第2話 王都
1『王都』
アンネリーゼは、汗で滑り落ちた眼鏡のブリッジを、人差し指で押し上げた。
トンネルを通過した汽車の窓に、鮮やかな青空と石畳とレンガ作りの高い建物の街並みが広がった。トンネルの中では、汽車の煙が窓から入ってきてしまうため、窓を閉め切っていた。人いきれでむっとした車内の空気は、肌にまとわりつくようで、アンネリーゼは急いで窓を開けた。
鼻腔に、街の匂いが広がる。草や水のにおいとは違う。また別の魅惑的な匂いだ。
もうすぐ、汽車が王都中央駅に乗り入れる。
アンネリーゼはしっかりと荷物を抱えなおしてから、正面の座席に座る弟に声をかけた。
「ニコラス、いい? 駅は人がたくさんいるわ。はぐれないように、決して手を放してはだめよ」
「わかってるよ、姉さん。全く心配症だなあ。こんな時まで先生気取りのオールドミス!」
「おやつは抜きね! ニコ」
「えぇー、そんなのひどいよ・・・・・・」
ニコラスの言うことは概ね正しい。アンネリーゼは26歳になる。女性としての適齢期は終わりかけだ。
アンネリーゼのひっつめにした髪は、手入れを怠っているせいで枯葉色に見える。眼鏡の縁は女性がするには厳つくがっしりとしたフレームで、顔の造作を野暮ったくしていた。流行遅れの質素な衣装は、アンネリーゼの体の曲線をすっかり隠してしまっている。
アンネリーゼの豊かに波打つ髪を、亜麻色ともカフェオレ色とも言って愛した父は、流行り病でずいぶん前に亡くなった。
父のあとを継いで、田舎で教師をしていたアンネリーゼは、この度、王立学院の初等部の教師として召喚された。
26歳と言えば、嫁き遅れもいいところである。特に田舎では。口さがない人々に嫌気をさすこともしばしばであったし、アンネリーゼには養う家族がいて、王立学院の仕事は高い給金が保証される。アンネリーゼに王都へ出ることへの迷いはなかった。
ニコラスはアンネリーゼと年の離れた弟だ。それもそのはず、二人に血の繋がりはない。流行り病で両親を亡くしたニコラスを、アンネリーゼの父は家族に迎えた。それからしばらくして、父も同じ病に倒れた。
アンネリーゼは病を憎まなかった。父が亡くなった時に、それでもニコラスという家族を残してくれたことを、神に感謝した。
アンネリーゼとニコラスが残された時、アンネリーゼは18、ニコラスはたったの3つだった。
今や、11歳になったニコラスは、アンネリーゼに対して立派に生意気な口もきくようになった。これから、頼るもののいない王都で、アンネリーゼとニコラスは生活する。ニコラスには社会の一員として自立した大人になるという課題が待っている。その日はさほど遠くはあるまい。アンネリーゼの役割は、終盤に至っているのだ。
「姉さん! すごいよ、馬車があんなに沢山! あれはガス灯だね!」
「ニコ、あんまり窓から身を乗り出さないで」
ニコラスの黒髪が風に揺れる。それはまるで、アンネリーゼの胸の奥に潜んだ不安を象徴するように、青空にくっきりしたコントラストをなしていた。
1-2『新生活』
ニコラスは中等部の学生寮に入寮することになった。
意気揚々と寮監に案内されるニコラスに比べ、アンネリーゼの表情は沈んだ。
しかし、新学期が始まると、ニコラスの心配をすることも忘れるほど、アンネリーゼの毎日は一気に忙しくなった。
いくらアンネリーゼが優秀な教師であったとしても、物事が軌道に乗るにはそれなりの時間と労力を要する。これまで勤務していた学校とは進度の違う授業の組み立てに四苦八苦しながら、また、王立学院は身分のある家の子息も多く、アンネリーゼを田舎者と侮るものも多い。授業の準備は深夜にまで及んだ。
そうこうするうちに、アンネリーゼが王立学院に勤務してからあっという間に一週間が過ぎた。
その間、彼女とニコラスとは時折廊下ですれ違うのみで、ろくに会話をすることもなかったが、彼は学生生活を楽しんでいるようだった。
1-3『ニコラスの我がまま』
二週間目に突入する前日の夕方、教師用に割り当てられたアンネリーゼの部屋を、ニコラスが訪れた。
驚いたアンネリーゼは、それでも大いに喜んでいそいそとお茶の用意を始めた。そんなアンネリーゼにお構いなしに、ニコラスは一方的に話し出した。
『姉さん、王立図書館に、いかがわしい本が置いてある秘密の図書室があるらしいんだ。姉さんなら何とか持ってこられるだろ? 友達に約束しちゃったんだよ』
ニコラスはアンネリーゼに平身低頭の体で懇願した。黒瞳を潤ませたニコラスは、甘えた口調でアンネリーゼに言い募る。
ニコラスはお調子者のきらいもあるものの、そこには新しい環境で育ちの違う友人たちになじもうとする必死さが透けて見えた。
そうすると、アンネリーゼはニコラスの懇願を突っぱねることができなくなってしまう。アンネリーゼはよくないとわかっていても、つい弟を甘やかしてしまうのだ。
ニコラスはお茶を飲むこともなく、自分の寮へと帰って行った。
時間は深夜、月が中天にある。アンネリーゼはおどおどと周りを見回した。人気のない図書館は、すっかり慣れ親しんだ場所であるのによそよそしい。
ニコラスに押し負けたアンネリーゼは簡単な夕食を早めに取ってから、授業の準備の名目のもと、図書館に入り、閉館時間までやり過ごした。そして、この一週間でずいぶん仲良くなった司書に、特別に許可を貰って、アンネリーゼは閉館後の図書館にひとり残った。司書のリンダは夫を亡くした年配の女性で、アンネリーゼに同情的で、何かと便宜を図ってくれていた。
図書館には闇と沈黙が満ちていた。
手元に揺れるランプの灯りと、月明かりだけを頼りにして、アンネリーゼは探索を始めた。
「ここ…かしら」
ニコラスによると、秘密の図書室は地下にあるらしかった。
なるほど、確かに図書館の書庫を通って最北ーこれは最も王宮側に位置するーの階段には地下に続く扉がひっそりと存在していた。
二階の踊り場の影になり、ぱっと見には気付かないだろう。
扉には鍵がある。アンネリーゼは、鍵がかかって扉があかないことを祈った。
しかし、ドアノブは軽々と回り、あっけなく扉は開いた。
扉の向こうには地下への階段が続いていた。
コツコツとアンネリーゼの足音が響く。
暗がりに目を凝らすアンネリーゼは眼鏡を外し、ポケットに入れた。慣れない王都での生活である。一日も終わる頃になればくたくたで、目も疲れきっていた。もとから眼鏡に度は入っていない。度の入っていたレンズはもとの持ち主、アンネリーゼの父の棺に入れた。
すると、闇にアンネリーゼの繊細な容貌が浮かび上がる。おしろいを塗らずとも白い卵型の顔は、空に浮かぶ月のようだ。目鼻立ちは年齢に比べ、幼いと言ってもいいくらいだ。大きな目と、小さな形のよい鼻、今は青ざめたぷくりと膨らんだ唇。ひとつひとつのパーツは整っていてもつつましい。しかし、これらが絶妙の配置で置かれているので、見たものをはっとさせるような引力のある、透き通った美しさが溢れていた。
アンネリーゼは知るべくもないが、ことに、その琥珀色の瞳は、月夜に落とした宝石のように輝いていた。
闇の中からその輝きを追う者がいることに、アンネリーゼが気付くはずもなかった。
1-4『白蛇公との出会い』
階段を降り切った地下室には厚い絨毯が敷かれており、アンネリーゼの靴は沈み込んだ。
それを居心地悪く感じながら、アンネリーゼは地下室を見回す。
天井には明かりとりの窓があり、吹き抜けから差す月明かりが、十分に室内を照らしていた。
書架には本がぎっしりと納まっている。
「縫物の本の隣に政治の本? 物理学の隣には風刺画集……ばらばらもいいところだわ」
本は分類もされずに並べられていた。ジャンルも難解さもてんで揃っていない。
なじみの司書がこんな仕事をするとは考えにくい。
先ほど会話したリンダの様子を思い浮かべて、はた、とアンネリーゼはなすべきことを思い出す。
「もう、いかがわしい本なんて…。いかがわしい…いかがわしい……これかしら」
ほどなくして、目当ての本は見つかった。『淑女による紳士の悦ばせ方』。表紙には肌も露わな男女が蛇のように絡まっている。
「……はぁ……」
アンネリーゼは表紙だけを見て、中は確認しなかった。
本を小脇に抱え、図書室を去ろうとする、その後ろ姿に、低い声がかけられた。
「……その本を持ってどこに行く気だ?」
アンネリーゼははっと振り向いた。
足音もなく誰かが彼女のほうへ向かってくる。ゆっくりと、しかし先ほどまでは感じなかった気配が迫ってくる。
ぎゅっと本を握りしめて、アンネリーゼは唇を噛みしめた。
「どなた? ……人を呼びますよ」
アンネリーゼが腹に力を入れて発した言葉を聞いて、相手は喉奥で笑った。
「ひとを呼んで困るのは、お前のほうではないのか?」
ひときわ明るく月の光が図書室に差す。
光を浴びて、ひとりの人物が闇の中から現れた。
アンネリーゼは思わず息を飲んだ。
(月の精……? いえ、もっと……)
月の光をそのまま紡いだかのようなプラチナブロンド、瞳は深いエメラルドだ。肌は金色に輝いていた。驚くほど背が高い。
彼はアンネリーゼを見ると、目を眇めた。肩にかかった銀髪を後ろへ払う。髪がきらきらと月光を反射した。
アンネリーゼは彼から目が離せなかった。
高い鼻梁と滑らかな額、頬から顎へのすっきりとした輪郭、神々しいほど整った容貌であった。
しかし、整ったというだけでなく、長い睫毛に縁取られた目は、筆を払ったように目尻が長い。どこか異国のにおいも感じられる。露わになった額、凛々しい眉の下の右目は鋭い光が、右目には左の額から流された前髪がうっすらと銀色の膜のようにかかって謎めいた光を放っている。
アンネリーゼはその光に縫いとめられたかのように、立ち尽くした。
「新しい教師は、野暮ったいオールドミスだと聞いていたが、盗人であったか」
彼の引き締まった口元に笑みが浮かぶ。
アンネリーゼはかっと頬が熱くなるのを感じた。すると、こわばっていた唇から、悲鳴のような声が出た。
「盗人などではありません! 借りようと思っただけです」
彼がアンネリーゼのほうへ一歩踏み出す。
アンネリーゼが後ずさるよりも先に、その一歩で、彼はアンネリーゼと触れあうほど近くまで動いていた。無駄のない動きで伸ばされた手に、抗う間もなく本が移る。彼は、ページをめくり中身を確かめてから、本を閉じ、表紙をノックするように叩いた。
「ほう、このような本を借りていかがすると? 借りると言ったが、この部屋の本は全て持ち出しを禁じている」
「禁じてって、誰の権限で…!」
アンネリーゼは恥ずかしさと怒りに駆られて、本を取り返そうと手を伸ばした。
すっと身をかわしながら彼はアンネリーゼの手をひねり上げた。
「くっ…!」
アンネリーゼは苦痛の悲鳴を呑み込む。
彼はアンネリーゼの琥珀色の瞳を覗き込んで言った。
「私の権限だよ、かわいい盗人。この部屋の本は全て国王である私の本だ。知らなかったでは済まされない」
彼は、アンネリーゼの手を彼女の背でねじり上げたまま、空いた片方の手で、読書机の上に積まれている新聞の中から一部を抜き、アンネリーゼの眼前に広げた。そこには目の前の人物の顔が印刷されている。大きな見出しは嫌でも目に入った。
ひく、とアンネリーゼは喉を震わせた。よく見れば、彼の異国風のゆったりとした衣装は、帯に金糸の刺繍がぎっしりと施してある。剣帯はよく磨かれた皮でぴかぴかと光っていた。腰に刷いた剣の柄にはダイヤモンドがはまっている。
そして何よりこの美貌。月の王とでも言うべき圧倒的な存在感。田舎にも伝わっていた国王の姿に相違ない。
彼ーディートリヒ・フォン・ヴァイゼンブルグー白峰公とも呼ばれ、在位16年にして賢君の誉れ高き、グランツェンラント国王は、アンネリーゼをやすやすと拘束し、猫のように目を細めた。
ぞくりとアンネリーゼは寒気を感じた。彫刻のように整った凛々しい美貌が、表情を乗せる、わずかに歪むことに、恐怖を感じるなどと思ってもみなかった。
しかし、アンネリーゼの反骨精神が、ディートリヒに屈服することをよしとしなかった。
「随分、雑多なご蔵書ですわね。僭越ながら申し上げますと、司書のリンダ様に整理をお願いしたほうがよろしいのではないでしょうか?」
アンネリーゼは女性にしては平均的な身長だ。だが、ディートリヒに手首を後ろ手にされていると、うんと首を仰のかせなければいけない。胸は触れないよう、背骨が痛むほど体を反らす。けれど、目は離さない。卑屈に見上げるような真似はしたくない。そんなアンネリーゼの気持ちは、彼女の明るい琥珀の瞳にありありと浮かんでいた。
「威勢のよいことだ」
「お手をお放しくださいませ。お邪魔をしてしまったことは謝罪します」
「児戯でもあるまいし、謝ってそれで済むということでもなかろう? いい年した大人がそのくらいのこともわからんのか。それで教師とは、学院の品位も落ちたものだ」
アンネリーゼの瞳に怒りが滾る。
ディートリヒは言外に、アンネリーゼの年齢を揶揄し、アンネリーゼの学問を馬鹿にしている。
「お放しください!」
カッとした。お転婆すぎる、淑女たるために努力せよ、彼女の苛烈な性格を、父は口が酸っぱくなるほど注意してから「男であっても良かった」と笑った。
ただ女性であるというだけで、世間のなんと理不尽なことか。
そういった今まで彼女が歩んできた、決して平坦ではない日々への思いと、新生活での鬱屈した思いとが、ディートリヒにぶつけられた。
ぱしんーーー。
乾いた音が図書室に響く。
「あっ……」
ディートリヒの手を振り払おうとして、勢い余ったアンネリーゼの手が、彼の頬を打った。
一呼吸おいて、アンネリーゼは事態の重大さに気がついた。国王に手を上げてしまった。
アンネリーゼの顔が蒼白になる。
ディートリヒは打たれた頬を軽く拭うようにして、それから面白くて堪らないというように唇を弓なりに吊り上げた。
「お前、名は」
「ア、アンネリーゼ・リンツと申します」
「アンネリーゼ、お前は罪を犯した」
彼女は決してディートリヒの、自分を断罪しようとする国王の緑柱石の瞳から目を逸らさなかった。
「はい、私は軽率な振る舞いをしました」
「この本、誰に頼まれて取りに来た」
見透かされている。アンネリーゼは眦をきっと上げた。
「私の意志です」
「大方、学院の少年たちの度胸試しであろう。女に頼むようではたかが知れているが」
「重ねて申し上げます。私の意志にほかなりません」
「婚期を逃した女性が、男の悦ばせ方を書いた本を必要とするのか」
「……私のような女であっても、男性を悦ばせることはできます」
とうとうディートリヒは声を上げて笑い出した。
アンネリーゼの顔からはますます血の気が失せていく。
「ではアンネリーゼ、お前はこれから罪を購うために、私を悦ばせるのだ。私が満足すれば、それでお前の罪を公に問うことはすまい。誰にも累は及ばん。これは私とお前だけの秘密だ」
ディートリヒは笑っている。
この国王は、即位したとき若干18歳の若者であった。
腐敗した内政から膿を絞り出し、彼は、有能なものを身分を問わず採用した。軍規を改め、兵たちの生活を保障し、十分な訓練と、高い誇りを身に付けさせた。彼らは政府主導の事業における優秀な指揮官・人員となった。道は舗装され、下水が整備され、衛生環境は格段によくなった。初等教育の無償化などの数々の政策を行い、瞬く間にこの国を先進国へと導いた。国民たちは彼を賢君という。確かに、為政者としての手腕には素晴らしかった。しかし、それは国王のある一面である。
贅沢と戦争を好んだ先の王が崩御して王座についた彼は、まず、先王の側近であった大臣や貴族達を粛清した。親類縁者に至るまで根絶やしにし、即位して七日で、王宮を血の海にしたという冷酷さを畏れて、近隣の諸外国では、彼をこう呼ぶのだ。
白蛇公、青い血の王と。
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