第9話 日本橋通油町

 固めの杯を飲み干すと春朗は徐ろに語りだした。

「今回の絵のために師匠は西福寺の中に新たに仕事場を借り、私と弟弟子の春信がお世話をしているのでございますよ。下絵は師匠が書き、色付は私がすることになっております。そして、仕上げはまた師匠がするという手順で描く手筈で、春信は師匠の身の回りの世話を中心にすることになっております。未だ入門して間もないので……」

 そう言った時に店の親父さんが大きな深めの皿を運んで来た。中を見ると大根の煮物のようだ。それに魚の身が混じっている。所謂「あら煮」だ。

「やあ、いつもすまないね。親父さんの煮た「あら煮」は特別に旨くて酒が進むので困りますよ」

「先程の鰹のあらを大根と一緒に煮たのでございますよ」

 春朗は湯気の立った皿に木の杓子を入れて小皿に取り分ける。手慣れている感じがした。

 進められるままに箸で身をほぐして口に運ぶと、醤油と味醂の味が身の脂に染み、悪くない。

「おうこれは旨いな」

 坂崎さんがそう言って箸を進める。合間に口に運ぶ酒も進むようだ。生姜の風味がさっぱりとした感じを出していた。さきも夢中で食べている。

「ところであなた方に協力をするのは良いですが、何かあったら、どうやって繋をつけるのでございますか」

 春朗が今後の事を質問すると阪崎さんが答える

「そうじゃな。一日一回この煮売屋に我らのうち誰かが来よう。お主の出られる時刻でよい。それでどうじゃ。何ならここの親父さんに文でも預かって貰えば良い。当然親父さんには手当を払うがな」

「そうですね。それで良いです。託けでも構いません。親父さん。良いかな?」

 先ほどからこちらの話を伺っていて、事情を把握した煮売屋の親父さんは

「それは構わないでございますが……」

 そう言って若干の戸惑いを見せた。それを察知した坂崎さん懐から財布を出して一分金を握らせた。この時代ではかなりの大金だ。

 すると親父さんはニッコリとして

「旦那、申し訳ありませんねえ。こんなに戴いて……任せておくんなさい。ちゃんと繋を付けるでござんすよ」

 そう言って二人の顔を見た。これである意味、この親父さんも我々の仲間になったようなものだ。

「ここの親父さんは、私にとって身内みたいなものでございますから、安心してくださいませ」

 春朗はそう言って猪口に酒を注いだ。最初に出された二本が空になると

「親父さん追加だ!」

 そう言って追加の注文をした。史実では北斎はあまり酒を呑まなかったらしいが、よほど嬉しかったのだろう。親父さんがお燗をするために中に入ってしまうと

「ここの親父さんは信用出来る人物です。安心なされますように。それにしても、その上方の黄表紙屋を名乗っている者ですが、今後本当に我々に接触して来るでしょうか?」

 春朗の言葉に坂崎さんは自分の猪口に酒を注いでから

「間違いなくそれはあるじゃろう。春章殿はもう下絵に取り掛かれるのじゃろう?」

 そう尋ねると

「それは間違いありませぬ。栄之殿の絵の構図を参考にして描くということですから、今日明日にでも取り掛かると思われまする」

 今後の見通しを述べるとさきが

「弟弟子の春信さんに接触ということもあると……」

 そう言って心配した。

「大丈夫です。それも心得ておきます」

 その後も細かい打ち合わせをして、その日は別れることにした。春朗も師匠春章の手伝いもある。

 煮売屋の勘定は親父さんが遠慮するところを無理に払って店を出た。

 西福寺に帰る春朗と元旅籠町の角で別れた。我々は神田の長屋に戻るので、そのまま神田川の方角、つまり南の方角に足を向ける。突き当たりが浅草御門だ。ここの橋を渡ると先ほど歩いた柳原の土手だ。

「思ったより簡単に協力してくれましたね」

 俺が感想を言うと坂崎さんが

「春朗は蔦屋殿と実は昵懇と言っても良い。かなりの枚数の役者絵を耕書堂から出している」

 そう二人の関係を話した。俺は歴史的な事実として知ってはいたが、改めて思う事もある。

「そう言えば写楽は春朗ではないかという説もあるそうですね」

 俺は最近読んだ本の内容を話すと、さきが

「実際に会ったあちき達でござんすから可笑しいでござんすねえ。それにしても、一枚数両で売ったのでござんすねえ」

 さきが思い出したように笑いながら言う。

「しかし、春朗はよほど腹が立ったのでしょうね」

 俺も多少言い過ぎたとは思うが、あの場合は仕方ない。

「でも数千両は言い過ぎでござんすよ」

 そう言いながらも、さきも笑っている。

「帰りに耕書堂を眺めて行くか? 通り道だし」

 坂崎さんの提案で日本橋通油町の耕書堂を眺めて行くことになった。この寛政二年は蔦屋さんにとっても大事なターニングポイントになる年だ。身代が半減する寸前の年でもあった。

「面白そうでござんすね。この年なら未だわたし達も蔦屋さんとは未だ顔を会わせてはいない訳でござんすからねえ」

 全く、物事が上手く行きすぎて坂崎さんもさきも要するに遊びの部分が欲しくなって来てしまったのだ。

「何か買って行くつもりか? 役者絵とか」

「やたらに買うのは禁止でござんすよ」

 俺も冗談半分で言ったのだが、そのあたりは冗談ではないらしい。

神田川を暫く神田の方に戻って歩き、左に曲がる。暫らく行くとその一角だけが町並みが変わっているのに気がつく。黄表紙屋と呼ばれる店が並んでいるのだ。蔦屋さんの耕書堂もこの街にある。今で言うと神田神保町みたいな街だと思った。

 それぞれの店は店頭に出した台の上に黄表紙と呼ばれる。今で言うと書籍が並べてあり、軒の下には竹バサミで浮世絵を挟んで飾っている。

 そう言えば最初に買い付けに行ったのは芝だった。こちらの方が神田の長屋からは近かったのではと思った。それを口にしようとすると、さきが

「こちらは黄表紙中心ですからね。流行りの浮世絵はあの時代はやはり芝でござんすよ」

 そう言ってこちらの機先を制してしまった。

「どれ、役者絵なぞ眺めようかいの」

 坂崎さんは俺に構わずずんずん耕書堂の方に歩いて行く。店の前には以前見た行灯の看板が置かれていて直ぐに判った。

 さきと坂崎さんは耕書堂の前で早くも役者絵を眺めている。

「そっちは成田屋でござんすか? こちらは成駒屋で、向こうは音羽屋でござんすよ」

「うん、どれをとっても皆いい男じゃのう」

 坂崎さんにこんな趣味があるなんて知らなかった。俺も二人の後ろに回って役者絵を眺めていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると以外な人物がそこには立っていた。

「どうして!」

 思わず声を出してしまった!

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