第62話「谷底は漆黒」

 旅に足止めは付物だ。

 それはどれだけ急いでいようが、雨が激しさを増そうが待ってくれはしない。待っていてくれるのはこちらを捕食しようとする得体のしれない化物共と予想だにしないトラブルだけだ。

 

 そう、さっきまでが得体のしれない化物。そして今目の前に広がっているのが予想だにしていなかったトラブルってわけだ。

 

「なんだ……これ。どうなってるんだ……」


 俺は目の前に広がる光景に唖然としていた。

 草原地帯が突然終わったかと思えば、そこには底の見えない深い谷が行く手を阻んでいたのだ。

 向う岸までの距離が遠すぎて目測で正確な距離感がつかめない。

 

 第一に見た瞬間に谷だと思ったのは向こうまでの距離だけを見ての事ではない。右から左へと見渡せばどちらも終わりが見えなかったからだ。即ち目の前に出現した大きい穴ではなく、左右に長く伸びる巨大な亀裂だと予想しての事だ。  


 無論、事前情報では陸続きであり、行商人も行き来することから徒歩での移動に問題がないはずだった。誰もこの谷の存在を口にすることもなく、地図にさえ一斉記されてはいなかったのだ。


 そうなれば、考えられるのは二つ。

 一つは地図にも記すことができず、口伝することも出来ない理由がある。しかし、隠しておく理由もなければ、これだけの規模であれば自然に耳に入りそうなものである。

 

 二つ目は突然発生したという事。

 これは、思い当たる節がある。本の数刻前に起きた巨大地震が原因であると断定してしまえば、全てに合点がいく。

 勿論、状況証拠を鵜呑みにするのは危険だが、仮にそうしたとしても不利益になるようなことはないだろう。


「アマト、これってもしかしてさっきの地震のせいなんじゃ……」


「こんな谷があるなんて聞いたことないにゃ」


「恐らく、地震によるものだろうな。スペラが知らないのも納得がいく。いくらなんでも近くの村に住んでたスペラがこれだけ大規模な亀裂の存在を知らないなんてことはないだろうし」


 俺は二人の同意を得たくて口に出していた。間違った情報だった場合に他人を巻き込むのは危険なのだが、それ以上に自分の心の平穏を保つ方が得策だと思ったからだ。

 軍隊における間違った指揮官の発現に同意を求める行為そのものは独裁を生み出すと、歴史が物語っている。俺の場合は単に自分の心の弱さが露呈するのを隠しておきたかっただけなのだが、それを語ることはできない。


「どうするの? 向うまで精霊術を使えば飛んでいけないこともないと思うんだけど……」


「やめておこう。少なく見積もって向う岸まで1キロメートルはあるだろうし、暗くて良く見えけど谷底も浅くても数百メートルはあるはずだから、落ちたらまず助からない。精霊術で飛んでいくって話も本気じゃないんだろ?」


「うん……」


 ユイナは申し訳なさそうに、顔を背ける。一度森で精霊魔法を使って空を飛んでいるのだが、その結果を鑑みて判断したわけではない。陽射しが遮られているとはいえ幅が1キロメートルもあるのに底が見えないなど常識の範疇を越えている。

 

 飛び越える途中でモンスターに襲われれば終わり。空中にマナが満ちているとも限らないので外部のエネルギーに頼るのは危険。さらに言えば、谷の上空が安全とは言い切れないのだ。それはモンスターの有無ではなくて、特殊な環境にある可能性だ。


 元の世界でもこういう特殊な環境下であれば飛行機が墜落したり、突然消えたというバミューダトライアングルのような常識の範囲から逸脱した条件にさらされている可能性すらある。

 石橋をたたいて渡るように叩き過ぎて渡らないくらいでちょうどいい。


「谷から少し距離を開けて谷沿いに歩いて迂回しよう。向かうは西と言いたいところだが、見た感じでは西では来た道を戻ることになる。少しでも先に進むならば東からの方が良いと思う。幸いにも海水の流れ込む音は聞こえてこないところをみると、東の果てまで迂回する心配はなさそうだしな」  


 方位磁石で確認すると、谷は東北東から西南西に首都アルティアとタミエークの町を別つように伸びている。質のところ距離感から東を選んだわけではなかった。

 俺達の今いる場所が地図上では東に位置していた。この世界が必ずしも球体の惑星だとは限らないが、もしも地球のような球体なのだと仮定した場合、東から西へと真っ直ぐ進めば再びこの場所へとたどり着くことになる。


 ひとまず首都アルティアを目指してはいるが、最終的な目的地ではない。ならば東から西へと辿れるルートをとるのががセオリーというもの。地図は現在地よりも西の方が広くとられていたので、情報量が多い方へと向かうことで生存の可能性を少しでも上げたい。


「こんなに大きな亀裂ができる程の地震だと思わなかったよ。巻き込まれなくてよかったね……」


 ユイナの何気ない一言に冷や汗が出る。本当にたわいない言葉に過ぎない……と聞き流すことは出来ない。 


(巻き込まれなくてよかった? 巻き込まれていたらどうなっていたんだ……)


 この亀裂がただの副産物ならばその衝撃は破壊的な威力をもたらしたことだろう。

 まともに受ければ助かることはない。直接事象に巻き込まれなくとも、亀裂の発生に巻き込まれれば今頃谷底の染みにでもなっていただろう。


「もう、起こってしまったことを考えていても仕方がないにゃ。忘れて気楽な旅をしていたほうが楽しいのにゃ」


 にゃははと笑う猫耳少女と、不安げなハーフエルフの少女は俺の言葉を待っているかのように俺を一直線に見つめる。 


「行こう」


「うん」


「行くにゃ」


 雨音がより一層強まり風も次第に強まる中、東に向かって進路を変えて歩み始めた。左手には深く底の見えない漆黒の闇が広がっている。

 疾風に煽られて谷底に落ちるようなことがないように十分に距離をとって歩いていくことにする。

 柵などが一切ない地面の淵というものは想像以上に恐怖を駆り立てる。脆くなっていた地面は容赦なく土砂崩れを引き起こし、大量の土砂と共に谷を滑り落ちていく。


 地盤が雨と地震によって相当脆くなっているのだろう。至る所で谷底へと吸い込まれ彼のように地表のあらゆるものが落ちていく惨状を目にする。

 岩石であろうと大木であろうと容赦なく谷底へと導いていくが、やはり着地を知らせる音は響くことはない。


 どこか別の世界にでも繋がっているのではないかと思える程真っ暗な闇が俺達を手招きしているかのような錯覚すらする。もしかしたらここから飛び降りれば、元の世界に帰れるかもしれない。

 この苦痛と恐怖に満ち溢れた世界から抜け出せるかもしれないと思うと自然に谷の方へと足が進みそうになるが不思議と飛び込もうとはしなかった。


 今は一人で元の世界に帰るわけにはいかない。ユイナと一緒でなければ意味がないし、スペラの父親も探し出さなければいけない。

 なんといっても、ここから飛び降りて元の世界に戻れるわけなど無いと本当はわかっている。

 飛び降りてこの苦痛から解放されたいなんて逃げ以外のなにものでもない。


「アマト、どうしたの?」


「本当に真っ暗だなって思って……。そこがわからないってことはもしかしたら、元の世界に繋がっているのかもしれないなんて思ったんだ」


「私はそうは思わないよ。元の世界に繋がっているのならもっと明るい光が差し込むくらいじゃないといけないと思う。こんなに真っ暗闇な世界に何て戻りたくはないでしょ。ここがどこかに繋がってるとしたら地獄か何かじゃないかな」


 ユイナのいうことはよくわかる。

 夢と希望に満ちた世界だというならば虹色に煌いているくらいでちょうど良い。

 

「アーニャとユーニャは何の話をしているんだにゃ?」


「こことは違う別の世界の話をしてたんだ……」


「スペラにも見せてあげたいなぁ。ショッピングモールとか高層ビルとかね」


「なんだか聞いたことない言葉にゃ」


「でもロボットが存在するみたいだし、若しかしたら高層ビルがあっても不思議じゃない気もするんだよなぁ」


 スペラは俺達がおとぎ話の世界の話をしていると思っているのか、羨望の眼差しを向けている。

 俺にとってはこの世界の方がよっぽどファンタジーなのだが、もうすでに慣れてしまっている為かこの世界が現実ではないとは微塵も思わなくなっていた。


 今はただ、目的地に向かって進むのみ。余計なことに意識を向ける必要はどこにもない。

 足止めされたことでより一層雨に打たれる事になったが、気にすることなく先を急ぐ。

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