#8 戦場でなければ敵はいない
その言葉を認識するのに、古沢は数秒をかけた。
いくら性善説の人間とはいえ、今この状況で、仕掛けられた罠に彼女が気付いていないわけはない……はずだ。今の府中に騙されるようでは、今まで十六年も生きていられまい。
だが、待田はそれでも要求を飲むというのか。古沢をわざわざ、遠い職員室前まで動かして。
一体どうしたんだと古沢は、怪訝の表情で待田を窺う。
「………………本気なのか、待田。いっそ警察でも呼んだ方がいいんじゃないのか、相手が人間ならちゃんと相手にしてくれる」
「それだけはやめてくれ。私もちょっと、ガールズトークがしてみたくなったのだ」
そんな風にこともなく答えて、待田は悪戯っぽい笑顔でVサインを作った。そして即座に目だけを真顔に戻し、府中に見えないように、口の動きだけで伝える。
かんがえがある。
わたしにまかせてくれないか。
「……………………」
無言で疑問符を浮かべる古沢に、待田はもう一度、目を見て力強く頷いた。
古沢は帽子を押さえて、しばし考える。待田の意図は掴めないものの、今の古沢に、反対する理由はなかった。
待田を一人で残したら、確実にテレビ局の連中に襲われることになるだろう。しかしそれはいい。待田の実力があれば難なく何とかなるはずだ。
あるいは待田という脅威が離れたことで、評価の低い古沢自身が狙われるかもしれない。だがそれもいい。古沢が自分で何とかすればいい話だ。
これぐらいは――何とかなるはずだ。
「…………わかった。待っている」
古沢はとりあえずそう答えて、気をつけろと目線だけで伝えてからガールズ二人に背を向けた。
これからこの教室で、何が起こるのか。気にはなるが、待田の様子からしても、見届けて楽しいものでは到底なさそうだった。
そんなに楽観できない話であるのは、承知している。何だか知らないが「潰す」とまで言われたのだ。警察に連絡すれば動いてくれるレベルの事案ではある。
それだけはやめてくれ――と、なぜだか言われたが。
区公認の活動であるのに、どうして警察を呼べないのか。そこは大いに疑問だが、しかし今の本筋ではない。ドアを開けて、念のために携帯をスキャンするようにしてワイヤートラップがないことを確かめる。さらに右を見て左を見て、廊下に人がいないことも確認する。
背後のガールズはまだ沈黙を保っていた。
息苦しさを募らせていく教室のドアを、古沢は後ろ手で、静かに閉めた。
待田には職員室前にいるよう言われたが、それでは万が一の時に間に合わない。ここは粛々と無視して近くに居座ることにした。階段のすぐ近くは教室からは死角になるので、ひとまずそこに移動する。
生温くなったコンクリートに肩を預けて、古沢は片手で帽子を押さえた。
かつん――かつん――と。階段を上って、硬い足音が近付いてくる。
目を閉じ、息を吐きながら、古沢は足音との距離感を計算する。
無関係の人がこのフロアに来たら、やんわりとお引き取り願わなければならない。
足音のペースはだいぶ遅かった。かつん――かつん――この音からして、杖でもついているのだろうか。
逆に、関係のある人――つまりは敵の姿があったら話は別だ。杖をついているなら、戦闘要員ではない可能性が高い。しかしフェイントかもしれない。
どうやら魔法少女のシンボルであるらしい突飛な髪の色か、勅使河原や府中と同じ制服か、あるいはその衣装か。いずれかの条件に当てはまったら即、相手がアクションを起こす前に飛び込んで取り押さえる。少しでも怪しければそうする。その想定も、古沢は瞬時に組み上げる。
そして組み上げた後に、古沢は気付いた――自分はあまりにも、こうした作業に慣れ過ぎているのではないか?
かつん――と、足音はまだ続く。
大体さっきもそうだ。ワイヤートラップの可能性なんて、一体自分はどこで考えた? 勅使河原の組織を敵に回したのはわかっている。だが、それでいきなりワイヤーにかかって殺されるだなんて、どういう根拠があって考えた?
足音だけが残響する中、古沢は黙考する。
思えば自分も、かつては人並みに喧嘩をする子供だった。戦うことの大半は、そこで覚えてきた。
だが、その記憶に決してワイヤートラップは登場しない。知らないはずのものを、一体どうやって警戒できる?
(……………………三年前、か)
その一年間に――何があった。それは古沢が、三年間ずっと引きずってきた問いだ。
――かつん――かつん――――足音は徐々に大きくなってきていた。
古沢は一度帽子を被り直し、片手でまた目深に押さえる。
ふと、府中の言葉が脳裏に繰り返された。
――魔法少女がどうして魔法少女なのか、わかる?
(本当に俺は――どうして魔法少女なんか、やっているんだろうな)
三年前の答えを探すために、果たして現状が最適解なのか。古沢には、それもわからない。
それなのにあの時、待田の言葉を受け入れた自分の――その動機も探さなければいけない。
……足音は既に踊り場を抜け、二階に迫ってきていた。
距離はあと数歩といったところか。かつん――かつん、と。ゆっくりした杖の音が、はっきり聞こえてくる。
そして、数秒が経つ。
最後に一際杖が響いて、足音の主がいよいよ二階に現れる。それと同時に古沢は瞼を上げ、
「――――あれ? ……おお、古沢君、じゃん。久しぶりい」
陰から顔を出した少女は、息を切らせながら、そう親しげに話しかけてきた。
右手で杖をつき、少女はそこへ体重を乗せながら、二階のフロアへと体を上げる。結構体力を使うのだろう。少女は古沢に笑顔を向けながらも、食いしばった歯の奥から荒い息を漏らしていた。眉のあたりで切りそろえられた黒の前髪も、額の汗で光沢を放っている。
そして古沢は、そんな少女に――一ミリたりとも見覚えがない。
しばし下を向いて呼吸を整える少女を見て、古沢は帽子を気にしつつ、警戒のレベルを上げていく。髪こそ黒いし制服でも衣装でもなかったが、その出で立ちはどう見ても異常だった。
まず目に付くのは、左目の眼帯だった。黒くつやが無い楕円形の中央には、ピンク色のゴシック体で「右」と書かれている。
そして着ている服も、一見黒のワンピースに見えてその実、ナース服を真っ黒に染め上げたようなものだった。前面に二列並んだボタンだけが、毒を孕んだ実のように赤い。太腿の中ほどから覗く両脚の白さも相まって、その歪んだ色彩が、わずかな不安と共に警戒心を増幅させる。
少女は古沢に顔を向けて、そこで初めて、彼の刺すような目線に気付いたようだった。
一瞬だけ少女の瞳に暗い光が走り、階段前の時間は止まる。
だが次の瞬間には、黒ナースの少女は笑顔に戻って、鷹揚にこう告げた。
「ああそうか、覚えていないんだったかあ。まあ仕方ないね、何しろ三年も前の話だからね」
「…………三年前?」
三年前のことを――彼女は、知っているというのか。
古沢は無意識のうちに、帽子を強く、深く押さえていた。表情には決して出さないが、鼓動が異常になっているのが自分でもわかる。意識しなければ呼吸まで止まってしまいそうだった。三年前。今の今まで何一つ得られなかった手掛かりが、突然現れたのかもしれないのだ。
そう、このタイミングで。
よりにもよっての瞬間だった。府中の問いをきっかけに、ふと三年前の欠落について考えていた、その直後。
偶然、という言葉ではもはや片付けられないだろう。こんな、豊島区を歩いていて突然地雷を踏むような確率を、こんなところで「偶然」引けるわけがない。
悪魔的――いっそ悪意的。
古沢は帽子の奥で、もう一度目を瞑った。この少女は何なんだ? 今、ここでは何が起こっている? それすらも今は、整理がつかない。過去からも現在からも置き去りにされては、いよいよ未来がない。この少女との邂逅――いや、正しくは再会か――をきっかけに、自分に一体何が起こる。というよりも、この少女は一体何をしに来た。
そして少女は、そんな古沢の様子に気付かずしてか、至って快活に続けた。
「そ、三年前。まあ色々あったんだってあの時は――さてさて。私は古沢君の旧き友・北宮
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