五幕:愛でころして
うららかな春の昼下がり。春休みの課題をやっている最中、少し気分転換をするために家の外に出た。ワイシャツに、グレーのニット、それに細身のジーンズというこの季節にしては薄手の格好ではあるが日差しがあるせいかそこまで寒くない。僕は近所の公園に足を進め、その一角にあるベンチに腰をかけた。
空が青い。適度に葉を揺らす風は清々しくて気持ちいい。先日少し雨が降ったせいで、地面の砂が巻き上げられて埃っぽいなんてこともない。雀のさえずりも聞こえる。ああ良い日だなあ、僕はそう思いながらベンチの背に背中をつけて寛いでいた。するとどこからともなく、小さな猫の鳴き声が聞こえた。
にゃあ、愛らしいその鳴き声を僕は探す。とても近くで聞こえるのにその姿は見えないだなんて、とベンチから立ち上がった時、その下に隠れていた猫を発見した。
少しぼさぼさの小さい白い体。それには所々泥が飛び跳ねている。薄桃の鼻をひくひくとさせながら僕を見つめるその顔は言いようがないほど可愛らしかった。まだ小さい、母親とはぐれてしまったのだろうか、僕がその体を触ろうとするとすかっと手が虚空を切る。何度触ろうとしてみても同じだ。にゃあにゃあと甘えた声鳴く姿はまるで母親を探しているかのようだ。ああ、お前も母親から捨てられたのか。そんな同情が僕の心の内からふつふつと湧き出る。
猫は母親に甘える代わりなのだろうか、僕の決して触れることが出来ない手に擦り寄る。今にもその毛並みの感覚が伝わってきそうだ。子猫はそれに満足したのか、僕の人差指や中指を甘噛みするような仕草をし始める。その姿に僕の心が、ずんと重くなる。息がしづらい。まるで水の中を必死に泳いでいるような、そんな感覚。徐々に麻痺していく。このままじゃだめだ、そう思うのと同時に僕は子猫から自身の手を離した。ごめんな、僕が小さく呟くと子猫はどうして、とでも言うように不満げに鳴いた。
「……僕には、母親がいないんだ。だから、母親というのが何か分からない。お前の母親の代わりは出来ないんだ。ごめん、ごめんな」
猫は鳴くのを辞め、僕をじっと見つめた。その視線に耐えきれなくなってその場から逃げ去った。
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