第17話 晴信の正体

 鶴屋喜右衛門の店の名は「仙鶴堂」と言い、京都は寛永のころからの店で、江戸には万治年間の出店で、この時で既に百年以上の歴史を持つ。鶴屋喜右衛門を名乗ったのは三代まで居たそうだが、この時代は二代の近房と名乗った人物だ。その人物が奥の方から姿を見せた。歳の頃なら五十前後だろうか、蔦屋さんよりは年上に見えた。

「これは重三郎さま、また珍しい場所に」

 鶴屋喜右衛門はさして慌てるでもなく落ち着いた態度で俺たちを出迎えた。

「ま、玄関先では色々な事も、お話ししずらいでございましょう。お連れの方共々お上がりくだされ」

 蔦屋さんに俺とさき、それに山城さんと春朗という大勢が鶴屋喜右衛門の別宅とも言うべき家に上がり込んだ。長い廊下を歩いて床の間付きの八畳ほどの部屋に通された。徐ろに座らせて貰う。

 縁側に面しており、その先には先程覗いていた黒松が目に入った。全体像を見ると見事な松だと判る。床の間には掛け軸がかかっていたが、誰の絵かは判らなかった。そんな俺の様子を伺った蔦屋さんが耳元で

「春章の若い頃の風景画でございます。珍しいものです」

 そう教えてくれた。そうか、風景画は珍しいのかと思っていて、その時は深く考えなかった。

「お話とは如何なものでございますかな、」

 俺たちの正面に座った鶴屋喜右衛門はゆっくりと口を開いた。それに対して俺が口火を切ろうとしたが、蔦屋さんが手でそれを止めた。そして

「喜右衛門殿、いや近房殿、こちらに女性を一人匿っておいででは無いですかな。火付盗賊方も動いているとの噂。隠し立てすると面倒な事になりますな」

 いきなり核心を尋ねる。すると鶴屋喜右衛門はあっさりと認めた。

「はい、匿っているというよりは、私の囲い者でございます。それが何か? 火付盗賊方とはまた物騒でございますな」

「そうでございますか、ならば話は速い、その女性に逢わせて戴けませんかな」

 蔦屋さんがそう言うと鶴屋喜右衛門は意外なことを口にした。

「あの者が何をしたかは判りませんが、一ツ橋様に絵の指南役として世話をしたのは間違いなく私めでございます」

 その時、先ほどの初老の女性がお茶を運んで来てくれた。

「口が渇くと話し辛いでございましょう。どうぞ」

 元より緊張で唇が乾いていたのだ。ありがたく頂戴する。蔦屋さん以外は同じようだった。

「何故に?」

 蔦屋さんの疑問にやや口角を上げながら

「知れた事でございますよ。今のお上の政策は我々地本問屋にとって好ましいものではありますまい。今の世にご老中様より力があるのは一ツ橋様でございます。私は絵の素晴らしさを教えることにより、改革を止めるように持って行けたらと思っております」

 確かに、地本問屋としてはこの時代の規制はたまったものでは無いだろう。その点では恐らく蔦屋さんも同じ気持だと考えた。それに歴史的事実として蔦屋さんはこの後財産を半分没収されてしまうのだから……。

「その者が他に何をしたのか、知らぬ訳ではありますまい」

「柳沢様の古希のお祝いに納める絵のことでございましょうか?」

 やはり知っていた。間違いない、裏で鶴屋喜右衛門も糸を引いていたと言う事だ。

「全て知った上での行動でございますな」

 蔦屋さんの口調が少し強くなった。

「重三郎殿、目の前に座っているのは本物でございましょうか? 姿形は迷うことなき蔦屋重三郎殿でございますが、何か他人のような感じがしますな」

 やはり鶴屋喜右衛門も只者ではなかった。蔦屋さんの正体に疑問を持った感じだった。果たして蔦屋さんはどう答えるだろうか?

「やはり判りましたかな。実は私はこの時の私ではありませぬ。寛政九年からやって来たのでございますよ。「江戸患い」で亡くなる所を神の御加護により一命を取り留めたのでございます。信じるか信じぬかは喜右衛門殿次第でございますよ」

 蔦屋さんが真実を告げると、鶴屋喜右衛門も笑い出した。

「やはり、不思議なことは起こるものでございますな。あなた方がお探しの女は名をお栄と言いましてな。春章殿と関係のあるものでございますよ。お栄、事情はかくの通りだ」

 鶴屋喜右衛門がそう言ったかと思うと、俺たちの後ろの襖が静かに開いて姿を表したのは、白地に赤と青の花柄の入った着物を着た、あの女だった。歳の頃なら二十代後半だろうか? この時代の女性は一気に老けるから、予想がつかないが、半端ない容姿の持ち主だと思った。こうして近くで見ると、鎌倉の公暁や目の前の鶴屋喜右衛門が色香に迷って協力するのが判るようだった。まあ、さきにはちょっと劣るが……。

「お栄、こちらに来てお前の正義を言いなさい」

 言われたお栄という女性はするすると前に出て俺たちの前、鶴屋喜右衛門の横に座った。俺の横の蔦屋さんの目が険しくなった。

「ほう、さすが重三郎殿は判ったようですな」

 鶴屋喜右衛門が薄笑いを浮かべる。

「重三郎さん、いったいこの女は何者なのですか?」

 俺はそう言って険し顔をした蔦屋さんに問いかけた。

「恐らく……恐らくでございますが、この者は春章師の娘ではないかと……」

 娘! それが事実なら、余りの事に俺は口も開けなかった。

「さすが、重三郎殿でございますな。春章殿の顔を良く知って居れば、似ているだけに親子と容易に確認出来ましょうな。お栄、自分の口から言ってご覧」

 鶴屋喜右衛門言われたお栄と言う女性は

「そうさ、わたしは、勝川春章の娘、お栄さ。尤も親子共々捨てられたけどね。だから、今度の事は時間をかけた私の復讐なんだよ」

「復讐って、いったい」

 思わず声が出てしまったが、それに応えるようにお栄は

「わたしのおっかさんは、春章と短い間だが一緒に住んでいたのさ、そしてわたしが生まれた。だが、春章はその頃から認められて世に出始めたのさ。邪魔になったわたし達親子は捨てられたのさ。おっかさんはそれから苦労してわたしを育ててくれたが、わたしが十六の時に亡くなった。憎んだよ。勝川派の棟梁になって大家となった春章とわたしでは全く住む世界が違ってしまったのさ。そんな時にあんたらが言う美術マフィアという組織に拾われたのさ。マフィアはわたしに絵を描くことを教えてくれた。色々な時代の美術品の知識も教えてくれた。鎌倉で公暁に取り入ったのも、あのままなら歴史に消えてしまう運命にあった源氏のお宝を保存する意味もあったのさ。我々が未来に持って来て売れば、価値は何倍にもなる。そうさ、あんたらと同じことをしているだけなのさ」

「それは違う! 一部の好事家だけが喜ぶ間違った考えだ。本当の美術品は美術館等に保存され多くの人に公開されなければならない」

 俺は、間違った価値による行為は止めなけれなならないと思った。

「それは偽善だね。あんたらだって、好事家に法外な値で売っているだろう。それと同じことをしているだけだよ。あんたらが良くて、我々が駄目というのは可笑しいだろう? だから偽善なのさ」

「それは違う、我々は美術品の価値を大事にしている。お前らみたいに無夜みに売りさばき価値を暴落させる事はしない」

「それこそが偽善だよ。何時の世も金持ちはお宝を欲しがるのさ……とにかく、この絵は春章の娘である私が仕上げをしてオークションに出すからね」

 お栄は自分の後ろから丸めてあった「美人鑑賞図」の未完成の絵を取り出して見せた。

「落款が無いじゃないか!」

「そんなもの簡単に作れるよ。これがわたしの復讐なのさ」

 そう言って振り向いたお栄はぞっとするほどの笑顔だった。

「ハル、行くよ! 未来に帰るんだ。こんな時代なんておさばらさ! 近房様、本当にお世話になりました。いずれお礼に伺います」

 そう言ったかと思うと、やはり襖の陰から出て来た晴信を呼び寄せた。

「春信! お前、師匠の恩を何と思っているんだ!」

 春朗が兄弟子として叱責すると

「兄さん、いや春朗さん。絵さえ手に入れば、もう師匠に用はありませんよ。おさらばです。せいぜい頑張ってください」

恐らく転送装置などだろう。春信がタブレットよりも大きめのノートパソコンみたいな装置のスイッチを入れた……お栄と春信は手に春章の書きかけの絵を持ったまま消えて行った。


「近房殿、あなたは日本の美術史にとって、どの様な恥ずかしい事に手に貸したのか判っておるのですか」

 蔦屋さんが真っ赤な顔をして、鶴屋喜右衛門を叱責すると

「青臭い考えですな。自分達が死んだ後の事なぞ、どうでも良いと思いますな。要は、ご老中が失脚なされて、元の世に戻ることが重要なのでございます。私にとっては仙鶴堂が未来永劫続けば良いのでございますよ。お栄はそれを達成させるための駒でもありましたな。尤も向こうも同じことを思っていたでございましょうな」

 蔦屋さんは静かに聴いていたが

「今なら、仕事であなたと組むことなぞ、しないでしょうな」

 そう言って立ち上がった。

「こうすけ殿、行きましょう」

「何処へですか?」

「春章殿の所でございますよ。事の次第を報告しないとなりませぬ」

 その言葉に俺たちは鶴屋喜右衛門の家を後にした。

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