4-1

「らしくないわねぇ、緊張なんて」


 喫茶店の入り口で、足を止めた瑞穂に増幅器のイツデの声が掛かる。


「十九年ぶりですから」


 昨夜よりも一回り大き目のカバンに向けて答えると、瑞穂は思い切りをつけるように大きく一つ息を吐いた。


 扉を押す。カランコロン、とどこか懐かしい鐘の音が、従業員に来店を知らせる。

カウンターのほかに二人掛けの卓が十組ほど配置された、小さな店内。よく掃除された板張りの床と、微かに漂う珈琲の香り。硬く強張っていた心が、不思議と静まる。小さい頃に来たことがあるのかもしれないと、ふと思った。


「いらっしゃいませ、お一人ですか?」

「待ち合わせ、あそこだわ」


 ウェイトレスによる席の案内を断り、中に進む。待ち合わせ相手のことは、すぐに分かった。

深夜の住宅街で出会った融通の効かない堅物少年――窓際の席に掛けた細身の男には、その面影が確かにある。もちろん背広姿の彼は、少年と呼べる年齢ではない。青年、というよりむしろ中年。だが積み上げ重ねた歳月は、その痩身に渋みにも似た深遠な雰囲気を纏わせている。

瑞穂に気付いた男が、右手を上げる。スーツの裾からスラリと伸びた彼の指の節くれに、瑞穂が抱くのは感傷と不安。彼に彫り刻まれている十九年という時間。それをわたしは、ただ無為に過ごしてしまったのではないか。


「お久しぶりです」「ええ、久しぶり」


彼の柔らかい声に促され、向かいの席に着く。顔に浮かんでいるのは、緊張を誤魔化すための微笑。何を言えばいいのか、どんな表情を浮かべるべきなのか、思うところは色々あるのに確かなものは一つも無い。


 町村甲次郎――瑞穂たち三人とイツデたち含思型魔力増幅器を引き合わせた町村ごうへい博士の弟。博士の霊力炉が持つ危険に気付き、炉の完成阻止を目論んで瑞穂と対立した相手。暴走した霊力炉の前に立ちふさがって深手を負った、武田霧子の想い人。


「今は、どうしているの?」


 幾重にも浮かんだ回想は口に出すには重すぎて、当たり障りの無い近状をとりあえずの話題に瑞穂は選ぶ。


「警魔庁で捜査員を」

「じゃあやっぱり、内閣情報局員っていうのは」

「偽造身分です。一般人に警魔庁の名を出しても、からかわれていると思われるだけですから」


 僅かな苦笑を漏らしつつ、紅茶を啜る甲次郎――その挙動に宿る柔らかな落ち着きは、瑞穂が記憶する彼からは想像し難いものだ。


「そりゃ、違わないわね。宮仕えも結構大変なんだ」


 興味深そうに相槌を打つイツデをテーブルの上に載せ、瑞穂はウェイトレスにブレンド珈琲を注文した。


「それで、今日はどうして――やっぱり、警魔庁の仕事?」


 ウェイトレスが去るのを確認してから、やや姿勢を正して問う。


「それもありますが、とりあえずは忘れ物です」


 剛平太が取り出したのは、瑞穂のハンドバック。昨夜、憑獣が顕在化した場所に置き忘れたものだ。


「手帳を少し覗きました」


 申し訳なさそうな口調だが、持ち主を確認するためには仕方がないだろう。職場の同僚である苅野郁人に言伝を頼めたのもこのためか。

 だが頼むことができるという事実は、頼むという行為と直接には繋がらない。警魔庁の人間が監視対象に逢おうとする理由、それを訝しく思う瑞穂に古い友人は言葉を続ける。


「あとお二人の監視任務ですが、今朝から私が担当になりました」

「コウさんが?」

「はい。といっても他の仕事との兼任ですから、ずっと張り付いてはいられませんが」


 残念ながら、と冗談めかして言う甲次郎に、そりゃ残念ね、と応じたのはイツデ。瑞穂も頬を緩ませつつ、引っ掛かったことを口にする。


「他の仕事……昨日の憑獣のこと?」

「あれ以外にも、数体が未顕在のままでいる可能性が高いことが分かりまして。おかげでこの地域の警魔庁職員は、てんやわんやの大騒ぎです」

「やっぱり複数いたのね」

「分かっていたんですか?」

「顕現する瞬間を見てたから。単体で存在するタイプにしては、構成する術式がおかしかった。でも憑獣が、なんでこんな街中で?」

「いわゆる事故のようなもの、というのが庁の見解です。適当な知識を聞き齧ったオカルトマニアが、出鱈目な召喚儀式をやらかしたのではないかと」

「それだけかしらねぇ、本当に」

「それだけですよ――警魔庁の判断としては」


 イツデの口出しに、含みを持たせて甲次郎は答える。つまり彼の判断は、庁と異なるというわけだ。そしてその判断こそが、彼が瑞穂たちを呼んだ理由。若干身を硬くする瑞穂、手袋からだを僅かに持ち上げるイツデ、両者を抑えるかのように、甲次郎は右手を持ち上げる。


「彼女に、」


 瑞穂の席を示して言う。彼の視線の先からは、トレーを掲げたウェイトレスが一礼とともに進み出る。


「ブレンド珈琲です」

「あと、わたしにも御代わりを」

「かしこまりました」


 伝票に注文を書き込んで、ウェイトレスが立ち去る。その間に瑞穂はカップを持ち上げ、一口だけ啜って盆に戻した。


「ムリするもんじゃないわよー」

「……入れ忘れただけです」


 イツデのからかい声に素っ気無く応じ、机の上に置かれている角砂糖びんに手を伸ばす。大きめの塊を二つカップに投入し、スプーンで念入りに掻き混ぜる。砂糖が溶けたのを確認し改めて口を付けた瑞穂は、今度はカップを置かぬまま、ほぅ、と小さく溜息を漏らす。


「変わりませんね」


 甲次郎の目が、僅かに細まる。その双眸が望むのは、十九年という時間が隔つもう戻ることの出来ぬ場所。


「そう見える?」


 甲次郎の視線の先に気付いた瑞穂は、少し拗ねたように言った。


「だとしたら悔しいわね。コウさんはこんな、素敵な男の人になっているのに」

「あるいはすっかり中年の、おっさんになっちゃっているのに」

「そういう意味じゃなくて、時間の重ね方の問題よ」


 戯けたもの言いのイツデと、それを窘める瑞穂。


「買いぶりですよ」


眼差しを二人に戻した甲次郎は、自嘲するように首を振った。


「わたしは変われていません。十九年前に捕らわれて何処にも進めないまま、ただ無意味に歳だけとってしまった。あるいはイツデさんの評が、もっとも適切かもしれませんね」


 寂しげに言って、笑う。だがその微笑も、過ごした歳月の結果なのではと瑞穂は考える。少なくとも彼女の記憶に残っている堅物少年には、こんな哀愁は似合わなかった。それに捕らわれていると言う彼の瞳は、過去だけに注がれてはいない。


「ミズホさん、イツデさん。この街――武蔵ヶ原についてどう思いますか?」


 話題を変えるべく彼が発した問いかけが、指しているのは現在について……だが、どう、とはどういう意味だろう。

 ひさかたぶりの故郷はやはり懐かしい一方で、目にする光景と記憶との差異は歳月の変遷を実感させる。けれど甲次郎が言っているのは、そういったことではないはずだ。


「霊素濃度はかなり高いわねぇ。でも安達ヶ原や富士樹海なんかには及ばないし……」


 イツデが挙げた二つの名は、日本でも有数の霊素溜り。そこより格段に劣る武蔵ヶ原の霊素濃度は、大釜の底と呼べるほどではない。


「生半可な知識しか持たないオカルト嗜好者が複数の憑獣を呼び出せるほどには、ここの霊素は濃くないわ」

「ええ。ですが霊素濃度が高いのは事実――問題は、その原因です」

「それは……あの事件が、理由では?」

「そのとおりです」


 歯切れを悪くした瑞穂に、甲次郎はあっさりと頷く。その表情が、瑞穂に教える――彼が求めているのは、そんな表面的なことではない。


「けど具体的には、事件で何がどうなって、それがどんなふうに作用することで霊素濃度は上昇したのでしょうか? そうしてできた高濃度状態が、十九年間も維持されている原因は? 少なくとも僕が調べた限りでは、こんな事例は他にありません。呪術事件で霊素濃度が上がっても、それはあくまで一時的なもの。一年以内には従来の濃度に戻ることがほとんどです」


 甲次郎の言葉は、瑞穂の心を強く揺すぶる。十九年前に捕らわれたまま、その言葉の意味を理解する。


「なのに武蔵ヶ原では、高濃度状態が維持されている。いいえ、正確には維持されているわけではありません。時間の経過に伴って霊素濃度は低下している。そして同時に、低下した濃度を上昇させる事象が発生し続けている」

「濃度を、上昇……それは」「――霊力炉、かい?」


 瑞穂が言い淀んだ名詞を、イツデは躊躇いなく挙げる。


「間違いありません。

 あのとき封印されたはずの霊力炉は、今も動き続けています」


二人の視線を受け止めて、甲次郎は頷いた。

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