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 汐瑠間調査研究所では、所員を二種類に分けている。

 調査要員と管理要員――両者を区分しているのは、期待する将来の能力。よって現在の役職で、両者を見分けるのは難しい。

 先ほどサブリーダーに指名された田込も、れっきとした調査要員。にもかかわらずチームの取り纏めを任されるのは、これが初めてというわけではない。対して宏美や光澤姉妹など、未だ管理の仕事に就いたことのない管理要員もいる。調査全般についてのノウハウを網羅していることが、チームを指揮する必須条件と目されているためである。

 よって人事考査表を覗きでもしないかぎり、両者の区別を付けることはできない……かというと、実はそうでもない。役割や能力以外にも、両者には差異が存在している。その最たる例が、職歴である。

 研究所が新卒で採用するのは、原則的に管理要員だけ。生え抜きが基本である彼等に対し、調査要員は他で何らかの実績を積んだ中途採用者である場合がほとんどだ。そしてこのことは、性格や人間性といった側面における傾向にも繋がっている。

 多少個性的ではあっても一般社会の枠組みに留まっている管理要員と異なり、調査要員には枠組みの存在自体を忘れている(あるいは忘れたふりをしている)ものが多い。そこいらの情報屋以上には裏社会とコネを持つという点で、田込雄二ですらその例外ではない。そんな田込をして『チンピラ属性』と言わしめる苅野郁人――昨夜の『事故』現場近くの電柱に寄りかかって煙草をふかしているスーツ姿の彼は、そう言った意味で典型的な調査要員だった。




「こりゃ……ミズさんは大手柄だぜ」


 サブリーダーである彼女が当初から『事故』の不審点を執拗に主張していたことを、思い出し呟く。咥えていた紙巻に溜まった灰が、重力に耐え切れず落下する。無意識のうちに、呼吸を深くしていたらしい。アスファルトに落とした煙草の火を踏み消し、改めて目を向けた光景に、苅野郁人は犬歯を剥き出しにして笑う。

 警察の鑑識班が残した青いビニールシート。その向こうに見え隠れする、崩れた石塀。スピードを出しすぎた自動車が運転を誤り塀に衝突――ありきたりな自動車事故を連想させる現場だが、


「ありえねぇな」


 郁人は交通事故という可能性を、吸殻もろとも踏み躙る。

 彼の否定の根拠は二つ。塀にぶつかったのが自動車であるなら存在すべき、タイヤ痕がここにはない。そして単なる事故ならば、周囲の路面や電柱に、罅や切疵は生じない。

 眼前と似た光景を、郁人はかつて見たことがあった。日本で、ではない。内乱状態に陥った、東欧の某国――政府軍と革命軍の、戦場と化した市街地でだ。そこで目にした銃撃戦現場と、ここには複数の類似点がある。


「つまりあれかい? ここでドンパチやらかした連中がいるってことかよ……」


 一般人の常識からすれば、たちの悪い冗談として一笑に付すべき想像。だが彼の勘は、その可能性を肯定する。


「ったく! こういう荒事からは、足を洗ったつもりだったんだが……」


 忌々しそうに毒付く郁人、だが顔に浮かぶニヤつきを隠すことは能わない。昔の血が騒ぐ、というやつだ。結婚を機にカタギになったとはいえ、人の本質はそう簡単には変わらない。


 つまり、俺は好きなわけだ

 ――暴力こそが規範となる世界の、ピリピリしたこの肌触りが。


 唇の右端を歪ませた郁人は目聡く周囲に視線を走らせ、さっそく仕事に取り掛かる。


「ここ、なにかあったんですかい?」

「――あら、あんた知らないのかい?」


 彼が声を掛けた人物、近所に住む主婦と思しき中年女性は、郁人の頭からつま先までを素早く一瞥した後で、人懐っこそうな笑みを浮かべた。


 郁人にとって彼女の反応は、完全な想定内。立ち振る舞いから垣間見える無自覚な自尊心は、彼女が近所の噂話に精通していることを教えてくれる。そしてこの手の人物は、収集した情報を披露する相手を恒常的に求めている。同時に他者の外見には過剰反応するという側面も持つが、郁人にとってそのことは決して障害になりはしない。下卑た表情を覆い隠し、スーツの襟元を少し緩める――それだけで彼は、仕事をさぼっているサラリーマンを体現したような姿になる。


「私向かいの家に住んでいるんだけどね。昨日の深夜、あそこの塀に車がぶつかったらしいのよ。すっごい音がして、あたしもびっくりして跳び起きちゃったわ」

「へえ! 塀があれだけ派手に壊れてるってことは、ぶつかった車のほうも、相当酷かったんじゃありませんか」


 眉をひそめて、驚いたように相槌を打つ。


「それがねぇ――塀を壊した車、そのまま逃げちゃったらしいのよ!」


 一大スクープを発表するような女性の口ぶりに、郁人の右目がピクリと動く。


「警察が来るころには壁だけ壊れてて、車のほうは陰も形もないの。きっと飲酒運転で、捕まるのが怖くて慌てて逃げちゃったのよ! 怖いわねぇー。ぶつけたのが壁じゃなくって人だったら、どうするつもりだったのかしら」

「たしかに、最近は何かと物騒ですからね」

「それよそれ! ここ最近の発砲事件にしても、警察がもっとしっかりしてないからこんなことに――あ、でも最初に聞き込みに来たあの刑事さんはかっこよかったわぁ」


 義憤に駆られていた女性の口調が、一転して軟化。その変化に対して生じた発作的苛立ちはもちろん表に出すことなく、郁人は疑問を口にする。


「刑事? 普通の……制服を着た、交番とかにいるのじゃなくて?」

「そうよー。ピシーとしたスーツを着て、本当に月九のドラマに出てくるみたいで、それで鑑識課の人たちに、テキ! パキ! って指示を飛ばすのよ。それに比べて交番のお巡りさんたちの情けないことったら! 刑事さんたちが帰る頃になってようやく、のこのこパトカーでやってくるんだもの」


 女性の話にしたり顔で頷きつつ、自身の背中に奔る冷たい感触に歓喜する。彼女のいう『刑事さん』が何者なのか、郁人には思い当たる節があった。


 警察という組織は一一〇番通報という部外者の行為を経由して、事件・事故の発生を感知する。通報により獲得された情報がまず伝達されるのは、現場に最寄りの交番・派出所、および巡回中のパトカーだ。現場に急行した彼等が必要と判断して、初めて『刑事』の出番となる。つまり私服警官と鑑識による捜査が制服警官の到着前にはじまるなど、絶対にあり得ない事態。それがあり得ているということは――前提のどこかに誤りがある。


 ――110番通報に基づく事件の感知、もっとも疑うべきはこいつだ。通報者から教えられるまでもなく事件の発生を把握してるヤロウ……事件当事者がサツの内部にいりゃあ、通報で駆けつけるオマワリより先に現場に着くことはできる。そいつらが自分たちの事情をポリの内部でもゲロりたくないなら、何も知らねぇ制服組がノコノコ出張ってくる前に事件を処理しようとするのは必然。ならば身内にも情報封鎖してコトを進めている連中はいったい何者かだが、閉鎖的な秘密主義+鑑識を引き連れるほどの規模となりゃ―、候補はだいたい限られる。


 ――公安か、それとも外事か。

 ――となるとその捜査の対象は、極左・反遷都主義者同盟・テロ組織、さもなきゃ外国諜報機関ってとこか?


 現段階の情報で、郁人が絞りを付けられるのはとりあえずここまで。とはいえどれが正解にしろ、ろくでもない事態には変わりない。


「クヵッ……」

「これだから最近の警察はって、いつもあたしは言ってるのに……って、あんた聞いてんのかい?」


 殺しきれず喉から洩れ出た笑いを、いつの間にか警察批判を始めていた中年女性が聞き咎める。必要な情報はだいたい既に収集した、さてどう適当にあしらうかと、改めて彼女を見ようとした、郁人の瞳孔が不意に窄まる。


「なんだい? 急に怖い顔しちゃってさ。ちょっとあんた――」

「……せぇ」

「え?」

「うっせぇ、黙れ糞女」


 顔に浮かび上がる下卑た表情、口から発せられる猥雑な言葉。それまでの外装が瞬時に剥げ落ち顕わになったこれこそが、苅野郁人という人間の本性。とはいえ昔ならいざ知らず、今はそれを偽る程度の心得は習得済み。気心知れた相手の前かよほどの事態でもないかぎり、素の自身など顕わにはしないのだが。


「失セロ」


 いきなりの変化に目を白黒させる女性を睨み付けて一喝し、郁人は視線を『よほどの事態』へと戻す。いつの間にか、数メートル先の、電柱の影にいた男。年齢は郁人と同じ三十歳前後、なで肩で痩せこけた体躯が一見貧相な印象を与えるが――ナンダ、コイツハ?

 ポケットに入れておいた護身用ナイフに、反射的に手を伸ばす。今すぐこれを抜き放ち、男の心の臓に突き立てたい……湧き出た衝動の原因は、破壊欲求ではなく恐怖。先手を打て、自分から仕掛けろ、さもなきゃ俺が殺ラレチマウ――


「落ち着いてください、苅野郁人さん。あなたに危害を加えるつもりはありません」


 染み渡るような男の声で、郁人は我を取り戻す。体中の汗腺から冷たいものが噴出し、狭窄していた思考が活動を再開。そして、愕然とする――この男の言葉に、自分が安堵させられたという事実に。


「ああ、申し送れました。僕はこういうものです」


 なおも半身を取り、右手をポケットに入れたままの郁人に男は無造作に歩み寄り、懐から取り出した名刺を丁寧な仕草で差し出す。


「あなたの会社の久間瑞穂さんに、伝言をお願いしたいのですが」

「なんだ、テメェは?」

「彼女の――古い知り合いですよ」


 穏やかな笑み、丁寧な物腰、だがその後ろに見え隠れする得体の知れない恐ろしさは、郁人の脚を地に貼り付ける。怯だからくる震えをかろうじて押えている彼の右手には、いつの間にか男の名刺が握らされている。


 ――内閣情報局員、町村甲次郎。


 極めて簡素な意匠のそれに、記されているのは肩書きと名前だけだった。

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