第11話 蔦屋の住まい
蔦屋さんが借りた借家は二階建で玄関付きだった。玄関なぞ何処にもあると思うのが間違いで、この頃の一軒家でも玄関の無い家がざらだった。
玄関を入ると上がり口になる。二畳ほどの板の間になっていて、右に四畳半ほどの部屋が続いている。
「さ、どうぞ」
蔦屋さんが玄関の上がり口に立って手を差し出した。
「上がらせて戴こう」
山城さんの言葉に俺らは上がらせて戴いた。俺は今一納得出来なかったので直接蔦屋さんに尋ねてみた。
「蔦屋さん、手回し良くここが借りられましたね。こちらに来たのは少し前の時限だったのですか?」
俺の質問がおかしかったのか、蔦屋さんは笑いながら
「そうですな、一胆数日前に来ましてな、借家を借りもうした。それからこの時に来たのでございます」
そうか、手筈の良さに驚くと同時に蔦屋さんのやる気を見た想いがした。
その四畳半の左が廊下に繋がっていて廊下の左側が縁側のある八畳だった。廊下の右が台所で二階に上がる階段とその陰に便所もある。
「さ、八畳にお入りください」
縁側の外には瀟洒な庭が広がっていた。
座敷に座り坂崎さんが庭を眺めながら
「良い庭ですな。ここは、もしかして、居抜きで?」
「そうです知り合いの隠居が住んでいたのですが、先日亡くなりましてな。以前の時にここを買い取っておけば良かったと思いましてな、今回は思い切って買おうかと思ったのでございますが、今回の一件が決着をつけることが出来れば、私もそのセンターに移るので、今回は借りることにしたのでございます」
そうか、蔦屋さんも先々はセンターで暮らすのかと思った。我々とすればその方が良いのは言う間でもない。
「旦那さま、お帰りでしたか」
声のする方を振り向くと、歳の頃なら五十前後の男の人が台所に立っていた。
「おお、作兵衛さん。こちらは私の仕事仲間だ。これからちょくちょく来るから覚えておいてくれ」
蔦屋さんが作兵衛さんと呼んだ初老の人は
「これは、皆様よろしくお願いいたしやす」
そう言って頭を下げた。
一応初老と言ったが、この時代五十歳はもう老人だ。
「こちらこそよろしく」
それぞれが名乗りはしなかったが挨拶だけをした。
「茶を入れてくれぬか」
「はい、只今」
蔦屋さんの注文に作兵衛さんは湯を沸かし始めた。
「ここなら、通油町からも離れていますし、それに西福寺からも近い。抜群の場所ですな」
坂崎さんがそう言って感心する。そのうちにお茶が運ばれて来た。早速口をつけると、それは江戸に来てから一番上等な味がした。旨味と甘さがじんわりと口の中を循環している。
「旨い!」
思わず声を漏らすと蔦屋さんは
「作兵衛さんは料理やお茶をいれるのが上手いのですよ」
そうか、蔦屋さんは食道楽でもあったのかと思った。
「実は作兵衛は前の家から引き続いて勤めて貰っておりまする」
蔦屋さんの言葉に俺は腰を浮かした
「では、本当の事も存じているのですか?」
「まあ、時間に関わることは内密ですが、南蛮渡来の秘薬で『江戸患い』が治ったことは知っており申す。偽の葬儀をしたのは倅に譲って隠居して世間の煩いからは離れて、のんびりと暮らしたい、と言っておりまする」
蔦屋さんの言葉を作兵衛さんが本当にしたかは判らないが、基本的にこの時代の人は信じられない事に出会うと「神仏」に理由を求める事が多かったので、その線で納得したのかも知れない。
蔦屋さんの家の様子を伺ってしまうと、春朗からの繋がなければ、もうする事はない。取り敢えず春朗に接するのは俺と蔦屋さんが専心となる。
「それではお暇しようか。蔦屋殿詳しい手順はこうすけがおりますので、判らない事はお尋ねくだされ」
山城さんがそう言って俺を見る。目配せみたいなものだ。
「判り申した。明日にでも春朗に逢って来ましょう。驚くでしょうな」
蔦屋さんはまるでこの仕事を楽しんでいるみたいだった。
「では」
「それでは、また」
「それでは失礼するでござんす」
山城さん、坂崎さん、それにさきが挨拶をして帰ってしまうと俺と蔦屋さんの二人だけになった。作兵衛さんは裏の物置の辺りで何か作業をしている。
「こうすけ殿、実は私はワクワクしているのでございますよ。あの『美人鑑賞図』の制作の過程に出会える等とは何という僥倖かと思うのでございますよ。吉原細見を売りだしてから二十三年、遂にここまで来たと言う想いでございます」
そうか、そんな想いもあるのだと理解出来た。
「先ほど、重三郎と呼んでくだされと言っていましたが、喜多川家とは?」
俺は先ほど蔦屋さんが言っていたことに疑問を持ったので尋ねてみた。
「ははは、私は養子でございます。その地位も倅に譲り申した。それに一旦亡くなった身でございます。本来の重三郎に戻ったという事でございます」
なるほど、もう喜多川家とも関係が無くなったという事なのだと思った。
その日、俺は「お泊りくだされ」という蔦屋さんの勧めを丁重に断り一旦センターに帰ることにした。着物や下着も着っぱなしと言う訳には行かないからだ。
「では、明日の朝八時にこちらにやって来ます」
蔦屋さんにも通信機を渡してある。それには時計が内蔵されている。転送のタブレットも渡そうとしたのだが「もう少しして慣れてから」と言われたので渡していない。
「判り申した。場所はここの裏庭なら人には見られますまい」
「了解しました。では」
俺はそう言うとタブレットを操作してセンターに戻って来た。一足早く帰って来ていた、さきが出迎えてくれた。正直なところを言うと江戸で泊まると、さきと夜を過ごせないからと言うのが一番の理由だったのだが、そんな事は口が裂けても蔦屋さんの前では言えない。
風呂に入って夕食を食堂で食べ、部屋のベッドに潜り込む。さきに腕枕をすると何時の間にか眠りに落ちていた。
翌朝、さきは養成所に講義の為に出掛けて行く。朝のキスをしながら
「緊急時は連絡をいれるからな」
そう言っておく、これからはどの様な事があるのか判らないからだ。
「判りました。無理はしないでくださいね」
少しだけ心配した顔をしてさきは出掛けて行った。俺も更衣室で着替えて転送して貰う。蔦屋さんの裏庭に直に転送すると八畳の座敷で蔦屋さんがお茶を飲んでいた。
「おはようございます!」
「おはようさんでございます!」
朝の挨拶をしていると作兵衛さんがお茶を入れて来てくれた。
「ありがとうございます」
一口飲むと昨日より美味しい気がした。
「昨日のは宇治の茶でございましたが、今朝のは駿河産でございます。江戸ではどうやら駿河産が好まれる傾向にありまするな」
そうか、この時代はお茶も「下り物」として重宝されたのだと理解した。
「早速ですが、茶を飲んだら早速その煮売屋に行ってみましょう」
そうだ、遊びに来たのではない。今日からが本番なのだ。俺は気を引き絞めるのだった。
今朝は拝領屋敷沿いに道を進む。反対側の寺社は鎮まり帰っている。耳を澄ますと僅かに読経の声が聞こえる。今日は「小明橋」(こあけばし)と名のついた橋を渡る。そのまま進むと直ぐに左に西福寺がある。大通り沿いの煮売屋はもう店を開いていて、客が数人入っていた。親父さんは俺の顔を見ると厨房を出て来て
「今朝は春朗さんは未だやって来ておりません。朝飯を食べに来るのでもうすぐやって来るでござんしょう」
そう見通しを言う。俺は蔦屋さんを紹介した。
「親父さん。俺と一緒に春朗さんに繋ぐ役の重三郎さんで」
「重三郎でございます。春朗殿とは顔なじみなのでこの役目になり申した」
「そうでございますか。それはそれは……」
蔦屋さんは袂から幾らか出すと親父さんに握らせた。
「こんな……この前同心の旦那から戴いたばかりで」
「良いではありませぬか。それはそれ、これはこれで」
「そうですか、ありがとうごぜえます。さ、奥にどうぞ」
親父さんは恐縮しながらも喜んで俺達を招きれた。店の奥の表からは覗かれない一角に座らせて貰い、朝飯を食べに来ると言う春朗を待つことになった。
凡そ、十分程も待っただろうか、店先に春朗が姿を見せた。早速親父さんが近寄って俺らが来ている事を伝えた。春朗は奥に来て俺と蔦屋さんの姿を見ると
「これは……? どういうことですかな?」
困惑の表情を浮かべるのだった。
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