第7話 眠れぬ夜に星を描いて
久しぶりに怖い夢を見た。
その中で私はアリスだった。
私はだだっ広い野原を走っていて、足元にエプロンドレスの中に履いたヒラヒラ過ぎるパニエが絡まったりエプロンが肩からやたらと滑り落ちて走りにくいのだ。
それでも必死に白ウサギを追いかける。
白ウサギは時折こちらを振り返りながら物凄いスピードで跳んでいく。
一方の私はクロスリボンのシューズが煩わしくて上手く走れず距離がどんどん開いていた。
「待って、ノエルさん!」
私にはなぜかその白ウサギをノエルさんと読んでいた。
真っ白な白雪の白ウサギ。
必死に柔らかな草原を走るうちにシューズのリボンが解けてそれを踏みつけて私は転んだ。
起き上がろうとすると足首に鈍痛が走る。
どうやら捻ってしまったらしい。
はるか向こうでこちらを振り返ってじっと見つめる白ウサギ。少しの間目を合わせてからまた遠くへと跳んでいってしまった。
「待って!ねえ、待ってよ。待ってよノエルさん!……ノエルさん!……先生!」
不意に彼を先生と呼んだことにびっくりした。
そうだ。確かに白ウサギは先生の役だ。
では、このノエルという白ウサギは誰?
そんなことを考えているうちに私は彼を見失ってしまった。気が付けば辺りは真っ暗になっているではないか。
「……先生、どこ?」
辺りを見回すうちに体がグルリと反転した。
そして私は漸く穴に落ちているのだと気付いたのだ。
ジェットコースターという遊具をご存知だろうか。
位置エネルギーを運動エネルギーに変えることで凄まじいスピードで空中に伸びるコースを走るアトラクションで、遊園地なんかにある。
あのジェットコースターが一気に高度を下げて加速する時の感覚が絶えず私を襲った。
私は叫んだ。
落ちる。落ちて、死んでしまう!
目が覚めた時、そこは私の自室だった。
窮屈なエプロンドレスもリボンシューズも身に付けてはいない。
私は夢でよかったと安堵して時計を確認した。
午前3時を示す夜光時計。
消灯時間はとうに過ぎている。
怖い夢を見るのは久しぶりだった。
前に見たのは本当に小学校に上がる前だったはずだ。
怖い夢を見た夜はいつも夜遅くまで起きている父がホットミルクを作ってくれたことを思い出す。
真っ白なミルクの上にキャラメルソースの星がクルクルと回っているカップの曖昧な記憶。
それを飲むと立ち所に怖い夢を忘れてしまう。
そうだ。ホットミルクを飲もう。
消灯時間後に部屋を出るのは寮則違反だけど、この真っ暗な部屋で1人朝を待つよりは余程ましだ。
私の隣に眠っているままのダイナさんを起こしてしまわぬようにゆっくりと部屋を出て、キッチンへと向かった。
真っ暗な寮の共有スペース。
玄関を入ってすぐの所にあるキッチンには先客がいたらしく明かりが付いている。
しまった。
もしこれが先生だったなら、咎められてしまうと思ったが私の足は止まらなかった。
独りでいたくなかったのだ。
「……おや、珍しい違反者だ」
1人でダイニングテーブルに着いて、こちらを見たのはやっぱり白兎先生だった。私は皆を起こしてしまわぬように静かな声で話しかける。
「……先生、その」
「眠れないのですか?」
恐る恐る頷くと、先生は笑って立ち上がり「ホットミルクを作りましょう」と言って私をテーブルに座らせる。
「怖い夢を見たんです……私はアリスで、白ウサギを追いかけるんですけど追いつかなくて、最後には穴に落ちてしまいました」
凄く怖かった。そしてとても寂しい夢だ。
「ノエルさん……って呼んでたんです、その白ウサギのこと」
先生が手鍋で牛乳を温めながら私の話に耳を傾けてくれている。その後ろ姿はやっぱり父に似ていると思う。
「ノエルというのは、最初の白ウサギで、僕の祖先らしいですよ」
砂糖をほんの少し落としながらそう先生が答えた。
後ろ向きだから、その時の先生の顔は分からない。
この時の私は酷く怯えていたのだろう、席を立って先生に後ろから抱きついてしまった。
先生は驚いたようだったけれど、何も言わずにされるがままにしているのが嬉しかった。
「先生、すごく体冷えてますよ」
「……暫くの間、ここで考え事をしていたら眠ってしまったんです」
先生がミルクをかき混ぜると、表面の膜が壊れて溶けて、沈んでいく。
「ねえ。先生、どこにも行きませんよね?」
「……ずっと、貴方の傍にいますよ。それが僕の仕事ですから」
私は泣いていた。
両親が眠ってしまってから、本当はずっと心細かった。
もう、何も失いたくなかったのだ。
さあ出来ましたよ、ほら席に戻って。と先生が2つのマグカップに注いでいく。
「貴方に勇気の出るおまじないを掛けましょうか」
そう言って先生が取り出したのはキャラメルソース。
真っ白なカップの上にキャラメルソースを注いでパチン、と1つ指を鳴らすとキャラメルソースが星型に浮かんでクルクルと回り始めた。
そうか、あの星を描いたホットミルクは父の魔術だったのだ。
「……これ、私……覚えてます!父がやってくれたんです!」
「これは先生が僕に見せてくれた最初の魔術なんですよ」
懐かしそうに笑って、先生が私の対面に座る。
カップの中のホットミルクと同じ真っ白な私の先生。
先生は私を導く白兎。その名前の通りに彼は真っ白な髪と肌を持っている。アルビノと言うらしい。
どこか異国情緒を感じるその姿は本当に物語から抜け出してきたみたいだ、と思いながら私はホットミルクを飲んだ。
「……すごく、甘いですね。美味しい」
久しぶりに飲んだそれはとても甘くて、まるで“Drink me”と札のついたあのアリスを縮めてしまう薬のようだと思った。
「飲み終わったら、早く眠りなさい……寮則違反は、大目に見ますから」
「はあい。……ところで先生は、どうしてこんな所で考え事を?」
ホットミルクの温かさと甘さに、少しずつ心が落ち着いていく。先生は私の質問に暫く答えを考えているらしく柔らかな髪を梳くいつもの癖を覗かせた。
「貴方の事を、考えていたんです」
ポツリと零れたその答えに、私の心臓が少し鼓動を速める。私の事を体が冷えてしまうのに気づかないほど考えていたと言うのか。
自分の言ったことの意味に気付いたのか、先生は顔を赤く染めた。
「……貴方の授業方針について、考えていたんです。そしたらいつの間にか眠ってしまって、体が冷えたからか僕も久しぶりに怖い夢を見ました」
そうか、授業方針か。
そうだよね。先生だもんね。
少し期待した自分が馬鹿みたいに感じる。
「先生も夢を見たんですか?」
「草原でウサギの姿のまま、転んだ貴方を置いて逃げてしまう夢です……」
なんていう偶然なんだろうか。
「不思議ですよね、同じ夢を見たなんて……」
先生が、照れ笑いをした。
私もつられて笑う。
カップの中の星を飲み干すと、私にほんの少し勇気が湧いた気がした。
「先生、私……授業頑張りますから。アリスなのに魔術が使えないなんて、おかしいですもんね」
「焦らないで下さい。ゆっくりでいいんです……少しずつでも、僕達は時間が沢山ありますからね」
そう答える先生の顔に少し、翳りが見えた気がしたのは、気のせいだろうか。
先生もカップの中身を飲み干して、私のカップと合わせて水の中にに漬け込むと、キッチンの明かりを消して2人で静かに廊下に出る。
その暗さはやっぱり私を不安にさせた。
その不安を見透かしたのか、先生が私の手を握ってくれた。僅かに冷たい、先生の手。
「先生、もし出来ればでいいので。ウサギの姿で私が眠るまで……傍にいてくれませんか?」
「構いませんよ」
先生が私の頭を優しく撫でて、ウサギの姿に変わっていく。真っ白な白ウサギの先生を私はそっと抱き上げて、部屋に戻る。
ウサギ姿の先生はフワフワで温かい。
一緒にベッドへ入って、私は彼をぎゅっと抱きしめた。
「先生……、貴方のお父さんもこうして眠るのが好きでしたよ。こうやって眠ると、悪夢を見ないのだと言っていました」
「そうなんだ……先生、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
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