第16話 犯行
その後、暫くは動きがなかった。全員で見張っていても仕方ないので、坂崎さんは自分本来の仕事も入ったので幕末に戻る事にした。何かあればまたこちらに応援という形で来て貰うことになった。
「しかし、向こうでは北斎はワシのことを知っておるのじゃな?」
そうなのかも知れないが、今の所は幕末でも出逢わなければ良いのだと思った。そのことを言うと
「実は、今度の買い付けは『富嶽三十六景』の買い付けなんじゃ。別に北斎に逢う訳では無いんじゃがな。なんか不思議な感じじゃて」
坂崎さんはそんな言葉を残して幕末に戻って行った。残った山城さんと蔦屋さんが専任になる。さきも講義の無い時だけの参加となった。組織も人出が余っている訳でない。俺は当面、この仕事専任なので、江戸に毎日連絡を兼ねて通う事になった。
そんなある日、朝、春朗と繋をつける為に煮売屋に赴くと、店の親父さんが困ったような顔をしていた。俺の顔を見るなり安心した表情を見せた。
「ああ良かった。実は昨夜とんでもないことがありましてな。春朗さんを初めお弟子さんたちが大騒ぎなのでございます」
いったい何なのだろうか? 昨日の夕暮れに春朗と逢った時は特に何も言っていなかった。
「親父さん何がありました?」
全く事態を呑み込めていない俺は親父さんに尋ねると
「それが、春章師のお世話をしていた春信さんが、ほぼ出来上がっていた絵を持って逐電してしまったのでございますよ」
油断……それ以外の何物でもない。長期戦と勝手に思ってしまったこちらのミスだ。
「それで、山城さんや重三郎さんは、このことを知っているのかな」
「いえ、まだお見えになってはおりませぬ」
俺は親父さんに礼を言って小遣いを握らせると蔦屋さんの家に向かった。すると家には山城さんが蔦屋さんとお茶を飲んでいた。
「おお、来たか! 煮売屋で事態を知ったら、ここに来るだろうと重三郎殿と二人で待っておった」
山城さんはそんな事を言ってのんびりとしている。蔦屋さんも
「まあ、作兵衛が茶を入れますから、それを飲んで落ち着きましょう。どうせ行く先は判っています」
蔦屋さんはどっしりと構えている感じだった。
「行く先が判っているとは、やはり……」
「そう、鶴屋喜右衛門の所でございましょう」
「そこには、あの女も居るからな」
そうか、冷静に考えて未完成の絵を持って行っても世間では価値を認めてくれないし、落款も押していなければ価値は無い。
「それに、今朝ほどですが、鶴屋喜右衛門の出入りの者にある噂を流しておきました」
蔦屋さんは自信ありげにニヤリとした。
「どんな噂なんですか?」
「うむ、それについてはワシが語ろう。つまり、鬼平が動き出したと言ったのさ」
鬼平……南北の奉行所の他に犯罪を取り締まる警察組織「火付け盗賊改方」の長官で、本名を長谷川平蔵宣以……今なら長谷川宣以だが、通名で平蔵と名乗っていた。
小説や芝居でも余りにも有名な存在だ。俺も小説は全部読んだし、映画やドラマも見た。そうか、この年は長谷川平蔵が火付け盗賊改方だったと思いだした。その瞬間、自分が歴史の真っただ中にいると実感させてくれた。
「春信が絵を持ち去ったのは西福寺じゃ。あそこは寺社地だからワシら奉行所には手は出せん。寺社奉行に言っても、いい顔はせん。ならば、火付け盗賊改方なら関係なく動けるからな、鶴屋喜右衛門も鬼平には来られたくはあるまいて」
確かに、火付け盗賊改方の同心達が店に乗り込んで来たならば、店の信用にも関わる。
「考えましたね。それで本当に鬼平に密告したのですか?」
俺の質問に山城さんは笑って
「まさか、だが何時でもその用意は出来ておる。長谷川殿が使っている繋の者は実はワシも使っておっての、じゃから簡単じゃ」
そうか、その辺は色々あるのだと思った。
「茶を飲み終わりましたら、三人で行ってみましょう。もう絵そのものはあるか無いかは判りませぬが、何か判りましょう」
蔦屋さんは落ち着いてそう言って俺に作兵衛さんが入れてくれたお茶を勧めてくれた。
「あれから、鶴屋喜右衛門は上方には帰っておらぬようでございます。やはり今度の一件が絡んでおったのでございましょうか?」
蔦屋さんが自分の疑問を述べていると玄関で声がした。あれは、さきの声だ。俺と作兵衛さんが出ると、さきは興奮していて
「緊急連絡が入ったので急いでこちらに伺ったでござんす。まさか、昨夜だったとは」
「まあ、上がれよ。作兵衛さん、お茶をもう一杯お願いします」
俺は急に肩の力が抜けるのが判った。
それからだが、さきに仔細を説明して、四人で鶴屋喜右衛門に向かうことにする。途中で、煮売屋に寄ると、春朗が心配そうな表情で店に居た。親父さんが朝飯を出していたが手を付けていなかった。無理もない。食欲が無いのだろう。あれだけ注意していたのに、春信に殆んど完成しかけていた絵を持ち去られてしまったのだから。
「こうすけ殿……」
俺の顔を見た春朗は立ち上がって店の入口まで来た。そこで俺は、今までの事やこれから自分達が何処へ行くのかを説明した。すると
「わたしくしも同行させてくださるようにお願い致します。重三郎殿、この通りでございます」
春朗は深々と頭を下げた。
「判りました。あなたも師匠の事ですからご心配でございましょう」
「ありがとうございます!」
そうして、春朗も同行することになった。
店に行くのかと思っていたら、蔦屋さんは通油町には向かわずに、住吉町の方に歩き始めた。今で言うと地下鉄の人形町駅の辺りである。
「重三郎殿、何処に行かれるのですか?」
俺の質問に蔦屋さんは笑って、
「店にはおりますまい。他に借りてる場所がございます。恐らく、そこでございましょう」
「それが住吉町でござんすか?」
さきも興味深そうに尋ねる。
「実はな、この暇な時に女の後を付けて、調べたんじゃ。女はそこで寝起きしておる。無論鶴屋喜右衛門も三日に一度はやって来る。二人は恐らく、そんな関係じゃ」
山城さんからある程度は聞いていたが、何か、不思議な感じがしたものだ。美術マフィアと歴史的な人物が、色恋の関係になるなんて……。
目的の場所は住吉町の裏手の新道に面した黒板塀の家だった。塀の上には黒松が顔を覗かせていた。
「ほう、粋な構えじゃのう」
山城さんが感心して呟く。
蔦屋さんは表から直接乗り込んだ。
「御免ください。誰かおりますでございましょうか?」
表の格子戸を開きながら声をかける。ややあって家の引き戸が開けられた。
「はい、どちら様でございましょうか?」
初老の女性が顔を出した。
「喜右衛門殿に重三郎が来たとお伝えくだされ」
そう言うと下働きの初老の女性は
「かしこまりました。しばしお待ち願います」
そう言って家の中に消えて行った。
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