変える。


「まったく、いつの間にか可愛くなくなっちゃって。どこで育て方を間違えたのかしら」

「お前に育てられた覚えは無い」

「あらやだ。わたしがあなたのオムツを何回替えてあげたのかも忘れちゃったの?」

「そんなもの、いちいち数えていない」

「わたしは数えているわよ。初めて替えてあげたのは御正月に、どっちの両親も酔いつぶれた時でしょ。あの時はあなた、むずがってひどく泣いていて――」

「阿呆、それは俺の妹だ」

「あら、そうだったかしら? そういえばオムツ外したときに、前に何にも付いてなくて驚いた覚えが……」


 あくまでもマイペースな理絵と、こうなってさえ表情を崩さぬ夏端。家が隣同士で生来の付き合いだという二人が仕事外で織り成す会話には、どこか独特のテンポがある。

 厳つい容貌のマスターが、戸惑いの眼差しを二人に向ける。だがカウンターに座る三人は、慣れたものといった顔でのんびりグラスを傾ける。一端こうなってしまったら、あと十分は終わらない。その間にできることといえば、彼等のやりとりを肴にして酒を楽しむことぐらいだと、実島たちは経験で知っていた。

 だが今回に限っては、その経験は裏切られる。階段を転がり堕ちるような足音が響き、続いて開けられた扉からいかにも舎弟見習いという出で立ちの男が倒れこむ。


みちぞの? どうした」


 店に挙がりかけたざわめきを、奥の席から発せられた倉葉の低音が抑えこむ。だがそれにかぶせられた男の上ずり声は、周囲の動揺を再発させる。


「上でバケ、バケモノが、みんな、ツタが、引き摺られて、殺され……」

「この馬鹿野郎! まともな報告も出来ねぇのかテメエは!」


 倉葉がグラスを叩きつけ、しわがれ声を張り上げる。思わず身を竦ませた宏美は、まるでラベルを張り替えたように彼の雰囲気が変わっていることに気付く。

 人間とは思えない化け物に、襲われた。化け物が敵意を向けたのは、自分だけでなく甲栢組や鷹守会の人間も――道園という名の男が縺れる舌で述べた内容に、だが、混乱は生じない。道園の言葉一つ一つに、鷹揚に頷いてみせる倉葉。特徴の無い紺のスーツに、包まれた中肉中背。その上に据えられた相貌も、平均的という表現が最も妥当と思えるもの。誰でも代替が効くような外見しか持たない彼は、しかし既に店内を完全に掌握しきっている。

彼が纏い漂わせる、錆びたナイフの刃先のような鋭いながらも濁った空気。店内に醸し出されたそれは、一見で堅気でないと分かる店の常連はもちろん、夏端や奈織たちまでをも包んで広がっていく。


「田込の旦那、ちょっとばっかし目をつぶっていちゃくれませんかね」

「別にかまわねぇぜ。俺はもう桜の御紋を背負ってるわけじゃねえからな」


 のんびりした口調で語りかけた倉葉は、田込の返事ににやりと笑って顎をしゃくる。隣にいた護衛役と思しき巨漢が頷いて懐から取り出したのは、刃渡り一五㎝以上の刃物と並んで法律が所持を禁じているはずの代物。


「おいおい、堅気が営業している店の中でドンパチはやめてくれよ」


 呆れたようなマスターの声は、ロシア製拳銃・ストリージが発した轟音に掻き消された。


「へ……うわぁ!」


 突然の銃声に引き攣った声をあげた道園は、銃弾が引き千切ったもの――自身の脚に今にも絡み付こうとしていた、階段から伸びる緑色の蔓――を見て再度悲鳴をあげる。彼の声に応えるように、蔓、あるいは触手と呼ぶべきそれはビチビチと奇妙に床を蠢く。さらに階段の上からは、同様の触手が二本、三本とうねりながら伸び……


「出入口、ふさがれちゃったわねー」


 現世のものとは思えぬ光景を前にして広がった衝撃を、理絵は無視して事実のみを述べた。


「ねえマスター、ここって裏口はないの?」

「あぁ? 非常用の隠し通路ならここに――」


 トラブルに巻き込まれた忌々しさしか含まない、緊張感とは程遠い声。大きく溜息を吐いたマスターは、カウンターの後ろに置かれた棚を右肘で小突く。小さく不自然に揺れた棚がギィと軋みながら開き、その後ろに隠されていた下り階段が露わになる。


「一本道、出口は向かいのビルの二階だ」

「隠し通路って……なんだってこんなもの」

「色々必要あるだろうが、サツの手入れとかに備えてとか」


 当たり前のように言い、体躯をくるりと反転させたマスターは一段とばしで階段を下りる。瞬時に形成された退路に唖然とした客たちも、入り口を占める触手群を警戒しつつ後に続く。


「手入れに備えなきゃならない人間の、いったいどこが堅気だよ」


 苦笑しつつ階段を下りようとした田込は、数本の酒瓶に手を伸ばす自らの上司に気付いた。

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