#11 Nichts was ich tun kann

 判断する間もなかった。

 銃弾噛みのように待田は、府中の爪先を歯で受け止める。


「!?」

 府中はそこで初めて、驚愕の表情を浮かべた。

 構わず頭を後ろへ引いて、待田は衝撃を殺す。それでも壁に頭がぶつかり、視界が暗くなる。「衣装」の靴に歯が食い込んで、ぐにゃりと、合皮素材の嫌な感触が伝わった。噛む力こそ緩めないが、すぐには目を開けられない。


 府中が必死で足を抜こうとしてくるが、待田はなんとか右手でそれを掴み、ぐっと押さえる。そしてその体勢を保ち、慎重にダメージの回復を待つ。


 片足をこうして離れた位置で押さえておけば、府中としては一気に追撃がしづらくなる。残った足は体重を支えるために使わなければならないし、両手のリーチもこれではわずかに届かない。唯一懸念すべきは右手のステッキだったが、これにも待田の計算があった。


 とにかく口から抜こうと、府中は何度も力を入れて足を引いてくる。辛うじて目を薄く開けると、まるでありえないものを見るような府中の視線がぶつかった。

 いわゆるドン引きというものだ――だがこれが、光線を封じる待田の狙いだった。


 府中としてはまず、自分の足を前に投げ出す形になっている。その先が待田の口の中にあるから、そこより下に照準を合わせることはできない。自分の足をまとめて砕くことになるからだ。ゆえにステッキを使いたければ、待田の顔の上半分を正確に仕留める必要がある。仮にそうしても、咄嗟に足を持ち上げて防がれたら同じことだ。最小限の予備動作で、防御に移らせないうちに光線を撃ち込むのは、全く容易なことではない。


 しかし、それよりも――そもそも自分の靴が他人の口の中にあるという、この状況自体が異常なのだ。


よほどの嗜虐趣味でない限り、靴を舐められるというのは心地いいものではない。そんなことをする人間は近くに置きたくないし、知らずその靴――足自体にも不快感を覚えるはずだ。


 だから、異常な状況から外れようとする。

 だから、異常な状況から離れようとする。

 だから、異常な人間から離れようとする。


 ステッキの存在など、それこそ二の次になってしまうのだ。


 ……もちろん蹴りを受け止めた時は無我夢中で、最初からこれを狙っていたわけでもなかったのだが……しかしその後靴を噛み続けたことは、狙い通りの効果を発揮しているようだ。


 とはいえ、

(しかし――――古沢が見たら卒倒するだろうな、この光景は)

 いつまでもそうしているわけにはいかない。待田はそんなことを考えながら、体のダメージが一定まで抜けたのを確認して、

 府中がぐい、と足に力を入れた瞬間に口と手を同時に離した。


 バランスを失った府中が目を見開いて後ろへぐらつく。すかさず待田は彼女の軸足を払い、飛びかかった。府中は倒れながらもステッキを構えるが、所詮そこは直線攻撃。構えの段階から予測がついていれば、避けることは容易い。


 目を硬く瞑るのとほぼ同時、背後で、廊下に繋がる擦りガラスの窓が一枚飛んで砕け散る。その音を聞いて待田はもう一度目を開け、呆然とする府中の右肩を押さえつけた。府中が傷みに顔を歪めるが、待田は構わず、伸びたその右肘に掌底を叩き込む。血管を打たれる鈍痛に府中が苦悶の声を上げ、その右手が一瞬緩む。


 待田はそこを逃さなかった。

 ステッキを奪い取り、その場でふわりと浮かせ――さっき割れた窓の外へ、一気に吹き飛ばす。


 そして、教室には静寂が訪れた。


 府中は組み伏せられたままでステッキの行方を見つめていたが、それが窓の外へ消えると、かくりと全身の力を抜いた。そのまま眠そうな半眼に戻って、視線を虚空に投げ出す。

 もう、これ以上抵抗する気はないようだった。


 それを悟ると、待田は思わず安堵の息を漏らした。緊張が解けていくと同時に、汗が全身をじっとりと濡らしていく。元々あまり風通しがよくない服装だが、その上ここまで激しく動き回ることになろうとは思ってもいなかった。


 だが、ここで油断しきってはいけない。待田はすぐに、右手を府中の首の上に構えなおす。ギロチンのような格好だ。

 まだ、三人が控えている。


 待田は府中を見つめたまま、声色を低くして、姿を見せない三人に向けて告げた。


「…………出てきてくれないか。確かに私の魔法は人には向けられないが、ここからなら素手でも喉ぐらいは潰せる。無駄な血は誰も望んでいないと思うのだ、降参してほしい」

「…………………………でも、」


 だがそれにも、返答したのは府中だけだった。


「待田さんって、そんなことする人じゃない気がする」

「……そんなことを言って、何になる」


 待田は小さく、そうとだけ返す。その背後では、割れた窓の所へ向かって、いくつもの机が移動していた。


 窓に背を向ける形になってしまったが、府中は念のために押さえておかないといけない。その上で、窓からの奇襲を防ぐための待田の策だった。

 一秒も振り返らず、机を正確に積み上げて窓を塞ぐ。がちゃがちゃと無機質な音が教室に響いたが、それも数秒ほどで止まる。


 それをぼんやりと見つめて、府中がもう一度口を開いた。


「全部、わかるの? ……その、机の場所とか」

「……うむ。こういう魔法ちからでもあるからな、三年間も使っていれば自然とそういう――空間を把握することも、できるようになってくる」

「……それだけの力があっても、待田さんは――人にそれを、向けないんだね」

「………………そうだ。人によって意見は違うだろうが、私はそれを守っている」


 背後を気にしつつ、待田は答えを返していく。

 まだ、三人は来ない。


 怖気づいて帰ってくれたとしたら、それはそれでいいのだが……しかし彼女達が府中を見捨てるかといったら、それは大いに疑問なところだった。


 府中は言った――みんなを裏切るつもりはないのだと。

 それがどこまで本当だったかはわからないが、それなら他の三人も、府中を裏切ることはしないはずだ。


(だが――なぜ来ない。どうして府中微睡を救いに来ない……!?)


「優しいんだね、待田さんは」

 その思考を遮るように、府中はまた話しかける。


 いつの間にかその瞳は、待田の目を見据えていた。感情の読めないその視線に対して、待田は杭を打たれたように、目を外せなくなる。


 数瞬、呼吸が止まっていた。理由のわからない焦りが、構えた指先をがくがくと震わせる。

(ちょっと待て――どうして私は焦っているのだ)

 ぐらつく視界の中で待田は自問するが、逆に、自答できないことが焦りの連鎖を生む。光のない府中の視線が、待田を一層混濁させた。


 府中は負けた。そして拘束され、人質にされた。

 しかし、府中の仲間は来ない。助けてくれない。


 だが――府中の態度は明らかに、諦めのものではなかった。むしろもう、泰然としてさえ見える。

 警告音のように、耳鳴りが聞こえる。自分の知らないところで、何かが起こっているのではないか。脳の奥に残った嫌な感触が、そう訴える。


 それは待田が、最も嫌う感触だ。


 暑さとは別の汗が、府中の頬に滴り落ちる。それでも府中は表情一つ変えず、淡々と続けた。


「優しいよ…………私はよく知らないけど、その、三年間も豊島区を守って、それでいて人に魔法は使わないなんて。私には……無理だと思う」

「……………………………………………………そうではない。単に昔、嫌なことがあっただけだ――それより、府中さん」

「それに、その……私なんかを、気遣ってくれてるんでしょ? 亜莉沙達が助けに来ないのか、って。見てれば、わかるの……だから私は、その……そんな人には」


 府中はそこで、一旦言葉を切った。彼女の息が小さく震えているのにも、待田は気づくことはできなかった。

 そんな待田に、府中はもう一度息を吐いて――その開き切った瞳孔へ、告げた。


 そんな人には――――――――

「――――――勝ちたくなかった」


 構えた右手を肩へ振り下ろし、府中を床に押し付ける。府中はわずかに顔をしかめたが、もう何も抵抗しなかった。ただ待田の顔を見ていた。その自分の顔がどうなっているのか、待田には想像もつかなかった。それほどまでに感情が雪崩を起こして、後悔と憎悪と絶望と殺意と苦痛でぐちゃぐちゃになった声で、気付けば府中に向かって叫んでいる。


「どういうことだ………………どういうことだ!! 私を騙したのか!? 他の三人はどこにいるんだ、どこで何をしているんだ!! 答えろ府中!! 答えろよおおおおッ!!」

「……わかってる。怒鳴らなくても聞こえる……でも私は、その、嘘はついてないの。『二人を傷つけるつもりはない』って。私はただ、


 そして、肩で息をする待田に向かって。

 最悪の事実が告げられる。


「もう時間も経ったし言うけど……三人は、ここには来ない。みんなで古沢さんを襲ってると思う。その……殺していいって、左京が言ってたから、無事じゃ――」

――――――――――――――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 そこまでだった。


 少女の咆哮が府中の耳をつんざき、次の瞬間府中は壁に叩きつけられる。べごりと嫌な音がして、府中の口から胃液が噴き出る。待田の声かどうかも判然としないが、ただ凄絶な雄叫びが遠くに聞こえていた。府中初めて恐怖に顔を引きつらせ、激しく咳き込む。しかし、それも一瞬だった。


 机と椅子が嵐のように吹き荒れ、それが府中の目に映り。

 何かを思う間もなく、彼女の意識は赤く潰れた。

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