3-1

 瑞穂が驚嘆にふけっていたのは、ほんの一瞬だった。


「イツデさん」


 半ば無意識に、つぶやく。バックから引き出された右手には、片手分の黒手袋が握られている。


「はいはい、いったい何ごとだい?」


 手袋が上げた緊張感の無い声を無視し、瑞穂はそれを右手に嵌める。全身の魔力強化と魔法障壁の全周囲展開が自動で行われたことを確認し、何かを思い出すかのようにきつく右手を握り締める。


「なんですか、あれは」


 すでに光弾から立ち直りつつある獣に目を向け、男に問う。


「人に憑いた動物霊が暴走して顕現したものです。各部に戦闘使役用の強化が施された形跡が見えますが――その原因までは分かりません」

「対処法は?」

「取り付かれた人間との繋がりは、顕現に伴って一時断絶しているようです。被憑者の特定さえできれば除霊は困難ではありませんが、まずは顕現体を潰さないと――」


 瑞穂の問いに、男が律儀に返答する。言葉が固いのはもともとの性格であると同時に、瑞穂と対することへの緊張が原因のようだ。


「あらあら、なんだか知らないけど、大変なことになってるじゃないの。どうしたんだい?」


 黒手袋――含思型魔力増幅器であるイツデが、場違いにのんきな声を上げる。


「私にもどうしたのかはよく分かりませんが、どうすべきなのかはだいたい分かります。イツデさん、申し訳ありませんが力を貸してください」

「いえ、僕がやります」


 ブロック塀から踏み出しかけた瑞穂を、男が遮った。


「あなたは、安全な場所への退避を」


 少なくとも外見上は、気負っている素振りは見受けられない。そう言うことが当然だと心の底から信じきっての言動に思える。それが何故か、瑞穂には気に入らなくて、理性よりむしろ感情に拠って反論する。


「自分の身体一つくらいは、自分自身で守れます」

「瑞穂さんは民間人です――たとえ呪術の心得があっても。これは、警魔庁の職員である僕が果たすべき役目です」

「だから、自分が戦う――私を守って?」

「はい」

「納得しかねます」


 男の答えを、瑞穂はきっぱりと否定した。そこにこめられたのは、非難であり叱責。同時に、自分が男に抱いていた苛立ちの訳に気付く。


「あなたが最優先で守るべきは、私ではないはずです。そして私も、ただ守られているべき立場にはない――少なくとも、あんな子供を戦わせたままでは」


 道路へと、目をやる。視線の先で、光弾の雨から起き上がった『獣』が、低い唸り声を上げながら前脚の爪で空気を裂く。形成された見えない刃の斬撃を、気創闘衣に身を包んだ少女は巧みにかわす。


「警魔庁で職業倫理についてどんな教育を行っているのかは知りません。ですが、助けるべきものがいて、助けるための力を持っていて、ならばヒトとしてどうすべきかくらいは理解しているつもりです」


 そう言うと、男の反応を確認する間さえ惜しみ、バックを無造作に手放した瑞穂は塀を蹴って道路に降り立つ。魔力増幅器の自動作用で強化された瑞穂の脚部は、彼女と獣との距離を瞬く間に詰めた。

 革靴は、運動には向いていない。ピシリと着こなされたビジネススーツもだ。当たり前といえば当たり前のその事実に、『獣』に存在を認識されてから瑞穂はようやく思い至る。

 獣が、吼える。あたり一面の空気が震え、霊素が紡がれ、渦を巻く。右前脚が大きく振りかぶられ、束ねられた霊素がその爪の先に集積される。


「くるよー」


 イツデに言われるまでもなく、瑞穂の身体は反応する。アスファルトを蹴り上げ、身を浮かせる。獣の前脚が振るわれて、長爪が形成した空気の刃がすぐ足もとを通過。鋭い攻撃ではあるが、こうモーションが大きくては読むのもかわすのも容易だ。そして威力が大きいだけに、攻撃後の隙も大きくなる――今の自分の、動きにくい服装でも付け入ることができるほどに。

 空中で崩れたバランスをそのままに、瑞穂は獣に向けて進む。カマイタチを発生させた霊素の残存を、左手にかき集め――そのまま、獣へと叩きつける。なんの術式にも呪法にも拠らない、単純な力の行使。果たして魔法と呼べるのかさえ怪しいそれは、すぐに抵抗にぶつかった。


「多重障壁!」


 イツデの、驚いたような声。左腕に伝わる、コンクリートを殴りつけたような衝撃。獣に触れる僅か手前で、止まっている瑞穂の拳。


「問題ありません」


 総てを認識した上で、瑞穂は小さくつぶやいた。

 伝わってくる痛覚を無視し、左腕を強引に振り切る。獣が展開する多重障壁、頑丈堅悟なそれ自体を殴り飛ばす。たとえ障壁を破れなくても、衝撃自体がなくなるわけではない。振るわれた左腕の運動エネルギーが伝達され、踏ん張りが効かなくなった獣の身体は吹き飛ばされて後方の石塀に叩きつけられる。


「――っ!」


 左手の痛みに顔をしかめつつ振り返る。先ほどまでただ一人で獣と対峙していた、魔法少女の姿を確認する。ことの成り行きを把握できていない風だった彼女はすぐに混乱から立ち直り、新たに現れたより大きな脅威――瑞穂への警戒態勢を取る。

 悪くない反応だ。それなりに場慣れしているのだろうか。そんなことを頭の片隅に思い浮かべつつ、瑞穂はどこか懐かしげに彼女を眺め――その視線が、少女の頭に載せられたキャスケット帽で不意に止まる。

 石塀に叩きつけられ、それに埋もれていた獣が音を立てて起き上がったのは、瑞穂が息を呑んだのとほぼ同時だった。

 砕けた石塀の欠片を振るい落としながらの唸り声――続いて、短いながらも鋭い咆哮。吼え声と同時に空気の歪みが発生し、その針路上から瑞穂と少女は身をかわす。


「弐ツ交ジリッテ刃ト為リテ、我ニ仇ナス物ヲ絶テ!」


 咆哮の余波が収まらないうちの、呪唱。唱えたのは魔法少女でもなければ、瑞穂でもない。瑞穂を尾行していた男がいつの間にか獣の背後を取り、右手を素早く横に振るう。獣が放ったのと同質の、しかし数段鋭い空気の刃が、放たれ、獣の後脚を切断する。

 獣が、吼え、振り返る。注意を瑞穂から、男へとずらす。それを、瑞穂は見逃さない。


「イツデさん!」

「あいよ。重ネ束ネ紡ギ連ネ―砥ギ澄マシ拠リテ貫ケ!」


 イツデの呪言に基づいて、右手にかき集められた霊素が圧縮されて結実する。ほとんど物質化したそれを、瑞穂は僅かに跳び上がり、獣の頭上から叩きつける。先ほどと同様に生じた多重障壁を、凝縮された霊素が押し破る。障壁を貫いた右拳を、そのまま獣の目鼻の間に突き徹す。グラリと揺れた獣の身体が、音を立て道路に倒れ込んだ。


「あと、お願いします!」


 男に一声だけを掛け、瑞穂は獣に背を向ける。新たな呪唱を紡ぐ男の表情に困惑が生じるが、かまわず魔法少女の姿を求める。道路から塀、更に街灯、民家の屋根へと視線を動かしたところで、


 ――見つけた。


 踵を返し、闇夜にまぎれて離脱を図る少女の後姿を認識する。

 彼女が行使しているのは、『跳躍』ではなく完全な『飛行』魔法だ。重力をねじ伏せての機動には、不安定な部分も見られない。しかも黒を基調とした服装のせいで、背景となる夜の空に溶け込んで今にも見失ってしまいそうだ。


「追いつきます」


 宣言するようにイツデへ呟き、瑞穂は『跳躍』の魔法を発動させた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る