第12話 怪しい女
驚くというよりも、戸惑った表情をした春朗が立っていた。俺が事情を説明しようとすると蔦屋さんが手で遮って
「春朗殿、私はこの時代の蔦屋ではありませぬ。もう身代を倅に譲って只の重三郎になった元蔦屋でございますよ」
その言葉を聴いていた春朗は
「では、この世の者ではない蔦屋殿ですか?」
「そうですな、そんな考えも出来ましょう。本来ならこの身は『江戸患い』で既に無いものですが、こちらの、こうすけ殿がもたらしてくださった神薬のおかげで助かり申した。だからその言い方も、あらがち間違ってはおりませぬ」
「と、すると今よりも先の世から?」
「左様で、寛政九年からやって来たのでございます」
蔦屋さんが真実を言うと、春朗は暫く考えて
「そうでございますか、いずれにせよ、私の知っている蔦屋殿と同じ人物であると言う訳ですな」
そんなことを口にした。俺はこの時、春朗の頭の回転の速さに驚いた。この時代、不思議なことは全て神か妖怪のたぐいと信じていたのだ。迷信が信じられていて、凡そ庶民のレベルでは科学的な事とは無縁だったのだ。それが、簡単な説明だけで理解してしまうとは、やはり春朗は将来葛飾北斎として名を馳せるだけのことはあると思った。
「寛政九年とはまた、随分早かったですね。七年後ですか……正直蔦屋殿はもっと長生きすると思っておりました。そして、私の絵も、もっと多く取り上げて戴けると思っておりました」
そう言って笑いながら、俺達の前に座る。間もなく、店の親父さんが春朗の食べる飯を持って来た。今朝は大根の味噌汁と沢庵、それに納豆だった。
それらを平らげると
「師匠は寺で出される朝粥を食べますので、朝の支度は必要ありませぬ。晴信は別の飯屋に行ったみたいでございますな。師匠は昨日から幾つか下絵を書き始めました。傍には晴信が付いております。出来上がった下絵に私が師匠の指示どおりの色を付けて行くのでございます」
春朗は寺での作業の流れを我々に教えてくれた。
「実は、蔦屋殿。今度のこととは関係ありませぬが、少々相談がございます。師匠のこの絵が出来上がりましたならば、相談に乗って戴きたい案件がございます」
春朗が意外なことを口にした。大事な事を相談するほど、この二人は深い関係だったのかと、少々驚いた。
「判り申した。何時でも構いませぬ。何なりと……」
「ありがとうございます! いずれ必ず」
この時、俺には何の相談だか全く判っていなかったが、後で言った事だが、蔦屋さんには何の相談だか予想がついていたそうだ。
「さて、今日のところは何もありませぬ。何かあればこちらに繋を付ける所存でございます」
そう言う訳なのだ。元より今日は春朗と蔦屋さんを引き合わっせるのが目的だ。いきなり動きは無いだろうと思っていた。店を出ようとした時だった。煮売屋の前を、木綿の浅緑色の着物を着た一人の若者が、小走りに柳橋の方に走って行くのが見えた。
「晴信だ!」
春朗が急いで飛び出す。その後を俺と蔦屋さんも追う。
「何処に行くのでしょうか」
走りながら春朗に尋ねると
「先ほど、飯を食べに行くので、誘ったのでございます。そうしたら『今朝は別な店に行く』と言っていたので、そのままにしたのでございますよ。実はそうでは無かったということですな」
「では、美術マフィアと?」
「そこまでは気が早いですが、人に言いたくない者に逢うことは確かでございますな」
春朗の答えを聴きながら蔦屋さんも
「その晴信という弟子は何時入門したのでございますか?」
そう尋ねる。この人が知らないという事は新しい弟子なのだろうか?
「はい、入門して未だ三月でございます」
「そうですか、それなら未だ雑用だけしか出来ない訳ですな」
早足で歩きながら三人は柳橋の袂で止まった晴信を黒板塀の陰から見ていた。
「誰かと待ち合わせでしょうか?」
俺はこの時、待ち合わせの相手がもしかしたら、美術マフィアではないかと考えた。俺が奴らなら入門して日数が浅く、しかも春章の身の回りの世話をしている晴信を取り込むと考えたのだ。
「む、来ましたぞ」
春朗が小さな声を出して指の先で晴信を指した。
「あれは……」
晴信に接触して来た……いいやこの場合は逢いに来た。と表現した方が良いかも知れない。その相手は、くすんだ紫の地に赤の花びらをあしらった着物を身に纏った女性だった。頭は島田に結ってある。
「あの紫は古代紫という色でございます。花びらの赤は紅花から採った紅色ですな」
蔦屋さんが俺に色を教えてくれる。
「何だ、色恋いか……あいつも隅に置けないな」
思わず、春朗が苦笑いをしている。
「あれは玄人ですかな……何か気になりますな」
蔦屋さんがそうつぶやいて首を傾げている。
「重三郎殿、ここは柳橋でございます。そこは……」
春朗としてみれば、芸者が沢山いる街なのだから、余り気にしないように言ったのだろう。俺も、もう一度良く見る。その仕草におかしいと直感した。理屈ではないのだ。
何回も見直す。今度は間違いない。あの女性はこの時代の人間ではないと思った。
「あれは恐らく美術マフィアですよ」
俺の言葉に春朗も蔦屋さんも判らないと言う顔をしている。恐らくこの時代の二人には判らないのだろう。
「指先の爪を見て下さい」
俺は二人に指の爪を見てくれるように頼んだ。
「はて、良く光っておりまするな。良く磨いたのございましょう」
「そう、私もそう考えておりました」
やはりそうだ。尤も二人共知らないのだから仕方がない。
「あの爪には私の時代の『マニキュア』と呼ばれるものが塗ってあります。透明なので一見判り難いですが、間違いありません」
俺は前は化粧品関係の仕事をしていたのだ。マニキュアをしている爪とそうでない爪を間違えるはずがなかった。
「晴信め、もう騙されたのか……」
春朗はそう言ったが元から彼は美術マフィアだったのかも知れない。それぐらいの事はする奴らだった。
やがて、二人は繋をつけると左右に別れた。晴信は西福寺へ、女は柳橋を渡っていった。
「晴信は私が付けます。どうせ寺に帰りますから」
春朗がそう言うので、俺が
「じゃあ、俺と重三郎さんは女をつけて行きます。何か判ったら、煮売屋の親父さんに繋をつけておきます」
「判りました。お願い致します。師匠に仕える身としても、あの女のことは知らねばなりますまい」
「では、後ほど」
蔦屋さんがそう言って俺達はふた手に別れた。
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