第6話 今日、君が変わったから続 伝えるべきは 下


 蛍光灯の切れかけた廊下を駆け抜け、階段を一段飛ばし。

 電源の落とされた薄暗い廊下に半歩入ると、敦人あつとは1-Aの扉を開いた。


七瀬ななせ!」


 半開きになっていたスライド式の扉は、開いた衝撃でガンッと重い音を立てる。

 名前を呼んだ。扉もすごい音がした。

 友達と話していても、嫌でも気づくはずだ。悪目立ちするのはあまり好きじゃないが、身体はどうしてか動いてしまったのだから仕方ない。


「俺……えっとさ……っ」


 荒い息のまま、うつむけていた顔を上げる敦人。

 驚かしてしまっただろう。まずは謝らなければいけないか。

 それから、雨の日のこと。ちゃんと慰められなかった。俺には何を言ってもいいからって、それだけを伝えよう。全部受け止めてやるからって。

 言葉は取りまとめた。準備はしっかりしている。

 頭も鮮明だった。しかし。


「……いない」


 いない。

 椅子と、机とが等間隔に並んだだけの殺風景な教室が視界に広がっていた。

 黒板に小さな落書きがほんの端に書き込まれているだけで、他は特に何もない。

 閉め切られたカーテンから残照の光が溢れている。


「……なんだよ。急いだ、意味って……!」


 思わず、敦人は天井を見上げた。腰はその場に落ちて、扉を背に座り込む。

 バカみたいだった。楓にそそのかされて図書室から教室まで全力疾走してしまった。この労力は一体、何だったのだろう。

 七瀬の頼りになろうって必死になって図書委員の仕事も放り投げてきたのに。


「俺……なんでバカなんだよ」


 嘆息が落ちる。

 両側に教室の並ぶ廊下には人気がなかった。多くの部活の終了時刻は十八時過ぎだ。十七時で完全下校する校則に律儀な同級生のおかげで、やけにグラウンドの部活生たちの声がうるさく聞こえる。


「……敦人?」


 ここにいても無意味だ。期待するだけ無駄だろう。

 帰ろうかと思った間際、不意に後ろから声がかかった。


「あれ……なんでいるの? 図書委員は? 終わった?」


「なんで……七瀬……」


「どうなの?」


 七瀬だった。

 彼女は階段のほうからリュックサックを揺らし、困惑する敦人に詰め寄ってくる。

 帰ったのではなかったのか。


「どうなの?」


 悩む敦人を無視して繰り返し、ポニーテールに結んだ髪を揺らす七瀬はぐいっと顔を近づけてくる。

 ほんの少しの甘い香りが鼻腔びこうをくすぐる。


「楓さんに……頼んで」


 急上昇する顔の熱に浮かされ、敦人は経緯を口にしていた。近い。鼻先が触れ合ってしまいそうな距離では、身体が勝手に従ってしまう。

 そんな敦人をさらに責め立てるように、七瀬は眉尻を上げる。


「なんでっ! 迷惑かけちゃダメじゃん敦人! 楓さんとか頼りにならないでしょうが!」


「いや、そんなことは……」


「そうなの! もう……楓さん、昔はよかったけど最近はダメダメなんだから」


 そこまで言わなくてもとは思えど、昔より魅力が半減しているのはわからなくもなかった。下手に反論するより、昔、彼に憧れていた七瀬を信じるほうが嘘はない。

 しゃがみ込み、ため息を落とす七瀬。「そう思うでしょ?」と同意を求めてくる彼女に、敦人は苦笑し、話を変えようとする。


「それより、どうしてお前……帰ったんじゃ」


「ん? ちょっと忘れものというか、なんというか……」


 短いポニーテールを撫でてそっぽを向くと七瀬もまた、話を変えるように「あ」と口に出す。


「というか、そんなとこに座ってたらお尻汚れるよ? ほら、立って」


 口をへの字に曲げて眉根を寄せると、七瀬は立ち上がって手を掴んでくる。断る前に手を取られ、立たされる敦人は七瀬より頭一つ分、背が高かった。


「よしよし。敦人くん? これからは地べたには座っちゃダメよ? ここら辺、掃除してるようで掃除してないんだから。みんな結構サボってるんだよ。ほら、埃ついてるし」


「いや、自分でやるって」


「いいからっ、任せて」


 やれやれと細い肩をすくめながら敦人の後ろに回り、その尻をはたく。拒んでも悪戯心をくすぐられたのかいやらしい笑みで敦人の尻を狙う七瀬。


「だから、やめろって――」


 敦人は七瀬の腕を掴んだ。その腕は細く、男とは違い肌はすべすべで、柔らかい。


「は、離してよ。敦人……」


 きょとんと掴まれた自分の腕を見つめる七瀬は、苦笑いに顔をゆがめていた。


「あ、ああ……すまん」


「私も、ごめん」


 やりすぎたと七瀬は苦笑を深めて、顔をうつむける。

 一つ傘の下、一緒に歩いていたあの時と変わらず、七瀬は顔を伏せてしまった。

 短い沈黙が降りる。


「なあ……なんで髪結んだんだ?」


 沈黙をどうにかしようとして出たのは、七瀬にとって触れられたくないだろう話題だった。驚いたように顔を上げる七瀬に、今さら引き返せない敦人は続ける。


「ずっと下ろしてただろ? だから……」


「だよね……うん。まあ、えっと」


 七瀬は元々、胸元まで髪を垂らしていた。恋をしたのをきっかけに、彼の好みに近づけようと肩まで髪を切ったのだ。

 フラれてからも下ろしたまま、今日も変わらなかったはずだったのだが。


「気分……転換?」


 と言うには結構な時間を要していた。嘘だろう。その通り、すぐに苦笑いながら七瀬は首を振る。


「嘘。ごめん。本当は、その……わかるでしょ?」


 実際に見たことはないが、先輩という単語が頭に浮かんだ。


「あの先輩……なのか?」


 七瀬は頷いた。


「うん。ちょっと思い出しちゃうんだ……髪を切るのって勇気がいるからさ、だからまあ……思いきってセミにしちゃったあの時は衝撃的だったもん。一週間寝込もうかなってぐらいに」


 ほら、と髪を一つに結っていたゴムをほどいて、七瀬は言う。


「なっちゃんみたいにショートは似合わないからさ……ね?」


 さらさらと肩口に流れていく黒髪。恥ずかしげに頬をかいて首をかしげる七瀬は、この前のことを思い出したように、伏し目がちになる。

 好きな人の一番になれるように、七瀬は頑張った。

 髪を切って、性格も彼の好みに合わせて。

 しかし、努力はたった一言の暴言によって砕かれてしまった。

 大きな傷が七瀬の胸に残った。今もきっとその痛みに耐えながら、心配をかけないように笑顔を作ろうと頑張っているのかもしれない。

 俺にだけは、そんなツラい顔をしなくていいのに。敦人は思いながら、しかし自分がどうやって彼女の支えになればいいのかわからなかった。

 代わりに湧き上がってくる、七瀬の好きだった先輩への怒りと嫉妬。

 狂おしいほどに憎く、妬ましい。黒い感情が胸に渦巻く。


「いや、似合うよ」


 だからか。先輩に対抗するように、敦人は口を開く。


夏乃なつのねえよりも似合ってる、と思う。俺個人の感想だけど……」


「……あはは、お世辞はいいよ。鏡見て似合わないの知って……」


「お世辞じゃないって!」


 敦人は声を荒げた。


「本当に。本当の本当に似合ってるって思ってるから」


「……」


 夏乃は妹の七瀬と違ってアクティブだ。何をするにも全力で、暴走しがちなところが玉にきずだが、彼女の天真爛漫さには楓をはじめ敦人、七瀬も引きずられてしまう魅力があった。

 だからこそショートが似合う。男勝りな夏乃に比べると正直、七瀬は弱い。

 しかし、七瀬の髪はセミロングだ。姉とは違う。女の子らしさをふんだんに含めて、姉とは違う路線でいいのだ。

 自分で思うより、他人からすればかわいかったりするものなのだから。


「本当に……似合ってる?」


 確かめるように、七瀬が問うてくる。すかさず敦人は頷き、顔を見上げる七瀬の瞳を見つめた。数秒と持たず、ふいと顔を逸らす敦人。


「じゃあ俺、行くから」


「え、ちょ……もう行くの?」


 恥ずかしさのあまり、すぐにでもその場を離れたかった。だが、七瀬に袖を掴まれて動けなくなる。振り返れば、彼女は難しい顔をして何か口にしようとしていた。


「あ、あのさ……敦人」


「ほらっ、俺……楓さんに委員の仕事、任せちゃってるからさ」


 慌てて、敦人は逃げの一手を口にした。卑怯なのは知っている。でも、使わなくてはいけなかった。名残惜しそうに、七瀬の手が袖から離れる。


「そ、そっか……そう、だよね。そうだった……足止めしちゃいけなかったね……」


 自分に言い聞かせるように口にする七瀬は自分の髪を撫で、少しだけ頬を緩ませた。薄いチークでも塗っているのか、その頬はほんのりと朱色に染まっている。


「じゃ、じゃあまた明日ね?」


「ああ、また明日……」


「元気がないよ? 敦人。もっと声出さないと!」


 元気に挙手する七瀬は、リュックサックを背負い直す。お尻の辺りで跳ねる大きめのリュックサックには、小さなぬいぐるみがぶら下がっていた。


「……」


 逃げることを選んだ後ろめたさに潰されそうになりながら、頭の上で大きく手を振る七瀬から一歩下がって、敦人は苦笑いを浮かべる。


「それじゃあ、行くよ」


「うん。頑張って」


 七瀬の笑顔から視線を切って、敦人は拳を握りしめる。

 まだ気持ちを伝えていない。

 臆病な自分が顔を出して、また今度にしようと図書室へと急かす。けれども、足は動かなかった。踏み留まろうとしているのは、自分の意思か。はたまた、怖気づいているだけなのか。

 階段へと踵を返す敦人の背を見つめ、七瀬は息を吸い込む。


「敦人!」


 あの時とはトーンの違う名前を呼ぶ声。

 弾かれるように振り返れば、両手を振って微笑む七瀬の姿が飛び込んでくる。


「ありがとね。その……ちょっとだけ元気出た」


 ほんの少しだけ、はにかむようにして笑う七瀬。

 その姿を一瞬だけぼんやりと見つめていた敦人は、片手を挙げるだけして階段を下りる。

 感謝された。それなのに、なぜか胸にはきゅっと締めつけられるような痛みが走る。

 だけど、この痛みは嫌なものじゃなかった。

 嬉しい。痛みを感じて喜ぶのは違う気がするが、それしか言葉が見つからない。


「俺も……元気出たよ」


 階段を下りつつ、敦人は呟く。

 気持ちは伝えられなかった。それでも、七瀬が元気になってくれたのならば万々歳の結果になったのではなかろうか。

 敦人はいつの間にかスキップをしていた。図書室の閉室作業に従事させられることになった楓と、我妻教師にこの後、正座させられることになるとは夢にも思わず、その足取りは軽く、笑顔を浮かべて。


          ☆


「……似合ってる、か」


 嬉しそうに、口にされた言葉を呟いてみる。

 敦人から褒められることになるなんて思わなかった。完全に意表を突かれた。

 だからだろうか。少しだけ、胸がざわざわする。ドキドキする。

 小さな胸の高鳴りが、七瀬を支配する。


「な、ないないっ! 敦人とかっ……幼馴染みだし……」


 男としては見られない。昔からそうだった。

 一ヵ月違いの誕生日。先に生まれたから、七瀬は姉のように敦人に振る舞うことが多かった。姉の夏乃の立場が羨ましかったのもあったのかもしれない。

 でも、本当は――

 ぶんぶんと振っていた首を止めて、足元を見つめる七瀬。

 自分の中に灯された種火が水をかけても消えてくれないことに気づく。

 これは、先輩の時とは違う。


「ダメだよ、私は……」


 両手で胸を押さえて、七瀬は敦人の去った階段を見つめた。

 また明日。そう言って別れた彼の顔を思い浮かべるたび、頬が火照る。

 姉から惚れやすいと言われ続けているが、これではビッチじゃないか。惚れやすいどころではない。誰にでも、褒められたら惚れてしまうのか。この不埒者め。

 リュックサックが急に重たくなったように感じた。教科書から何から学校に置いてあるから、ほとんど何も入っていないというのに。

 ため息が溢れそうになる。これは、ダメなやつだ。


「しっかりしろ、橘七瀬! ビッチじゃない!」


 両頬をバチンッと両手で叩いて、大きく深呼吸する。

 しかし胸にわだかまる熱は、これでも消えてはくれない。


「ああ、もう……やだなぁ、もう……わあああああああああっ!」


 無意味に叫んで、敦人のあとを追うように階段を駆け下りた。

 追いつかないように、速度は調整して。声量もまた小さくして。

 家に帰って寝よう。

 もやもやが消えない。だったら寝てしまえばいい。寝れば消える。大体のことは。

 七瀬は走った。図書室とは反対の生徒玄関まで急いで走り、息が切れると共に声も枯れた。荒い息だけが喉を通る。

 おかしい。一度。たった一度だけ、褒められただけで?

 どくんどくん。鳴りやまない心臓は走ったせい。走ったせいなんだ。


「……っ」


 幼馴染みには恋をしない。敦人になんて、恋をするわけがない。

 たった一度、褒められただけで。


「いやいや、嘘だぁ……ねえ?」


 この高校の一年の生徒玄関前には、廊下を隔てて保健室がある。保健室の前壁には今日の自分の状態を見られるように、と姿見が埋め込まれていた。入学当初は必要なくないかなと思ったものだが。


「……ま、マジかぁ……」


 衝撃のあまり、七瀬は笑ってしまう。

 夕陽に当てられたわけでも、どこかにぶつけたわけでもないというのに、熱に浮かされたように頬を染める自分が姿見に映っている。

 その顔は、紛れもなく人に見せられない顔だ。

 恋をしている時の、自分の顔。


「……は、はは」


 敦人に惚れてしまった顔をした七瀬が、そこには映っていた。

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