『ニセコイ』論のためのメモ――二種類の"true end"をめぐる問題

田中校

二種類の"true end"をめぐる問題

以下の文章は2013年の秋、『ニセコイ』がアニメ放映される直前に書いたものです。もうすぐ本誌において結末を迎えそうだということで、その「結末」について当時考えていたことをここに再掲します。


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最近、『ニセコイ』についてよく考えている。


ジャンプにおいて長期連載されたハーレムラブコメと言えば、これの前なら『ToLoveる』だし、さらにその前なら『いちご100%』になると思うのだけど、『ニセコイ』は、前者の「コメ」成分と、後者の「ラブ」成分をうまく取り込んでしまったことによって、なんだか複雑な問題を抱えてしまっているのではないだろうか。



まず、『いちご100%』について。


この作品のラストに不満を覚えた人が少なくないということは、身近な知り合いとネットの反応、両方から感じられる。すなわち、真中が東城でなく、西野と結ばれたという結末である。なぜこれに不満が噴出するかといえば、作品を読めば明らかなように(Wikiのあらすじ参照)、東城こそがこの物語の"true end"だったからだ。もっと言えば、西野は真中に"true end"だと「誤認」されることによって知り合い、(真中にとっては偽りの)恋愛関係を取り結ぶことになったのであった。


ではなぜ真中は"true end"に向かわなかったのか。理由は物語内と物語外、双方にひとつずつ見出すことができる。どちらも単純な事実である。物語内において、真中が誠実な性格であったこと。そして物語外において、連載が長期化したこと 。

(この場合の「誠実さ」とは単純に読者から見た特性でなく、作品内の力学によって成立している/していざるをえない性格として読者から要請される「つじつま」である。すなわち、もし真中が「誠実」でなかったとしたら、なぜ彼はあんなにも多くの女性から好意を抱かれることができたのだろうか?)


『いちご100%』は、約3年半におよび連載されていた。言うまでもなく、ジャンプという雑誌は人気が上がれば連載が長期化し、下がれば打ち切られるシステムで動いているのだから、特に強いストーリーラインを持たないラブコメというジャンルにおいて、3年半という時間は結構なものである。たとえば、近年終了した作品で『いちご100%』と同じくらい続いたものとして『バクマン』があるが(前者は全19巻、後者は全20巻)、「そのつど話を継ぎ足していく」雰囲気は、やはり『いちご』の方にこそ強く感じられるだろう。だから、こう言うことができる。真中は連載の長期化に応じて、誰を選ぶかという決断を引き延ばすことになった。


そして重要なのは、連載の長期化によって物語内の時間が長くなるほど、自身の決断に誠実な真中は、一番最初に下してしまった決断と、その決断によって(連載期間にして)3年半もの間育まれてきた西野との関係にこそ、誠実にならなければいけなかったということだ。



このようなジレンマを一般化すると、このようになる。誠実な主人公は、連載が長引くほど、最初に取り結んだ関係こそを大切にするようになり、"true end"からはどんどんと離れていってしまう。


この一般化には意味がある。なぜなら、『ToLoveる』も『ニセコイ』も、このような構造・「いちご100%コンプレックス」とでも言うべきものを継承してしまっているからである。


しかし『ToLoveる』に関して言えば、この作品は「いちご100%コンプレックス」に潜む問題を特殊な変形によって回避している。リトにとっての春菜は真中にとっての東城に、ララは西野に対応しているが、では"true end"が春菜かといえばそうではなく、むしろその座はララに移動している。つまり、リトは真中と同様のジレンマ(本当は春菜のことが好きなのだが、連載の長期化にともないララを選ぶ必然性が増してしまう)を背負うことになるが、それは物語的には「アリ」なのだ。だがこれは、この作品のコメディ成分を成り立たせるためのあくまで前提でしかない。重要なポイントは、そもそもリトが、誰も選ばなくて良いということである。ラブコメの「コメ」の方に比重が置かれた本作は、ラストに決断を迎える必要がない。『ToLoveる』における「いちご100%コンプレックス」は、リトのジレンマを保存しておく限り連載をいくらでも長期化できるという、便利なシステムのための初期設定にすぎない。このように言うとネガティブに聞こえるが、これはこれで「ラブコメ」を成立させるためのひとつの最適解だ。



さて、『ニセコイ』である。本作は『ToLoveる』が綺麗に処理したこのジレンマを、再度問題化しながら取り込んでしまったことによって、かなり複雑な構造を持つに至った。まず、主人公-ヒロイン1-ヒロイン2の三項関係は、『いちご100%』と『ToLoveる』両方から継承されている。あらすじは以下の通りである。ヤクザの組長の息子である楽はクラスメイトの小咲に想いを寄せているが、組が抗争しているギャング組織と停戦協定を取り結ぶために、そのギャングのボスの娘・千棘と疑似恋愛関係を結ぶことになってしまう。


本来の想い人であるはずの相手(小咲)とは別の女性(千棘)と疑似恋愛関係を築くというこの構造はまさしく『いちご100%』と同一であり、だからこそ『ニセコイ』は「いちご100%コンプレックス」に取り込まれていると言えるのだが、しかし当初の想い人である小咲が"true end"ではないという点は、『ToLoveる』を継承している。つまり、2013年10月現在で約2年の連載期間を迎えている『ニセコイ』の楽は、このまま物語が長引けば長引くほど、その誠実さによって、ずっと想い続けていた小咲ではなく最初に(擬似)恋愛関係を取り結んだ千棘を選ぶというクライマックスに近づくのだろうが、しかし本作の"true end"の座は千棘にありそうなので、それならいいのではないか、と一見思えてしまうということだ。そもそも作品のタイトルがすでに"true end"を含意・象徴しているのだとしたら(『いちご100%』の「いちご」とは本来誰であったかを思い出そう)、『ニセコイ』が指し示すヒロインとはまさに千棘に他ならない。


しかし『ニセコイ』の抱える根本的な問題は、「構造上の"true end"」と「物語上の"true end"」との間にズレが生じている点にある。構造上の"true end"とは平たく言えば、私たち読者が物語を読んだときに「ふつうに考えて主人公と結ばれるのはこいつだろう」と名指し、かつそれで大方同意がとれる登場人物のことであり、だからこそ、通常は物語上の"true end"と区別されない。


たとえばある人物("true end"の概念を知っている人が望ましい)に『ニセコイ』の1巻を読んでもらい、「楽に決断のときが訪れるとしたら、誰を選ぶか」と尋ねたら、大多数は「千棘」と答えるだろう。このとき名指される者こそが、構造上の"true end"である。


一方で、連載から2年以上経過した現時点でさえ、『ニセコイ』における「物語上の」"true end"とは誰なのか、まだ決定されていない。


それはこういうことだ。楽は10年前にある少女と約束をしていた。その約束とは10年後に、楽の持っているペンダントから少女の持っている鍵であるものを取り出し、そして結婚するというものであった。しかし、少女の顔や名前を忘れてしまった楽の前に、千棘、小咲、万里花と、鍵を持っている者が3人も現れるのである。「約束の女の子」がいったい誰なのか知るためには、当時の物や記憶から類推するしか方法が残されていない。


『ニセコイ』は楽のジレンマによってと言うよりか、「約束の少女」を不確定にするという設定によってこそ、物語は長期化できた方がよいというジャンプ的環境に適応している。そしてその設定で本作は、「"true end"をめぐる物語」というメタラブコメになってしまっている。この「物語上の"true end"」が判明するときが訪れるとしたら、それは十中八九物語の終盤であり、楽の決断と時を近くすることになるだろう。



したがって、提起したい問いは以下のようなものだ。


もし「約束の女の子」が千棘でとしたら、楽は誰を選ぶのか?


この物語にとってもっとも綺麗な、おさまりのよい展開とは、読者が直観する”true end”(=構造上の"true end")と「約束の女の子」(=物語上の"true end")が一致すること、すなわちその約束の女の子が千棘であるというものだろう。そうでなければ物語としておかしいとさえ言えるかもしれない。


けれども、構造上の"true end"である千棘が同時に物語的にも"true end"であり、よって楽に選ばれる結末を無事迎えるのだとしたら、残された万里花や鶫、そして小咲は、通常のハーレムものの「残されたヒロイン(たとえば『とらドラ!』の実乃梨や亜美など)」と比較しても、あまりにも、浮かばれなさすぎるのではないだろうか。彼女たちにとって(楽に想われている小咲にとってさえ)、楽と結ばれるために乗り越えるべき壁は極端に堅牢だ。


では、「約束の女の子」が千棘ではなかったとしたら。ここに「いちご100%コンプレックス」が複雑なかたちで回帰する。『いちご100%』の東城や『ToLoveる』の春菜とは異なり、楽は、「約束の女の子」とまさに「約束」を既にしてしまっている。連載の長期化と楽の誠実さの結託は、現在進行形の擬似恋愛だけでなく、この点にさえも響いてくるだろう。「約束の女の子」に関する物語が『ニセコイ』において浮上するたびに、楽は彼女と交わした約束を意識せざるを得ない。楽には真中と違い、"true end"を捨てるという「逃げ道」が与えられない。



なぜこのようなことを最近考えているのかと言えば、それは『ニセコイ』のアニメが来年の頭から始まるからである。もちろんアニメには週刊雑誌と違い物語の長期化がないのだから、かなり高い確率で原作よりも早い終わりを迎えることになるだろう。さらにその結末は原作とは独立したオリジナルものになるかもしれない。


99.9%、その結末は決断もされなければ「約束の女の子」が誰かもわからないオープンエンドになると思われる。ラブコメなのだから、それでいいのだ。けれども、万が一原作で未だ描かれていない結末がアニメにおいて描かれてしまうのだとしたら、早くそれを見てみたい気がするというのも、正直な気持ちなのである。




2013年10月12日


元記事URL

http://goo.gl/NRADsc

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