第13話 追跡

 女性は柳橋を渡ると右に折れて行った。そして最初の大きな角を左に曲がる。蔦屋さんが少し困ったような顔をする。

「どうしました?」

「いや、この通りを行くと。通油町を通るのです。それも店の前を……」

 そうか、この通りだったかと思う。何時もとは反対側から通るので俺は判らなかった。

「では店の前だけ俺の陰に隠れてください」

「そうさせて戴きます」

 女性は真っ直ぐに歩いて行く。何処に行くのかは判らないが、江戸の街を歩き慣れた感じがした。

 やがて耕書堂の前に差し掛かる。店は開店したばかりのようで、小僧さんが店を開いて本を並べたり、浮世絵を竹鋏に挟んでいる。女性は耕書堂を一瞥したが、そのまま前を通り過ぎた。

「大事なかったですな」

 蔦屋さんがほっとした顔で俺の陰から身を出した。やがて道は大伝馬町に差し掛かった。

「何処まで行くのでしょうか?」

 俺はこの女性が美術マフィアなら何処かに連中の繋をつける場所があると思った。

「このまま行くと御成街道に出ますな」

『御成街道』……所謂東海道と言い換えても良い。俺が居る時代では中央通りと呼ばれている。

「やはり左に曲がりました。恐らく 日本橋も渡るでしょう」

 女性は右側に大きな店を持つ呉服商の越後屋に全く興味も見せずに歩いて行く。

 蔦屋さんが言った通り、女性は日本橋を渡り真っ直ぐに歩いて行く。橋の脇の魚河岸は大勢の人で賑わっている。時間的にはそろそろ終わりなので、買いに来ている連中は、保存の利かないこの時代のことだ、恐らく買い叩いているのだろう。こんな状況でなければ俺も買って行きたかった。

 橋を渡り終わり、右に高札場を眺めながら更に南に歩いて行く。ここは江戸のメインストリートだ。道の両側には大店が並んでいる。今ならウインドーショッピングでもしながら行くのだろうが、全く興味を見せずにどんどん歩いて行く。

「何処までいくのでしょうかねえ」

 独り言ともつかぬ事を口にすると

「私の勘でございますが、この辺りは町屋でございますが、この先、海に近くなりますと武家の屋敷が多くなるのでございます。海辺では大名の蔵屋敷などがあり、自分の国元からの荷を揚げ降ろしたりしているのでございます。その中にでも入られてしまったら、我々には手は出せませぬ」

 蔦屋さんの心配は裏で何処かの権力者と繋がっていると困るという意味に受け取った。そうなれば、こちらも上に報告して、対処しなければならない。

 女性は京橋を渡る。その先は銀座だ。東海道の両側は町屋だがその後ろの左右は武家屋敷が並んでいる。

  


 やがて女性は尾張町の交差点を過ぎて行く。俺はこの時、女性の行先が芝ではないかと思っていた。芝には浮世絵を扱う店が多くある。その中に美術マフィア関連の店があるのでは? と思っていたのだ。

 だが、それはすぐに間違っていたことが判る。

「む、左に曲がりましたぞ」

 蔦屋さんの言葉に我に返り前を見ると、女性は木挽町に通じる交差点を曲がって行った。今なら松坂屋の前の角を曲がって行くことになる。やがて木挽橋を渡る。

「不味いですな。この先は西本願寺様がある以外は武家屋敷ばかりでございます」

 やがて築地川に掛かる二の橋を渡ると目前に西本願寺が見える。今も大きな敷地だがこの時代はもっと大きく、下手な大名屋敷より大きい。

 女性は西本願寺を左に見て本願寺橋を渡る。この先はすぐ海に出てしまう。正面は後に幕府の講武所となる場所だ。幕末には軍艦操練所となる。この年は紀州候の下屋敷だった。

 ここに突き当たる前に右に掛かった安芸橋を渡る。左が松平安芸守の下屋敷だ。女性はその反対側の屋敷の木戸の前で止まる。門番も顔見知りらしく、簡単な挨拶をして木戸を潜って中に消えた。

「ここは……?」

「まず間違いはないと思いますが、恐らく一橋様の下屋敷だと存じます」

 一橋徳川家……裏にはとんでもない大物が存在していると言うことなのか? 完全に上に報告しないとならないと思った。

「どうしますか?」

 蔦屋さんも正直良い考えが浮かばないのだろう。俺の表情を伺うようにしている。

「兎に角、一旦煮売屋に戻りましょう。春朗の方も気になります。それから一旦センターに戻って報告致しましょう。組織に正式に重三郎殿を紹介したい所ですし」

「そうですか、その美術マフィアが、何故一橋様と関係があるのかは正直判りかねますが、考えることも出来ますな」

 蔦屋さんは帰り道、自分の考えを述べてくれた。

「まず、この寛政二年でございますが、老中松平定信さまの改革は、かなり進んでおります。前の田沼様を罷免に動いたのが表向きは家斉様ですが、実はご尊父の治斎様と言われておりまする。しかし、その後の考えの対立から定信様は老中職を追われてしまいます。つまり一橋様は定信様の老中就任にも協力し、また罷免にも動いたのでございます」

 それを聞いて、俺は改革が行き過ぎて、浮世絵や黄表紙の発行さえ制限される事になり、蔦屋さんの耕書堂さえ規模を半減され、徹底的に弾圧されたのだ。これは我々組織も打撃を受けたが、組織は歴史を修正することを基本的は嫌う。それは関与して後の文化に影響を及ぼすことを恐れるからだ。一方、美術マフィアは自分たちの飯の種でもある美術品が生産されなくなると、やはり困る。だから、陰で動いて定信を罷免に動くように一橋家と何らかの関係を持ったのではないかと考えたのだ。

「案外外れてはいない感じも致しますな」

 蔦屋さんも納得の考えを示した。


 煮売屋に着いた。腹が減ったと感じて、もう昼近い時刻だと思い出した。

「何か腹に入れて行きましょう」

 俺の提案に蔦屋さんも同意する。

「親父さん。何か見繕ってくれないか。腹に入れたいんだ」

「へい、いらっしやい。直ぐに」

 奥の座敷に上がると程なく小僧さんが、料理を運んで来てくれた。すかさず蔦屋さんが小銭を握らす。

 礼を言って小僧さんが戻って行くと、早速食べることにする。御膳には、昼も朝と同じ、大根のみそ汁に沢庵。それに鯵のたたきが乗せられていた。

「今朝、良い鯵を売りに来ましてねえ」

 厨房の奥で親父さんが嬉しそうな声を上げた。早速箸をつける。やはり親父さんは腕が良いのだろう。鯵のたたきも鮮度が良いので旨味が濃厚だった。大根も旨い。味噌も濃いが旨味も濃かった。

 勘定をしながら春朗からの繋を聞くと黙って首を振った。明日の朝、またこちらに寄ることを伝えて貰うように頼む。

「判りやした。おまかせを」

 蔦屋さんが出した小銭を恐縮しながも受け取った。

「では、お願い致します」

 親父さんに頼み、蔦屋さんの家に戻る。思ったより時間が経っていた。帰ると作兵衛さんがお茶を入れてくれた。のんびりとしてはいられないが、何せ今日は歩いた。今なら、浅草の東本願寺から築地の西本願寺まで歩いて往復したことになる。蔦屋さんは本来なら病み上がりなのだが、全く疲れた様子を見せていない。その点は俺とは体の作りが違うのだろう。

「一休みしたらセンターに行って、現状を報告しましょう」

 蔦屋さんにこれからの予定を言う。そして、裏庭で俺と蔦屋さんはタブレットで、センターに転送した。

 センターの転送室ではさきの他、山城さんと坂崎さんが待っていてくれた。皆の顔を見ると何だかホッとしたのだった。

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