3-2
「追いつきます」
宣言するようにイツデへ呟き、瑞穂は跳ぶ。道路から一足で屋根へ、その屋根を更に蹴って一つ向こうの通りに立つ街灯へ――。そのまま五、六度も跳躍を繰り返し、少女の背中との距離を詰める。大丈夫、追いつける。空中での起動こそ行えないが、速度は彼女より自分のほうが上。そう確信するがゆえに、瑞穂は少女に呼びかける。
「ねえ、待ってください」
少女からの返答は、先ほども放っていた光弾――完全に『敵』と認識されてしまったようだ。ただし数は五にも満たず、一つ一つにそこまでの威力は無い。獣に使っていたときのように、二十発近くを一度に撃ち出し数の力で圧倒する、というのが、本来想定している使い方なのだろう。こんなところを見ても似ている、やはり偶然ではないのか? 電柱から街灯への跳躍で光弾を大きくかわし、あらためて少女に目をやった瑞穂――その周囲が突如歪む。
慌てて街灯から跳び退く、が、遅きに失したと感覚が教える。
「クヮイ!」
放たれた呪言は、足元の空き地から。無意識に目をやったそこには、魔方陣と――中学生と思しき、巫女装束の少女? 前を行く魔法少女の仲間だろうか、一人で行動しているのだと思い込んでいたために気付くのが遅れた。咄嗟に障壁強化を行うが、呪言で顕現したものは瑞穂の予想をはるかに超えていた。
張り詰めた敵意が、生臭い空気へと変わる。気付けば、眼下の町並みも消えている。変わりに目に入った洞は奥が暗闇になっていて、何処まで続いているのか分からない。空間移動かという疑いは、洞の幅が狭まることですぐに打ち消された。
これは洞ではない、口腔だ。
顕現された何かの口に、自分は丸ごと捉えられたのだ。
瑞穂の背中を冷や汗が走り、顎門の上下に生え揃った牙が彼女を噛み砕かんと迫る。
「禁――五粒は混じり重なれど化わらず」
進退に窮した瑞穂、その耳が捉えたのは新たな呪唱。
「塵は塵に、血は血に、剣は剣に――総てのものはただ有る様にして有るべし!」
途端、ほどける。瑞穂を貫こうとしていた鋭い牙が消失し、覆い囲っていた咥内の瘴気も薄れる。問答無用の解呪法、イツデを介して瑞穂に施された種々魔術強化の効果までもが若干薄れている。
「大丈夫ですか?」
緊迫した声は、今の呪唱と同じ――そして先ほども耳にしたもの。瑞穂の尾行に従事していたその警魔庁職員は、更に新たな呪唱を紡ぎたてる。
「基よりある一に二つ重ね、混じりたる其れをもって盾とする」
「キョウコ、コギヌエ、ウルシロウ――プラン……Bの3!」
対する声は、空き地の巫女服少女。足元の魔方陣から三つの白光が浮かび上がり、男に向けて襲い掛かる。一直線の単純な機動だが、その速さ、鋭さは侮れない。だが、男は動かない。光はそのまま突き進み、男が事前に展開していた障壁に対峙して――破るのでも、阻まれるのでもなく、四散して光彩を撒き散らす。
「これは?」
男の声に、困惑が混じる。生じた光は更に別れて増殖し、夜の闇を侵食していく。街を照らして覆い尽くし、男と瑞穂の周囲一帯を、『白』で埋める。二人の視界の総てを奪い――その絶頂から一転して、瞬く間も無く搔き消える。
光が燈っていた時間は、五秒にも満たなかっただろう。数字にすれば短いが、その間に光を放った巫女服の少女は当然ながら姿を消している。それでもしばし警戒の態勢を保っていた男が、不意に緊張を解いて言う。
「逃げられた、ようですね」
「ええ……ありがとう、助かったわ」
「え?」
「さっきの解呪法。あれが無かったら、危なかったかも」
「い、いえ」
瑞穂の言葉に、男は慌てた様子で首を横に振った。
「自分は、警魔庁職員として当然のことをしたまでです。それに結局、あの二人は見失ってしまいましたし」
「あの子達、やっぱり――」
「魔法少女、だと思います」
男の言葉に、瑞穂の表情が沈む。
「魔法少女事件と呼ぶべきものが、この町で発生している可能性は濃厚です。ですが、」
「今回は、早期段階で事件を察知することができた?」
「はい。今日のことは、僕が上に報告します。そうすれば直ぐに、何らかの対策が取られるはずです」
「そうかしら」
自然と洩れた、警魔庁への疑念の言葉。それは紛れもなく瑞穂の本心であり、彼女の警魔庁に対する基本的な認識だった。
魔法少女事件――巻き込まれた少年少女が帰趨に甚大な影響を与える、中規模以上呪術関連事件の通称である。平均して年に3~4件という警魔庁による確認件数は、しかし実際に発生している数のほんの一部でしかない。つまりその数倍、一説に拠れば数十倍の事件が国家機関に把握されぬまま勃発し、一件につき数名の少年少女が日常から非日常へと突き落とされているのだ。
ある意味でそれは、仕方のないことといえなくもない。捜査というのは事件に対し必然的に後手に回るものであるし、警察機関に比した場合極めて規模の小さい警魔庁という組織は、全国の呪術事件総てを完璧に処理するほどの能力を持ち合わせていない。ゆえに発見が難しく危険度が比較的低い魔法少女事件のような事例は、どうしても対策が後回しにされがちなのだ。
瑞穂とてそのような警魔庁側の事情を、理解していないわけではない。だがだからといって、納得できるわけでもない――十九年前のあの事件において、警魔庁はなんの役割も果たさなかったという事実を。自己弁護に過ぎないと分かっていて、それでも考えてしまうのだ。もし早期の段階で警魔庁が事件に何らかの措置を講じていれば私は間違わずにすんだのではないか、そうすればあんなにもたくさんの人々が死ぬこともなかったのではないか、と。
ゆえに瑞穂の警魔庁についての認識には、根本の部分で不信がある。更にそれは、事件から二十年近くたってなお、警魔庁の体制に根本的な変化が無いことによって増大されている。魔法少女事件の放置を事実上黙認しているともいえる現在の警魔庁の方針は――そうせざるを得ない理由を理解してなお――事件に巻き込まれた少年少女を見捨てるものであるように思えてならないのだ。
「……お気持ちは分かります。ですが、」
一瞬言葉を詰まらせた後、男は瑞穂に向かって言った。
「警魔庁は、同じ過ちを繰り返し続けるような組織ではありません」
彼の声に込められた感情は、瑞穂への明確な反発。あまりにも真っ直ぐなそれに、瑞穂が感じたのは不快感。
――あなたに私の何がわかるの?
そんな決まり文句を口に出しかけ、寸前で思いとどまる。
監視者である彼は知っているはずだ、自分の監視対象が過去に魔法少女事件とどのようにかかわり、どれほどのものを失ったのか。それが原因で警魔庁のことを否定的にしか捉えられてないことも、警魔庁を否定することであの惨劇を引き起こした自らを正当化しようとしていることも、あるいはそんな自分自身を何よりも恥ずべき存在だと瑞穂が考えていることすら、彼は分かっていて――そして少なくとも、理解したつもりにはなっている。
それでもなお、瑞穂に対して反発を隠さないのは、彼が信じているためだ。自分の所属する警魔庁という組織を、それが担う役割を、それが背負う『正義』という看板を、彼が確信を持って肯定しているゆえだ。だから懐疑を抱く私に、反発して食って掛かる。そんなことせずに適当にやり過ごしたほうが、私の監視を行うためには楽に決まっているとしても。
自らの胸に湧き上がるモワモワとした感情を、瑞穂は正しく認識する。目の前の男を対象とするそれは、いつの間にか羨望と呼ぶべきものに変化していた。彼のように真っ直ぐだったことが、私にはあっただろうか。なかった、いや、あったのかもしれない。けれど真っ直ぐであり続けることを、私は許してもらえなかった……
「いいわね、若いって」
「え?」
「なんでもないわ」
羨望が累積してできる黒く澱んだ感情、嫉妬と呼ばれる想いから自然と漏れ出した呟きを、瑞穂は首を横に振って誤魔化した。
「もう行くわ。明日も、仕事があるから」
「分かりました。検証斑への引継ぎがあるので、僕はこの場にもうしばらく残ります」
「いいの? 私の監視を外しちゃって」
「それは……」
男は何故か戸惑ったような表情を浮かべ、言い淀む。
「いまは、こちらのほうが優先です」
「そう」
果たして彼の困惑は表面通りのものなのか、それとも偽りでありバックアップの尾行者が別に存在するのか。少なくとも演技には見えなかった先ほどの自分への反発と、予想よりはるかに優れていた呪術操作の力量。男が見せた二つの材料を頭の中でかき回しつつアパートに向かおうとした瑞穂は、初めに獣が顕現した場所にバックを置いてきたことを思い出した。
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