第10話 蔦屋ふたたび

 そこには考えもしない人が立っていた。

『蔦屋さん! どうして?』

 もう少しで叫びそうになった。

 だってそうだ、この年なら未だ俺と蔦屋さんは出会っていない。

 俺が叫びそうになったので、蔦屋さんは唇に人差し指をあてて、店の脇の路地に入るように無言で指示をした。あっけに取られた俺は、役者絵に夢中になっているさきと坂崎さんに判らないように、そっと路地に付いて行った。

「驚きましたかな……実は山城殿と一緒にこの年まで時間を遡ったのでございますよ」

 え? どういうことだ……まさか……

「じゃあ、寛政九年から来たのですか?」

 驚く俺に後ろから声が聞こえた。

「そうじゃ、あれからすっかり良くなった重三郎殿は、自身の葬式を済ませ、この寛政二年にやって来たのじゃ」

 振り返ると山城さんだった。そうか、俺が行った時代よりも先の時代から来たのか……時間は流れているから、このようなことも可能なのだと思った。

「そうでしたか、せめて式には行きたかったですが……」

「ははは、構いませぬ。どうせ世を欺く芝居でございますからな。それに、私はもう蔦屋ではございませぬ。只の重三郎でございます。蔦屋は倅に譲りもうした。これからは重三郎と呼んでくだされ」

 そうか、もとより商人の蔦屋さんは苗字は無い。いいや、正式には喜多川家の養子になっているから、喜多川重三郎が本名でもあるのだが、一般的にはあっても名乗れないのが普通だ。

「そういうことだ。宜しく頼む。さて、ボケっと役者絵を眺めている二人を呼んで来るか」

 山城さんはそう行って、耕書堂の正面に回った。

「もう、脚気は大丈夫なのですか?」

 二人だけになったので訊いてみる

「はい、あれからぐんぐん良くなり申した。みるみる内に回復致しましてな、半月後には普通の生活なら出来るようになり申した。山城殿には、米ばかりではなく、雑穀や豆など、それに小魚も食べるように忠告され申した」

 そうか、脚気は食べ物に注意していれば防げる病だ。その辺りのことも判ったなら心配はあるまいと思った。

「でも、本当に良かったです」

「一度は失った命でございます。これからは思い切り生きてみたいと思っておりまする。それには山城殿やこうすけ殿に協力をして行く所存でございます」

「改めて、こちらこそ宜しくお願い致します」

 俺はそう言って頭を下げた。その時、山城さんが坂崎さんとさきを連れて路地に入って来た。

「蔦屋殿! よくぞ治りましたなぁ……こうしてお元気な姿を見ると感無量としか言えぬでございますな」

 坂崎さんがちょっと大げさに再会の感想を言うとさきも

「薬で治るとは思っておりましたが、それでも、こうしてお元気なお姿を拝見出来るのは喜びでござんす」

 そう言って喜びを表した。

「ここに居ては、店の者やこの年の私と出会うと不味いので、その神田竪大工町の長屋に移ろうではありませぬか、今の事情も詳しく知りたいところですな」

 蔦屋さんにしてみれば、自分の得意の分野なのでやる気まんまんなのだろう。

「では早速」

 坂崎さんが先に立って案内をして行く。ここからなら僅かの距離だ。


 長屋に入ると六畳の狭い畳の上に蔦屋さん、山城さんに坂崎さんが座り、上り口に俺が腰掛けた。さきが水瓶から水を薬缶に入れてへっついに乗せた。火をどうやって起こすのかと見ていたら袂からマッチを取り出して藁に火を点けた。

「なんだ、そういうところは今のものを使うんだな」

 俺がチャチャを入れると

「ライターなんかは駄目なんでござんすよ。マッチなら燃えて残りませんからね」

 確かにそうなのだろう。湯が沸くとさきは茶箪笥から急須と茶筒、それに湯呑みを五つ出した。それに茶を注いで俺を除く三人の前に出した。

「ま、お茶でござんすが、何も無いよりましで」

 さきが、そう言うと蔦屋さんが

「おおこれはかたじけなく。さき殿が入れてくれた茶なら、さぞかし上等の味がするでございましょうなあ」

 こんな軽口を利けるのも蔦屋さんが商人だからだ。同心の山城さんや坂崎さんでは咄嗟には出ない。それは仕方がない。

「うまいな!」

 坂崎さんが一口飲んで感想を言う。山城さんも飲んでから頷いていた。次に、俺と自分の分も入れたので飲んで見ると、中々良いお茶だと思った。江戸に来てからは本当にお茶が旨く、お茶好きになったと自分でも思う。

 一息入れたので、山城さんと蔦屋さんに今日あった事を伝える。春朗とのことや、煮売屋で繋をつける事などだ。

「ほう、あの春朗ですか、それは面白い。私が春朗との繋の役目をやりましょうか? 元々顔見知りですし、私なら色々と訊き出せるかと」

 確かに、蔦屋さんなら春朗も顔見知りだし、元より信頼している人物だ。

「それに山城殿や坂崎殿は本来の御役目もおありでござろう。私は生き返った身ゆえ、何らの縛りもありませぬ」

 そうなのだ、二人には同心としての役目もある。さきもまた講義が入っている。見渡すと蔦屋さんを除く人間の間では俺だけがこの仕事に専心出来るのだった。

「じゃあ、俺と蔦屋さんで見張っていましょう。それでどうですか?」

 俺の提案に山城さんも坂崎さんは納得し、さきも渋々ながら納得した。蔦屋さんは

「おお、こうすけ殿と一緒なら心強いですな」

 そう言って喜んでくれた。本当に頼りになるかは判らないが……

「寝泊まりする場所は如何致します?」

 俺は、そう口にしながらも、取り敢えずこの長屋に、寝泊まりする事になるのだと思っていた。だが蔦屋さんが

「もっと近くに、私の借りてる借家がありまする」

「新しく借りたのですか?」

「左様で、葬式の後に借りたのでござますよ。それぐらいは訳ありませぬ」

 そうか、蔦屋さんも死んだ以上、元の家には住めないので新たな家が必要なのだ。

「場所はどの辺りでござるか?」

 坂崎さんも一応場所は知っておかなくてはならない。

「では、これからご案内致しましょうか?」

 蔦屋さんの言葉に他の皆が賛成した。

「では善は急げと申しますからな」

 蔦屋さんの言葉に全員が腰を上げたのだった。


 借りた場所というのは、浅草安倍川町だった。西福寺の前を通り過ぎると小さな掘割がある。ここを右に折れる。要するに掘割沿いに北に行く訳だ。

 掘割の向こうは拝領屋敷が並んでいる。禄高の低い幕臣の屋敷が並んでいる。こちら側は寺社地だ。これも大きな寺の末社が幾つも並んでいて、昼というのに人通りは少ない。

 そこを暫く歩き、コシヤ橋と呼ばれる小さな橋を左に渡る。もう少し行けば東本願寺に突き当たる道だ。

 橋を渡った一帯が浅草安倍川町だ。ここまで来ると人通りも多くなる。その町家の中でも一際瀟洒な家だった。

「こちらでございます」

 蔦屋さんの案内で俺達は家の木戸を潜って中に入った。

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