第4話 彼女を囲む人びと
眼鏡もなく髪をおろしたアンネリーゼを見て、生徒達は大いに盛り上がった。
アンネリーゼはその理由を考えることを放棄したまま、今日の仕事を終えた。
同僚も奇妙な顔をしていて、アンネリーゼは相手がな話しかけられる前に逃げるように職場を後にした。
すぐに自室にこもってしまおうと急いだ彼女だが、自室のドアの前に人影を見つけて廊下の角に立ち止まる。
そこにはニコラスと彼の友人らしき少年が立っていた。
茶色い髪をした落ち着いた雰囲気の少年である。
彼とニコラスは真剣な顔で話をしている。その内容がアンネリーゼの耳にも届く。
「国王陛下は女遊びが激しかったんだろ。姉さんにちょっかいかけるなんて、良くないことに決まってるじゃないか!」
その言葉は、深くアンネリーゼの胸に突き刺さった。
「姉さんはこれまで男を寄せ付けなかった。お前も姉さんを見かけたならわかるだろ。姉さんはそういうんじゃないんだ。いつもの遊び相手と毛色の違う姉さんを弄ぼうってんなら許せるわけがない!」
「ニコ…ちょっと落ち着いて」
ニコラスは自分の言葉に興奮してしまっているようだ。肩を上下させて憤るニコラスを、同級生が背中を叩いてなだめる。
アンネリーゼは踵を返して図書館へと向かった。今、アンネリーゼにニコラスを安心させてやることはできそうになかった。
「まあ、どうしたのアンネリーゼ!」
リンダは、アンネリーゼの顔を見るなり、彼女にしては珍しく驚いた様子を見せた。
リンダは司書の仕事を中断して、アンネリーゼを閉架図書を置いてある書庫へと連れて行った。
そこには、書庫の奥にはふかふかした敷物とクッションが幾つも置いてあった。
「いいでしょ、私の秘密の場所なの」
リンダはアンネリーゼにウィンクをした。
図書館には秘密の場所ばかりだ!
アンネリーゼを座らせ、クッションに凭れかけさせる。体が沈み込む感触に、アンネリーゼは深く息を吐いた。一日の緊張からくる疲労が体から溢れ出るようだ。
おそらくリンダの耳にもすでに噂は届いているのだろう。
何があったかとはリンダは聞かなかった。
リンダはいそいそと立ち回り、アンネリーゼの口に角砂糖を放り込んでから、お茶とお菓子の乗ったトレーと籐で編んだ籠を持ってくる。
「たまにはお行儀を気にせずにお菓子を食べましょう」
リンダはもう60に届く年齢の筈だ。それにしてもふと見せるちゃめっけのある表情や、弾むような仕草が何とも愛らしい。
「リンダ様は、とてもかわいらしい方ですね…」
ぽつりとアンネリーゼが言うと、リンダは笑った。
「アンネリーゼはとてもきれいだわ」
「私は…だめです。自分でもよくわかっています。女としての魅力に欠けているんです」
性格は負けず嫌いで、後先考えずに行動してしまう。のめりこめば他のものは見えなくなり、よく失敗してしまう。
ディートリヒのこともそうだ。
彼にとってはアンネリーゼは暇つぶしの道具に過ぎないのだろう。しかし、アンネリーゼにとってディートリヒの存在は彼女の世界を大きく揺らがしている。
『みすぼらしい嫁き遅れ』『本の虫』田舎でよく浴びせられた言葉だ。
ただ聞き流せば良かった。受け入れたふりで、何も感じないようにしていればよかったのだ。アンネリーゼは言葉を自分のうちに留めず、その言葉の主たちに対しては固く心を閉ざした。
けれどもディートリヒは彼女のルールにお構いなしに、アンネリーゼに触れてくる。
あの緑色の瞳に映った弱々しい自分、あれはアンネリーゼの劣等感そのものだ。
『どうして、みんな私のことをおバカちゃんだと思うのかしら』
『ひとは見たいものしか見ない生き物だからね』
はっとした。確か、図書館で出会った魔法使いと彼女は、そんな言葉を交わした。
続きは確か…思い出そうとして己のうちに没頭しかけたアンネリーゼを、リンダの声が遮った。
「あなたのような美しい女性が、男性と対等にやり合うには自分の持つ美しさを捨てるのが手っ取り早かったのかもしれないわ。でもね、アンネリーゼ。自分で自分を否定してはいけないわ。どんなことであっても、あなたの一部なのだから」
籐のかごからは豚毛のブラシが出てきた。
リンダはまず、アンネリーゼの髪に艶が出るまで、丹念にアンネリーゼの髪を梳かした。痛んだ毛先には油を塗って熱く蒸した布でくるむ。
「淑女の身だしなみについて、リンツ博士が教えたとは思えないわ」
「父をご存知でしたか」
「この王宮にいる古いもので、彼を知らない人はいないのじゃないかしら?ハインツ・リンツ博士。皆に親しまれて、ツンツン博士なんて呼ばれてもいたわ。あなたのお母様も存じ上げていてよ。私はその頃家に閉じこもっていて、お姿を遠くから拝見しただけだけれど、とても美しい方でした。芸術の才能に溢れていて、この図書館にも彼女が挿絵をした本がいくつかありますよ」
父も母も天涯孤独だった。特に母は定住せず旅を続ける民族の出身であったと、アンネリーゼは教えられていた。
父と恋に落ちて、仲間と別れ・・・・・・若くして亡くなった母の思い出は断片的でまとまりがない。けれど、そのどれもで母は笑っていて、きっと幸福であったのだろうと、アンネリーゼは思っている。病の進行とともに伏せることが増えても、母は変わらなかった。
「お母様譲りの琥珀色の瞳。きっと誰もが吸い込まれそうだと感嘆するわね。あなたは金色と白でできている、おとぎ話に出てくる光の精のようだわ」
「妖精と言うほど若くありません」
「肌の張りも十代と言ってもおかしくありませんよ。年齢を言い訳にして、自分の目を塞ぐのはおよしなさい。さあ鏡をご覧になって」
渡された手鏡を恐る恐る覗き込む。
そこには色の薄い金髪に、蜜色の目をした女性が映っていた。
少しだけ整えた眉はアンネリーゼの小さな顔をより小さく、反対に目は大きく見せていた。
重たげに目を縁取る睫と、温まった蜂蜜のような瞳。そっとつまみ上げたような繊細な鼻の形。ほんのりと紅をさされた唇はさくらんぼのようだ。
まばたきをするアンネリーゼにリンダは苦笑した。
「おそらくあなたはわからないでしょうけど、あなたを見て美しいと思わない殿方はこの国にはいないでしょうね」
「・・・・・・そうでしょうか」
リンダは居住まいを正した。つられてアンネリーゼも座り直す。
「国王陛下は確かに恐ろしい方です。気まぐれに残酷なことをなさる部分と、為政者として優れた部分を、同じくらいお持ちです。幼い頃から天才と呼ばれた陛下は、全てに飽き飽きされているのかも知れません」
「では、陛下のきまぐれが、今は私に向けられているということなのでしょう」
「私はあなたが大好きですよ、アンネリーゼ。もっと自信をお持ちなさい」
その後は二人でお茶を飲み、お菓子を食べた。リンダはいつものように本の話をし、アンネリーゼは相槌を打った。
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