二幕:待ちぼうけ


 夏の日差しが幾分か和らいできて、夏休みの課題も気にかかってくる時分のことだ。僕は冷房のかかった学校の図書館でそれを終わらそうと目論んでいた。僕にはその通学路でいつも目にする人がいる。千歳色の着物を着て、上に更に濃い色の羽織をかけている還暦はとうに過ぎているかのように見える男性。この夏にそんな厚着をしているのもさることながら、その体は半透明で後ろが透けて見えることから、彼がこの世の住人ではないことはすぐに理解できる。その人は毎朝、そして毎夕その古風な造りの家の門に寄りかかっている。どうしてお爺さんはこの家に執着があるのだろうか、この何年も見慣れた光景に疑問を抱いた僕は、恐る恐るその方に話しかけてみることにしたのだ。

「……あの、すみません」

「……」

「あの、門に寄りかかっているお爺さん。すみません」

「おおっ、これはたまげた! すまんのう、儂に話しかける人などそうそう居ないものでな。どうしたのじゃ、少年よ」

 彼は快活そうにはははっ、と大きな声で笑った。半分白髪が混じる刈り上げた髪に、がっちりとした体躯。口ひげは長く、優しげな目元のあたりにはたくさんの皺が刻まれている。

「あの、結構前からここにいらっしゃいますよね? どうかしたんですか?」

「おう、実はな、婆さんを待っておるのじゃ。生前一緒に行こうと約束したものでの」

「門の前で、ですか?」

「婆さんは霊感が強くての、きっと儂が家の中に入ったら気が付いてしまうと思うのじゃ。それに寂しがりやじゃから、儂の姿を見たら早く天に帰りたいと言ってしまうかもしれん。だから、儂は婆さんに見つからないような場所で待つようにしておる。それに不埒なものが入ろうとすれば気づくことが出来るしの。もう四年、いや五年になるかの」

「そうなんですか……」

 お爺さんは嬉しそうにそう話してくれた。屈託ない笑顔、お婆さんを本当に大切に思っているのだ、そう感じ取れる。

「では、僕は勉強をしなくてはいけないので。失礼します」

「しっかりと学業に励むのじゃぞ」

 僕はお爺さんに一礼をして、その場を立ち去った。彼はにこりと笑いながら僕に手を振る。

 固いコンクリートを踏みしめながら、僕は学校へと急いだ。天辺にある太陽の日差しは痛々しいほどだ。ワイシャツにしみ込んだ汗がべとべとして気持ち悪い。家から学校までそんなに距離がないから、と失念していた。きちんとタオルや制汗剤を持ってくるべきだったなあ、と後悔する。

「お爺さんがいることに気が付かなかったのかな……」

あるいは、――“一緒にいこう”その約束を忘れてしまっていたのか。

 あの家のお婆さんは何週間か前に亡くなっていた。買い物に行った先のスーパーで突然倒れてそのまま病院で亡くなってしまったのだ、と近所の人伝いに聞いたことは記憶に新しい。あんなに元気な人だったのに、優しい人だったのにねえ、とお婆さんを悼む人は少なくなく、お葬式には多くの人が参列していたと聞く。

 いってしまうときに、お婆さんは気が付かなかったのだろうか。門の前で、ずっと見守ってくれていたお爺さんに。そういえば、お爺さんはお婆さんに気づかれないように隠れて見守っていたと言っていた。それが仇をなしてしまったのかもしれない。


 そのどちらが正解かは分からないけれど、僕は毎日お爺さんを見かける。門の前で、雨の日も日差しが照る日もずっと寄りかかりながら待っている。僕と目線が合うと小さく会釈をしてくれたり、何か一言話したりしてくれることもある。実は僕は、それに少しバツが悪くなって、そこを通らないように済むように通学路を変えてしまったのだ。でもたまに、そこを通らなければいけない時があって仕方なしにそこを通る。するとその家の前にはいつも、陽だまりが似合う優しそうなお爺さんがいて、どこか幸せそうな顔でそこに佇んでいる。

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