#10 Hilfe, hilfe

「……………………電話帳のデータは、飛んだんだ。お前の名前は多分残っていない」

「ふうん、そうかあ……まあ仕方ないね。それじゃあ今登録しようぜ、LINEやってるよね?」


 黒ナースの少女はにっこり笑って、杖の音を立てながら古沢に歩み寄る。


 階段のすぐ脇にあるそのスペースは、どこか薄暗く、埃っぽかった。古沢は帽子を深く押さえながらも、北宮の動きを注意深く見つめる。


 本能が警鐘を鳴らしていた。


 いかにも人畜無害な旧友ですといった顔をしてはいるが、人畜無害な人間はこんな突飛な格好はしないはずである。まずもって、その顔からおかしい。何しろ左目に、「右」と書かれた眼帯を着けているのだ。そして真っ赤なボタンの、黒いナース服。こんなものは、怪しまない方が難しい。


 百万歩譲って、これが北宮とかいう少女なりのファッションだったのだとしても……三年前にこういう人のアドレスが携帯に入っていたとは、あまり思いたくなかった。


 大体、と古沢は考える。


 確かに古沢の記憶は、一年間欠けている。しかし、欠け始める瞬間の直前まではしっかりと記憶があるのだ。ということは、北宮穂香という少女とは――その一年間の間に出会い、別れたということになる。


 もちろん、彼女の言葉に嘘がなければという話だが。

 もしかするとこの人物が、「三年前」の鍵を多分に握っているのではないか。


 とりあえず北宮が携帯を振りつつ促すので、古沢も仕方なく携帯をポケットから取り出し、チャットアプリを開いて互いにデータを交換する。北宮は満足げにその画面を眺めると、杖をつかない片手で器用に画面を操作した。ほどなく古沢の携帯から電子音が鳴る。


 トーク画面に表示された北宮の自撮りを一目見て、古沢は何もせずにアプリを閉じた。だが古沢は、表情を微塵も変えずに携帯をポケットにしまう。北宮は軽くずっこける素振りを見せて苦笑した。


「いやいやいやいやちょっと待って古沢君、その反応はちょっと傷つくよ? そこは嘘でも可愛いねとかさあ」

「…………………………」


 とかさあ、ではない。


 古沢としては、初対面の相手にそんなことを送る男が世界のどこにいるんだと甚だ疑問だったが、しかしそんなことを言おうにも、まず彼女との距離感が掴めない。北宮曰く元は友達の間柄だったらしいが、それもどこまで信用できるかわからない。


 依然壁にもたれたまま、帽子を押さえる古沢に――そんな心の内をどこまで察したのか、北宮は古沢の顔を覗き込んでもう一度語りかけてきた。


「……ヘーイMy Friend? 元気出してよ、昔の君はそんなんじゃなかったよ?」

 古沢はその視線を塞ぐように、さらに帽子に力を込めた。


 昔――とは言うが、こいつは三年前の自分しか知らないのだ。

 古沢自身が知らない、古沢しか。


 北宮を恨んでも仕方がないし、実際恨んでもいないが――こういうことがあると、何を信じればいいのか自分でもわからなくなってくる。


 三年前、記憶をなくして目覚めた時にはもっとひどかった。病室に来る人来る人が、何を言っているのかわからない。誰のことを話しているのかわからない。そもそも彼らが誰に話しているのかわからない。ならば自分は誰なのかもわからない。そんな状態だった。


 ふいに北宮が、帽子をどけてみようと手を伸ばした。だが古沢は、首の動きだけでそれを避ける。北宮はなぜか無言で何度も帽子に手を出してくるが、杖のせいでリーチが伸びない。古沢は全てを容易くかわしていく。


 その帽子だって、それ以来の悪癖だ――古沢は帽子を守りながら、思い返す。


 とにかくその頃、誰とも目を合わせたくなかったのだ。それはもう丁度こういった、「以前」と同じように接してくる人間とならなおさらだ。


 そうこうしている内に、北宮がついに力尽きてがっくりと膝に片手をつく。

 どう言葉をかけていいものか、ここでも古沢は躊躇したが、口を開いたのは北宮が先だった。


「はぁっ、はぁ………………どうして、そんなに、こだわるの、帽子に。別にさ、刀傷があるとか、禿げてるとか、脱いだらなんかが発動するとか、そんなんでも……ない、でしょ? つーか、私ここまで頑張ったんだから、脱げよ。脱いだらどうってわけでもないけど、なんか脱ごうよ、もうなんとなく」


 割と本気で、辛そうな声色だった。


 どうしてこだわるのか、と訊かれれば、そういう質問を躊躇なく投げかけてくるからだと答えるしかない。しかし古沢はそうしなかった。北宮との距離感を受け入れられない今、あまりそういう皮肉めいたことは言いたくない。


「……………………それよりもだ」


 そして考えた末に古沢は、思考を投げることにした。

 ここで混線しているよりも今は話題を逸らしておいて、少しずつ話してみるしかあるまい。古沢は帽子を整えながら続けた。


「お前、北宮――ここに一体、何をしに来たんだ。この時間帯はほとんど誰もいないが」

「え、私? …………ああそうだ、ちょっとそこの教室で待ち合わせをしててね。平塚姫妃って子なんだけど、確か古沢君のクラスメイトでしょ?」


 北宮が出した名前は、確かにクラスメイトのものだった。

 とはいえ、大して親交があるわけでもない。古沢はそこは適当に流して、自分の「役割」を全うすることにする。

 黒ナースの素性はともかく、あの教室には今は誰も入れられないのだ。


「……このフロアには、まだ来ていないはずだ。それと教室は今取り込み中だから入れない」


 詳しく語ってやることもないので、古沢はそうとだけ告げる。

 だが、息をつきながら顔を上げた北宮は――次いですんなりと、こんなことを口にした。


「え? ああ……もしかして、待田さん絡みだったり?」

「……どうして知っている」


 驚くほど低い声と共に、古沢は帽子を上げて、北宮に視線を突き刺す。

 それを知っているのは現在、待田と古沢と――都心テレビの人間だけだ。


 古沢は壁にもたれるのをやめ、左足を半歩踏み出して体重をかける。

 怪しかったら即沈めると、前もって決めているのだ。


 だがその殺気を身に受けて、北宮は慌てて右手を振りつつ釈明する。


「いや、そのさ、音が聞こえるんだよ音が。床の上で机が動く音というかさ、ガチャガチャってのが」

「音って……何も聞こえないが」

「そのほらあれだよ、私、目がこうじゃん」


 そう言って北宮は、アピールしてみせるように左の眼帯を指差した。


「だからその分耳がいいんだよ、ちょっただけどね。昔からそうなだから聞こえるの、うん。古沢君もよく聞いたら聞こえると思うよ、ああもしかしたら壁の陰だから聞こえないだけかもしれないし。だから何か暴れてるのかなー、じゃあ豊島区で有名な待田さんが出てきてるのかなー、って思ってね?」


 後半はほとんどまくし立てるような調子だった。

 視覚と聴覚は一般に、どちらかがかけるともう片方が発達する――そういう話はきいたことがあったが、それは片目の視力を失っただけでも起こる現象なのだろうか。古沢はそこを判断しかねたが、ことの真偽は結局流れた。


 今度こそ、教室の中から轟音が響いてきたからだ。

 それも、机や椅子を力任せに、いくつもなぎ倒したかのような。


 鈍い金属音が何度も何度も廊下に反響し、重なり合って場を震わせる。古沢は反射的に教室の方向を振り返って、すぐ確認しようとする。しかし北宮を取り押さえるために傾けていた体重を戻すのに、一瞬だけ時間がかかる。

 その隙に、北宮の声が割り込んだ。


「いやあ……………………さすがというか強いんだね、待田さんは」


 それだけの言葉だったが、古沢の動きが止まる。

 教室へ駆けようとしていた思考が、水を浴びせられたように冷まされる。


 待田は何があっても、何とかなるはずだ――教室を出る直前に自分で考えたことが、今になって古沢の脳裏に浮かんできていた。

 それに、園庭でも勅使河原と話していた通り――府中達は、弱かったはずなのだ。


 そう考えると、もはや動く理由はなかった。古沢は自然と、北宮の方へ顔を戻していく。そのタイミングで北宮はまた続けた。


「しっかしさあ、正直反則だよねえ……魔法とかさ。今の音も多分、何かしら吹っ飛ばしたんだと思うけど……やっぱすごいよ、うん」


 それには特に答えず、古沢はもといた位置まで戻る。

 実際待田がただ者ではないのは、古沢も薄からず気付いている――だが同業者の立場上、あまり手放しで褒めるのも考え物なのだ。


 教室は既に静かになっていた。やはりどうやら、わざわざ心配することもなかったようだ――そう判断して古沢は、もう一度肩を壁に預ける。

 そして一つ、息を吐いた。


 すると北宮は間を置かず、今度は古沢にこんなことを尋ねてきた。

「魔法といえばさ、古沢君ってどうして突然、魔法少女なんかやりだしたの?」


 思わず古沢は、叩きつけるように帽子を押さえていた。

 自分の頭を殴るかのような仕草だった。


 それを今さっき考えていたんだ。そう言いたくなるのを、古沢は奥歯を噛んで抑える。それを北宮に言っても仕方ない。いくら悪意的な偶然でも、北宮がそこまで古沢のことを見透かしているわけがないのだ。


 歯の奥から呼吸音が漏れる。八つ当たりは誰の為にもならないと、古沢は必死に自制する。

 北宮は心配の入り混じる表情で、古沢を覗き込んできていた。そうだ。北宮だって、旧友が突然魔法少女になったら気になるに決まっている。


 呼吸を無理に落ち着かせながら、繰り返して自分に言い聞かせる。

 余計なことは考えるな。同じことをクラスメイトに訊かれたときの、自分の答えを復唱しろ。


「……………………待田に、頼まれたんだ」

 やっとの思いで、それだけを答える。だが北宮は神妙そうに、「へぇ……」と首を傾げて続けた。


「引き受けちゃうんだねえ、それ。いや、昔からなんだかそんなヤツだとは思ってたけどさ――抵抗はなかったの? 魔法少女とかさ。古沢君も魔法が使えるわけ?」

「……いや、使えなくても務まる仕事だったからな」

「それじゃ、『魔法』でも『少女』でもないじゃん。なんで引き受けちゃったんだよそれ」


 自分で可笑しくなったのか、笑いを含みながら北宮は返した。


 帽子を押さえる古沢の手に、知れず力が加わっていく。何なんだ、もう解放してくれ。古沢の無意識がそう叫んでいた。

 それ以上掘り下げるなと、言おうとすれば言うことはできた。ただそうすると、何かのっぴきならない事情があったのですと自白するようなものになる。


 どこかで北宮を信頼しきれていない今、それはやはり、避けたい。

 考えて考えた末、古沢は心を決めた。

 なるべく何事でもないように、あっさりと答える。そうすれば北宮も、それ以上は詮索できないだろう。


 だが。


「そこは自分でも、よくわからん……ただ少しまあ、気になったんだ。大したことじゃない」

?」


 それが限界だった。

 次の瞬間古沢の手は、黒ナースの胸倉を掴み上げようと動いていた。


 北宮は驚いた表情になりながらも、バックステップで綺麗に回避する。だがやはり足が悪いのか、がくりと後ろ向きに倒れて尻餅をつく。「痛った!」と声を上げる北宮だが、古沢は構わずそこに跨って、首元を押さえ込もうとする。


 だがその手は、杖に遮られた。

 当の北宮は苦笑して、告げる。


「やめなって古沢君、争いは何も生まないよ? ここで私に攻撃したら、人権団体の方々から一気に賠償請求が飛ぶだろうしね」

「…………………………構うか。お前は一体、俺について何を知っているんだ」


 杖を押し返そうとしながら、古沢も返す。声に怒りがこもっているのにも、自分では気付かなかった。

 しかし北宮は、杖と逆の手を広げるようにして、


「嫌だなあ、冗談だって。そんなに怒るなよ、私もそういう商売は嫌いなタチだしさ……私は良き友達として、古沢君が気にすることといえばそれぐらいかなーって思っただけだよ。記憶についてはまあ、聞いてたし。だから落ち着こう」

 全く切迫していない様子で、そう続けた。


 だが、古沢としては落ち着けるわけもない。

 三年前の出来事と、古沢がそれ以来ずっと引きずってきた問題。それをこんなにも笑い混じりに扱われている事実が、許せるはずがない。

 北宮がそのことを知っていようがいまいが、今の古沢には関係なかった。

 わずかに残った理性で、教室には聞こえないぐらいの声量を保ちながら――その最大限で、古沢は真下の北宮に問う。


「答えろ――答えてくれ北宮。三年前、俺に何があったんだ」

「いや、別に答えてもいいんだけどさ……死にたくなるよ?」


 そう答えた彼女は、既に笑っていなかった。

 それと同時に、古沢の視界を何かが横切る。


 死にたくなる――その言葉に頭の処理が追いつかない中、古沢は思わずそちらに目を向けた。真下で北宮も、同じ方に目を向ける。


 そして、そこへきて古沢の脳はオーバーフローした。

 古沢達の横の廊下に、メイド服の少女がうつ伏せで倒れていたからだ。


 杖を支える力が緩むが、古沢もそれには構わず、顔を上げる。

 メイド服というよりは「メイドカフェの店員」の方が近いような服であったが――そのあちこちも、そして露出した肘から先や膝から下なども、ポニーテールにした明るい茶髪も、どれもが埃っぽく汚れていた。


 発作のように荒く呼吸するその少女に、とりあえず古沢は声をかけてみる。


「……おい、大丈――」

Hilfe助けて……」


 何かを呟き、少女は両肘で支えるようにして体を起こし、廊下に膝をつく。

 息を整えることもせずに、彼女は青い目を古沢に向け、そして端然とした顔を恐怖に歪めて叫んだ。


「Hilfe, hilfe!! Himeki, meiner Freunde, wurde von einem Monster angegriffen. Sie wurde zurückgehalten!! Bitte helfen Sie ihr!!」

「…………ヒメキ……平塚姫妃か」

「うーん、友達が怪物に襲われて攫われたからマジ助けてくれって感じかな……? にしてもやっぱヒメキって言ったよねこの子」


 彼女の言語がわかるのか、北宮は助け舟を出す。しかしそうしながらも、彼女は困惑した表情になっていた。

 古沢にしてもそれは同じだった。今しがたまで北宮を問い詰めていたのもあるが、人が襲われて攫われる事案など、これまでの豊島区には一度もなかったのだ。


 それこそ、出てきた敵を倒すだけだったのに。

 だが、起こったことは片付けなければ。それが、古沢が選んだ仕事でもあるのだ。


「お前は平塚姫妃の友達なのか。というか、日本語はわかるか」

「日本、ご……はいヤー、すこしならわかります。私は、マリー・ルイーズ・ネッセルローデです。今、ヒメキが目の前で、怪物に……怪物に!!」

「…………わかった。今行く、落ち着け。敵はどんな見た目だったか、わかるか」

「見た目……? わからない、わからないです!」

「大きさは」

「わからない……わからない! か、怪物!! 怪物なんです!!」

「…………場所は、わかるか」


 メイド服の少女・マリーは、目に涙を溜めながら頷いて、その方向――特別教室棟への連絡通路の方角を指差した。古沢も彼女を安心させるため、頷く。

 立ち上がって走り出そうとする古沢に、北宮が張り詰めた声をかけた。


「待田さんは、私が呼ぶから。早く助けてあげて、その子と姫妃を。私はこの足だから、向かえないから」

「……呼ばなくていい。待田も取り込み中なんだ、俺が片付けてくる」


 そうとだけ答えて、古沢はマリーに先導を任せ、現場へと駆け出した。

 待田を呼ばなかったのにはきちんと理由があるが、北宮に教えることでもない。


 彼女を残して、古沢はマリーの後についていく。だがほんの数メートルで、マリーは硬直したように止まった。

 その喉の奥から小さく悲鳴が漏れ、マリーはかくんと膝を折る。しかしその視線は、ある一点から外せないままでいた。


 古沢もすぐに連絡通路を覗き込み――そして、そこに打ち捨てられたクラスメイトの姿を見た。


 仰向けに倒れた制服の少女は、一見すると誰だかわからない有様だった。血にまみれた顔は苦痛に歪み、単調で苦しげな呼吸を繰り返す。

 意識も、はっきりとしていないようだった。


「ここで、ヒメキが……怪物に……お、襲われて…………その…………」


 背後のマリーは、その惨状に近付くこともままならないようだ。震える声を背に古沢は、倒れた平塚に近付いていく。

 と、そこで。


「あの、そ、…………それ、何ですか?」

 マリーが尋ねると同時に、古沢もそれに気が付いた。


 平塚の手前に、正方形の封筒が落ちている。

 それどころか、そこには毛筆で「古沢恭一へ」と書かれていた。

 古沢は立ち止まり、しばし考える。だが、封筒は薄く、爆発物などが仕掛けられている気配もなかった。

 こういう思考も何とかならないものかと思いながら、古沢はそこに立て膝をついて、封筒に手を伸ばす。



 ――同時。

 古沢の後頭部に、マリーが踵を振り落とした。

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