第3話 教師アンネリーゼ


 あの後、ディートリヒはあっさりとアンネリーゼを解放した。

 アンネリーゼは震える足を叱咤して、自室に戻った。

『私とお前だけの秘密だ』

 その言葉は、アンネリーゼの思い出を刺激した。

 アンネリーゼは10年以上前、王立図書館で魔法使いに出会った。もちろん、魔法使いなど、物語の中の存在であることはわかっているから、何かの比喩だったのだろうと彼女は思っている。

 その頃、アンネリーゼは母を亡くしたばかりだった。父は仕事に没頭しがちで、アンネリーゼは孤独だった。そんな時に出会ったのだ、魔法使いに。

 少年だったように思う。優しくて、穏やかで、滑らかな絹のような声をしていた。初恋だったのかもしれない。 魔法使いとの思い出の記憶は薄れているが、思い返す度に胸が温かくなるのだ。はっきりと覚えているのは、彼と約束したこと。

『ここで話したことは、私と、アンネリーゼだけの秘密だよ 』

 だから、アンネリーゼは彼のことを、決して誰にも話さなかった。父にも打ち明けないまま、父も既に亡い。

 ぼやけた記憶でも、辿ればアンネリーゼを慰める、大切な思い出だ。

 アンネリーゼが思い返す、その美しい夕暮れ色の記憶に、ディートリヒの低い声が割り込む。

 まるで、大切な思い出を貶されたような、情けない気持ちになったアンネリーゼである。

 いかがわしい本も結局ディートリヒに無理やり持たされてしまった。

「はあ…これからどうなるの……」

 アンネリーゼはがっくりと肩を落とした。




 眠れない夜を過ごしたアンネリーゼは、朝日の中でひとつの結論に達していた。

 ディートリヒはわざと力を抜いて、彼女に手を上げさせたのだ。

 彼はアンネリーゼが王族に暴行をはたらいたという事実を作りたかった。

 高貴な身分の人間の考えることはわからないが、彼女を弄んで暇つぶしでもしようと考えているのではないだろうか。

(今更気付いてもどうしようもないのだけれど……)

 己の不運を憂いながら、いつもの眼鏡とひっつめ髪の支度を整え、早めに出勤した。

 学院に入るなり、彼女は学院長室に連れて行かれた。

「今日は高貴な方があなたの授業をご覧になられます。粗相のないように」

 学院長の頭は朝日を浴び、眩しいほど輝いていた。



 同僚の教師との朝の挨拶もそこそこに、授業の準備を整え、教室に向かう。

 生徒たちが揃う頃を見計らって教室に向かう教師がほとんどだが、アンネリーゼはいつも一番に教室に入り、窓辺の教師用の椅子に座って、登院してくる生徒たちひとりひとりに挨拶をするようにしていた。

 眠そうであったり、元気いっぱいであったり、日によってそれぞれ挨拶は違う。

 おはよう、おはようございます、と挨拶が生徒たちの間でも交わされる。

 アンネリーゼが受け持つのは、初等科の最低学年のクラスである。授業は細かく分かれておらず、総合的な学習を行うため、クラスは担任制だ。中等科になれば、専科の教師の授業を自分たちで選択して受けることになるので、それまでの学習の素地作りという面も担う課程だ。

 いかに学ぶことの喜びを感じさせてやれるか、学問が持つ大きな可能性の片鱗でも触れさせることができるか、そして生徒の感動を共有することができるか、アンネリーゼは、自分の持ち得る力の全てで、生徒たちの指導に当たっていた。

「全員揃ったみたいね。それでは朝の会を始めましょう…」

 アンネリーゼがそう言って立ち上がった時、廊下の方から大きなざわめきが聞こえてきた。

 アンネリーゼは教室の入り口を見て、絶句した。

「おはよう、美しいアンネリーゼ。今日は一日、お前の授業を見学させてもらうよ」

 昨日とは打って変わって、略式の軍装に身を包んだディートリヒが、教室に入ってきたからだ。

 軍装に合わせたのか、ディートリヒの長い前髪は上げられて、きちんと櫛が通されていた。額が露わになると、顔立ちの完全に左右対称な美しさが強調される。

 昨夜は闇の中で妖しく輝いた緑色の瞳も、昼の日差しの中で見れば、新緑のように澄んで美しい。ディートリヒはほほ笑んだ。まるで大輪の花が開いたような華やかさだ。教室内の温度が2、3度、上がったように感じた。

「びっくりさせたようだな、アンネリーゼ。愛しい人のことは何でも知りたくなってしまうものだ。お前も私の思いをわかってくれるだろう。ああ、決して邪魔はしない。お前はいつものように、ここにいる子どもたちに勉強を教えてやってくれればいい」

 壊れた蓄音器のようにアンネリーゼが「う、あ」と呻いている隙に、好奇心旺盛で怖いもの知らずの彼女の生徒たちは、ディートリヒを囲むようにして集まっていた。彼らは流石、上流階級の子弟達である。自分達の国の桁外れの美貌を持った王のことは知っていた。身近な大人にするように、体によじ登ったりすることはなく、行儀よく、しかし鳥の雛のように我先にと口を開け、ディートリヒに話しかけた。

「王様! ひょっとしてアン先生の恋人なの?」

「アン先生と呼んでいるのか」

「うん、アン先生の授業はとっても面白いよ! でも怒るととっても怖いんだー」

「叩くのか?」

「違うよー、アン先生は最初の授業のときに鞭を捨てちゃったんだ! それで、先生は絶対に僕たちを叩かないって約束したんだよ」

「そうか」

「ねえ、王様、アン先生のあのドレス何とかなんない? うちのママだってあそこまで流行遅れなドレス着てないよ。あとあの眼鏡!」

「それは任せておいてくれ」




(流行遅れ……)

 自分でもそうは思っていたが、改めてこどもに言われるとショックである。

 それに誰だって、ディートリヒのような麗人と比べられれば、見劣りしてしまう。

 軍装はディートリヒの優れた体格を引きたてていた。広い肩幅と締まった腰、驚くほど長い脚。前髪を撫でつけているせいで、怜悧な美貌が髪に隠れることもない。

 アンネリーゼはどこかに隠れてしまいたくなる。

(眼鏡も……)

 父の形見の眼鏡である。女だてらに学問を修めるアンネリーゼに周囲は奇異の目を向けた。田舎では女は嫁いでこどもを産んで、やっと共同体の一員となることができた。そういった価値観を受け入れがたかったアンネリーゼに風当たりの強かった田舎で、唯一守ってくれた父を亡くして、アンネリーゼは眼鏡をかけるようになった。

 父がそばにいてくれるように感じられたから始めたことだった。そのうち、眼鏡をかければ、顔が隠せるように、アンネリーゼは眼鏡の下に感情を押し殺すようになった。眼鏡は彼女が自分をコントロールするために大事な道具なのだ。

 女らしく、自分を装うことなど、したこともない。

(いやだわ、私。今は仕事中なの。仕事中なのよ!)




「はい! みんなそこまで! 今日はお客様がいらしてくれたようね。折角ですし、今日の授業は野外観察にしましょう。ノートと鉛筆を用意してね」

 学院の裏手には小高い丘があった。豊かに木々が茂る森があり、小川も流れている。

 こどもたちが自然に触れるにはもってこいだ。

「国王陛下、よろしいですか」

「いいとも、愛しいアンネリーゼ」

「……陛下!」

 教室の端と端でさえ、ディートリヒからは強烈な磁力のようなものを感じる。

 アンネリーゼは頬が熱くなるのを感じた。

 外に行って風に当たれば、もう少しまともにものを考えられるような気がした。





 結局、午前中はずっと外での活動となった。

 ディートリヒは遠巻きに子供たちの様子を眺めている時もあれば、率先して虫を捕まえているときもあった。

 アンネリーゼは子供たちに生き物の生態や自然の仕組みについて、その場の教材を使って授業を行った。アンネリーゼが話し始めると、ディートリヒは静かにそれを聞いている。

 ディートリヒの視線が向けられていると思うと、アンネリーゼの舌はもつれがちになった。

「昼食までの時間、少しだけど自由時間にしましょう!」

 アンネリーゼが言うと、こどもたちは歓声を上げて遊び始めた。アンネリーゼが教えた古い伝承遊びをすっかり気に入っているのだ。

 子供たちの声を聞きながら、アンネリーゼは木陰に腰を下ろした。

「お前はよい教師なのだな、愛しのアンネリーゼ」

 低い声が静かに降ってくる。

 見上げれば、木漏れ日を受けて、ディートリヒが立っていた。

「……ふざけるのはおやめ下さい」

「ふざけてなど? 美しいアンネリーゼ」

「それがふざけていると言うのです!私を侮辱するのはやめて下さい!いくら罪人でも尊厳はあります」

「そうだな、お前は私の囚人だ。お前の体も、心も、私がとらえたのだろう?」

 ディートリヒは先ほどまで子供たちに向けていたものとは、全く違う表情をしている。

 逃げたい、アンネリーゼは思う。

「私は誰のものでもありません」

「しかし、お前は私の囚人だ」

 逃げられない、背中を向けた瞬間に、きっとディートリヒはアンネリーゼに牙をつきたてる。

 だから、こう言うしかなかった。

「はい、私は陛下の囚人です」

 アンネリーゼが屈服したことは、ディートリヒには十分伝わったようだ。

 ディートリヒの指が、アンネリーゼの顔に伸び、眼鏡を絡め取る。

「あっ…返して……」

 手品でもしているように、眼鏡はディートリヒの手の中から消えてしまう。

 ディートリヒはアンネリーゼの指に自分の指を絡ませ、アンネリーゼが寄りかかっていた幹に縫いとめた。

 反対の手がアンネリーゼの髪からピンを抜きとる。

 その間、ディートリヒの視線は、アンネリーゼの顔の上をさまよっていた。緑色の瞳に、震えるアンネリーゼが映っている。

 すっかり抜き終わったピンを、ディートリヒはアンネリーゼのスカートの膝に乗せた。

 風と共に、アンネリーゼのまとめた髪が崩れる。

 亜麻色の波打つ髪は、腰にまで届いていた。アンネリーゼの繊細な目鼻立ちを光のように縁取る。

「お前はまるで咲き初めた薔薇のようだ。朝露に濡れた」

「陛下、私には意味が」

「このように傷つきやすくあって、私をどうやって悦ばせると?」

 独り言のように呟いてから、ディートリヒはアンネリーゼに覆い被さり、口づけた。



 繋がれていない手で、アンネリーゼはディートリヒを押しのけようとする。

 その手もすぐとらわれ、顔の脇に両手を縫いとめられる。

 ぎゅっと引き結んだアンネリーゼの唇に啄むような口づけが何度も落とされる。

 ディートリヒの厚い体と、硬い幹の間に挟まれた格好のアンネリーゼは、逃げようもない。

 膝の上のヘアピンが草の上に落ちた。

「私を見ろ、アンネリーゼ」

 アンネリーゼはのろのろと目を開けた。そして後悔した。

 吐息がかかるほどの距離に、ディートリヒの美しい顔がある。ディートリヒから匂い立つ雄の色香にあてられ、アンネリーゼは眩暈をおぼえた。

「こどもたちとともにあるお前は美しかった。そして今、子兎のように震えるお前も美しい」

「嘘です! うそ、んぁっ……」

 ディートリヒは好機を見逃さなかった。開いた唇が閉じる前に、再びアンネリーゼの唇を奪い、アンネリーゼの舌を己の舌で絡め取った。

 縮こまるアンネリーゼの舌を、ディートリヒは丁寧に味わう。舌だけでなく、唇も、歯も、アンネリーゼの内側にあるものを舌で丹念になぞる。

 アンネリーゼは十分に息もつげず、ディートリヒになされるがままだ。

 羞恥と、戸惑い、不安、そんな感情に飲み込まれる。

「ふっ……」

 ディートリヒの舌が、彼女の上顎を擦り上げた時、艶めいた喘ぎが合わさった唇の合間から漏れた。

 アンネリーゼは、ディートリヒが笑った気配を感じた。

 しかしすぐにそれどころではなくなってしまう。アンネリーゼは初めての感覚に戦き、それを受け止めるだけで精一杯だ。ディートリヒの舌がアンネリーゼの口の中を擦る度に、下腹のあたりに熱がたまっていく。その熱は内側からじりじりとアンネリーゼを焼き始める。

「ふぁっ……!」

 鮮烈な刺激がアンネリーゼを襲う。涙の滲む目を開ければ、ディートリヒの手が、ドレスの上から彼女の胸を包むようにしていた。

「いやっ・・・」

 ふいに口づけが終わる。

 アンネリーゼの眦から涙が零れ落ちた。

 肩を上下させるアンネリーゼの髪をひと房手に取り、ディートリヒは口づける。

「アンネリーゼ、命令だ。これからは眼鏡をかけてはならぬ。髪を結んではならぬ」

 アンネリーゼとは正反対に、ディートリヒには髪の毛一筋ほどの乱れも見られない。

「見苦しい、ところをお見せするわけには…」

 アンネリーゼが絞り出した声は裏返ってしまった。

「お前の今までの格好こそが見苦しいと言っておるのだ」

「眼鏡は、父の、形見です」

「ならばなおのこと、私が預かっておこう。お前が罪を忘れ、私から逃げてしまわないように」






「アンせんせー! せんせー、見てー!」

 こどもの一人がかけてくる。アンネリーゼがびくりと肩を揺らして子どもの方を振り返った瞬間、勢いが過ぎて前につんのめったこどもは、そのまま前に転んでしまう。

「ダミアン!」

 アンネリーゼが駆け寄ろうとするよりも早くディートリヒがダミアンのもとに歩み寄った。

 彼はダミアンを抱きあげて、何事か耳元で囁いた。しかしダミアンが泣きやむ気配はない。

 それを横に突っ立って見ることになったアンネリーゼは、じりじりとした思いに駆られ、先ほどまでディートリヒにされていたことも頭から抜け落ちてしまった。

 ついには手を伸ばし、横から子どもを奪い取る。

「見せかけの優しさは子どもに伝わります」

 自分の唇から発した言葉の無礼さに、アンネリーゼは「あっ」と口ごもった。

 国王という身分にありながら、転んだこどものために身を屈め、抱き上げた、そのことは彼の美徳と称されるべきだ。だが、アンネリーゼは違うと感じていた。アンネリーゼだって、転んだこどもに手を伸ばす、抱き上げてあやすだろう。しかし、ディートリヒの行動は違うと感じていた。直観的過ぎて、うまく説明できないが、絶対的な差異を感じる。

 ダミアンを抱いたまま、視線をさまよわせるアンネリーゼを見て、ディートリヒは笑みを深めた。

「本当にお前はよい教師であるようだ。オールドミスで美しい、愛しのアンネリーゼ」

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